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モジモジ君に関するj708のブックマーク (5)

  • セカンド・ハーフに向けて──教基法「改正」を受けて - モジモジ君のブログ。みたいな。

    まずは運動の最前線で頑張っていらした方々、id:annntonioさんをはじめ、多くの尊敬すべき人たちが街頭に、国会前に集結し、その存在を示してくれました。こちらで出来ることをやりながらも、やはり国会前にこそ人が沢山集まってくれていることに、その存在を無視できないような形できちんと示してくれていることに、大変勇気付けられながらここまできました。残念ながら「改正」案は可決されてしまいましたが、決して情勢を楽観するつもりはないのですが、しかし、実りの多い運動でもあったと思います。簡単ながら、今後のためにいろいろ整理しておきたいと思います。 こういうことを書くと怒られてしまうかもしれませんが、正直、春の国会で「改正」されてしまうだろう、と踏んでいました。活動量がゼロだったわけではありませんが、あの頃はどこか空しい気持ちを抱えつつ、惰性でやっていた気がします*1。諦めない仲間や先輩に励まされ、徐々

    セカンド・ハーフに向けて──教基法「改正」を受けて - モジモジ君のブログ。みたいな。
    j708
    j708 2006/12/18
    [ISBN:][日記][ID][iD]
  • 多元的社会にある多元的でないもの - モジモジ君のブログ。みたいな。

    多元的社会だと言われる。つまり、多様な価値観が互いに自己主張をぶつけあっている様のことを言っているらしい。そこでは、それぞれの価値観が等しい価値を持つかのように振る舞い、どの立場も絶対的な正しさを標榜しないことがマナーとされる。「相対主義」という言葉は知らなくとも、ここに述べたような相対主義的な態度は、教条主義者を除くほとんどの人が身につけている知的態度でもある。教条主義的態度は論外として、こうした相対主義的態度は、それに較べてどのようにマシな態度であるのか。 生きている存在は、私を見て、そして言葉を発する。「私を見る」とはある程度比喩的な言い方であり、目の見えない人は、私の気配を感じる、その気配の方向へと顔を向ける、というやり方で、私のいる空間を、広い意味において「見る」。それは「私の(あるいは私ではない誰かの)存在を捉える」ことを意味する。同様に、「言葉を発する」もある程度比喩的な言い

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  • 政治の生産性 - モジモジ君のブログ。みたいな。

    教基法、与党単独採決も=やらせ質問「つまらぬこと」−自民・二階氏@Yahooニュース 自民党の二階俊博国対委員長は10日夜、那覇市で講演し、教育法改正案について「国会の会期もある。いつまでも慎重審議で(野党に)引きずられていたら、政治の生産性が上がらない」と述べ、与党単独での採決も辞さない考えを示した。 また、二階氏は、野党がタウンミーティングでの「やらせ質問」などの真相解明が先決としていることに対し「教育法を60年ぶりに改定しようとしている。それに比べたらやらせがあったなんてつまらないことだ」と語った。 via. http://d.hatena.ne.jp/annntonio/20061111/1163223189。 annntonioさんは「「生産性」という偏った見方と判断になじむ案件ではない」という言い方をしているけれども、この言い方はいただけない。「何の生産性か」と問わなけ

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  • 教育を行政が支配するとどうなるのか - モジモジ君のブログ。みたいな。

    教育が行政を支配するとどうなるのか。つまり、教育法が与党案の線で改正されるとどうなるのか。私たちはそのサンプルを既に知っている。教育行政がどれほど無知で無責任で狡猾で嘘つきであるのか。この10月に出たばかりのだが*1、国旗・国歌法制定以来の経緯が、丁寧な実例とともに整理・紹介されている。 子どもが見ている背中―良心と抵抗の教育 作者: 野田正彰出版社/メーカー: 岩波書店発売日: 2006/10/13メディア: 単行 クリック: 1回この商品を含むブログ (6件) を見る 目次は次のとおり。右側に簡単な内容を紹介。 Ⅰ 「心の教育」が学校を押しつぶす 「心のノート」など心理主義的ナショナリズム導入の契機となった1998年中教審答申の批判。 Ⅱ 「民間人校長」は、なぜ自殺したのか 「民間人校長」をトップダウンの教育行政貫徹の道具として扱う教育行政の実態。 Ⅲ 「君が代」強制によって、

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  • 給食とか、公費でやれよ - モジモジ君のブログ。みたいな。

    http://d.hatena.ne.jp/terracao/20061001/1159715025 教育費は無償化は前提。とすれば、学校行ってる間の生活も支えなければ学校に行けないのだから、給費も教育費と含めて無償化に、というのは決して変な話ではない。実際、日以外の先進国で「奨学金」と言えば、学費の他に学業に専念するための生活費も含めて考えるのが当然だろう。・・・というような話とは全然別のこととして、お金集めるだけで手間隙(つまりお金)がかかるのに、なんでチマチマチマチマ用途別にばらばらで集めるんだろうか。「生活保護で給費を支給」とか、給付に一手間、給費の徴収で一手間、あまりのバカバカしさに泣けてくる。 挙句、「学校側の再三の説得」ってのも、当然勤務時間に行くわけだよね。あるいは、サービス残業?どちらにしてもヒドイ話だ。「教員がポケットマネーで負担」というのは、一体、なんなんだ。

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