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ブックマーク / noon.serio.jp (11)

  • 人殺しの血 (セックスなんてくそくらえ)

    あなたは人を殺したことがあるだろうか? 稿はこのありふれた問いから始まる。私noon75は人殺しの孫である。この話を母から聞いたのは私が十八歳の頃のことだった。しかし私がそれで良心の呵責に苦しめられたとか、罪の意識を感じたとか、孫として贖罪しなければならないとか、そういった世間という狭い社会が求めるチープで、凡庸で、退屈な道徳話と私のブログというものは縁がないことは、皆さんご存知の通りであり、まさにそのとおり若かった私は特に何も感じなかった。ただ母が言うことだから事実なのだろうと思った。例えば殺生というものは我々が毎日やっていることであり、例えば菜の花が咲き乱れる野原を歩けばそのの下では何匹もの虫や蛙や小さな生き物を踏み殺しているのである。それが生きるということであり、人か動物なのかという生物学的な違いは質的には些細なことである。人だから特別というのは人間が作ったフィクションであり、

    j708
    j708 2007/01/14
  • アゲ・アゲ・ファッキンニューイヤー★ (セックスなんてくそくらえ)

    明けても暮れてもファッキンファッキン 根拠のないこと書き散らし、ヘイヘイ! 嘘と矛盾とごまかしとブログで叫んでありがとう バカでも読めるブログを書いて、能無しululun目指しましょう オナニーパイズリアナルセックス、女夢想して一人きり パンツ下ろして腰振って、今年も愚かで貧しい新年 アゲ・アゲ・ファッキンニューイヤー、Yeah! (朗読) まんこまんこまんこまんこまんこまんこまんこまんこまんこまんこ、ファックファックファックファックファックファックファックファック、やりたいやりたいやりたいやりたいやりたいやりたいやりたいやりたいやりたい、えー、はてなの皆様、遅くなりましたが、新年あけましておめでとうございます。 殺しても生きてもファッキンファッキン 左翼だ右翼だポリシー決めろ、ヘイヘイ! カタカナ英語にエセ知識書きなぐってはニューブロガー ほのめかしたら天下一流、小利口弁

    j708
    j708 2007/01/07
  • 昨日の書評エントリについた全コメントとはてなブックマークコメントに無差別レス爆撃 (セックスなんてくそくらえ)

    ブログ界における最後の良心と呼ばれることもあるセックスブロガーnoon75は、まったく意義もなく目的もなく、無意味で無価値で、まったく非誠実と思われる行為に挑戦したいと思う。どこかで誰かがやっていたような気がするが、あるブログのエントリについたコメント全レス、該当エントリについたはてなブックマーク全レスである。さて、それでは始めよう。 参考URL:もっとも空疎なネットの代弁者、平野啓一郎-『ウェブ人間論(梅田望夫、平野啓一郎)』書評 山口 浩: ご紹介いただいてありがたいのですが、ブログ名まちがってます。直してください。 投稿者: 山口 浩 | 2006年12月18日 23:28 日時: 2006年12月18日 23:28 間違っていたブログ名を修正、おまけに引用した部分を太字にした。 ゆきち: また、Wikipediaの記事を鵜呑みにしている人が...。あれは、盗作じゃなくて、新

  • ブログにおける腰抜けの5つの特徴 (セックスなんてくそくらえ)

    現実でも似たようなことが言えるはずだが、基的にはギャラリーの視線によって勝敗が決するブロゴスフィアでは、自分がいかに腰抜けではないか、いかに勇気があって、いかに知性のある人間かということを、常に読者にアピールする必要があり、なぜかというと読者と言うものはバカであり、マヌケであり、エントリの最初の一行だけを読んでコメントする輩が全体の99.99パーセントを占めるからである。 またこのような他人の視線にさらされるブログにおいて、腰抜けでフヌケでヘニャチンで小心者な人々は、自分の腰抜けぶりをさらけ出しては生きていけないのであって、ナイーブで繊細でセンシティブでワンダフルな感性を持っている彼らは、自衛のために様々な逃げ道と言うものを考案し、つまり自分が腰抜けではないかのように見せかけるために、様々なテクニックを駆使して今日も平凡な日々を過ごしているようである。 ざっとブログを見渡した限りでは、次

  • プラスチックの涙 (セックスなんてくそくらえ)

    痛みが存在しないという痛みが、僕らを苦しめている。 ブログに限ったことではなく、いわゆる大衆作品、または漫画、アニメ、ドラマ、はてなブックマークの人気エントリには、安っぽい偽物の死と悲しみに満ち溢れている。そこに描かれた事実はもはや身を切るような苦痛であることをやめた、ただの消費されるコンドームであり、百円ライターであり、fromdusktildawnであり、どこにでもあるありふれた、何度でも反復されうる、凡庸で退屈な悲しみであり、絶望であり、テープに録音された無味乾燥なオーガズムの喘ぎ声のようにもはや聞き手のペニスを条件反射的に半勃起させるだけのまがい物であり、快楽の影でしかない。 愛する者を失った痛みという、それそのものは切実であるはずの悲しみもまたパッケージ化され、商品化され、テンプレート化され、誰でもそれについて書くことができるように薄められ、毒抜きされ、気の抜けたコーラのようにぼ

  • 献本をされる予定のない799万9996人のブロガーたちに捧げるバラード (セックスなんてくそくらえ)

    嫉みにそねみにやっかみに、無料でをもらって書評 屋に行っても買えはせぬ、コマーシャル用無料 コーヒー一杯生活費削って、買いに行っても売ってなし 憎い憎いぞ特権階級、エントリ書いて金儲け。 さあブログを始めよう、ただでももらえます。 さあ実名公開しよう、信頼されるよなにせ実名 さあ住所も公開しよう、いつでも献いつでもセックス さあエントリを書こう、当り障りのない感想文を。 もらったからには誉めねばならぬ、何はともあれ流行品 行き交うトラバに美辞麗句、あなたの絶望わかります たとえ著者に興味なくとも、凄いといわねば面子も立たず 署名も入って写真も入って、プライド満足サイフ満足。 まんこを売って金を得て、ブログを売って金を取る ああ無常なりブログ売春、魂売って書評の無価値 カネとまんこと資主義、エントリ一文字それいくら? 股を開いて感想文、読む価値のないブログ

  • 僕の名は正午 (セックスなんてくそくらえ)

    その名前はどこにもない時間、朝と夜の狭間、何人でもなくどこにも存在しない架空の一瞬を由来としており、僕はものを書きはじめた十八歳の頃、祖父がつけてくれたという仰々しい名を捨てて、自分をそう名づけたのだった。僕という魂が空虚そのものであり、どこにも存在しないのだとはっきりと理解したのは、日に帰ってきてからすぐのことである。帰るべき故郷というものがフィクションであると気づかざるを得ない人間というのは、ある資質に恵まれているのかもしれないが、人生のある一時期において、それが不幸なことであると思ったこともあった。だがトロツキーがかつて言ったように、故郷を持たないものこそ幸いである、なぜなら地球のあらゆる国が、彼の故郷になりうるからであるということが可能なのであれば、僕は幸福な人間であり、また子供の頃強制的に多言語環境に放り込まれることによって、結果としてほかの人間に比べてほんの少し、優れた言葉

    j708
    j708 2006/12/07
  • 芸術家と酒を飲む

    先日、あるアメリカ人の芸術家と酒を飲んだ。酒を飲みながら感銘を受けた言葉を以下に紹介する。 以前作ったものより、さらに良い物を作ろうとしないでどうするんだよ。さらによいものを目指さなければ、お前がそこにいて芸術をやっている意味はなんなんだ。 才能? 文才? くそくらえだ。そんなもんなんの意味もない。パッション、情熱だよ。パッションがすべてだ。それがすべてを決める。僕はパッションがない奴はいらない。 いいか、作品にはいい出来のものと悪い出来のものがある。それはものを作っていく上でしかたのないことだ。誰も毎回最高のものなんて作れやしない。だから努力するんだ。全力で。 一人でいい。お前の作品を見た人間が、その日その瞬間を忘れ得ないものとして記憶してくれれば、それで芸術は完成する。僕はそれができればいつ死んでもいい。 常に問い掛けるんだ。なぜお前はそこにいてものを作っている? 何がお前にものを書か

  • ブログ七つの大罪 (セックスなんてくそくらえ)

    ブログにおける七つの罪、あるいはブロゴスフィアの愚かさと罪を体現している七人のブロガーたちについて、僕は語ってみたいと思う。幼く、若く、男を知らない処女のようなウブなインターネットの中で、まともにものを考えるということはどういうことか。たやすくセミプロライター同士の派閥争いの道具として利用され、自称ジャーナリストたちの野心を実現する広告塔となり、性欲をもてあます男たちの女を買うための売春ツールに堕してしまう、まったく自分がしていることに無自覚な、無邪気で純粋なブロゴスフィアのために、僕は書いてみたいと思う。 だがしかし、これは僕らがいつか来た道だ。僕らの愚かさはさほど変わっておらず、新しい技術によって僕たちの姿が変わったかのように誤解するのはさらにバカバカしいことである。ブログ七つの罪。傲慢、嫉妬、憤怒、怠惰、強欲、暴、色欲と一般的に呼ばれる七つの罪についていま考えることは、かつて来た

  • あなたを奪う (セックスなんてくそくらえ)

    読みやすい文章、わかりやすいエントリというものがある。 「セックスなんてくそくらえ」はそのようなものを目指さない。 noon75が書き記すのは読解を必要とする文章である。 ためになる文章、学ぶことの多いエントリというものがある。 「セックスなんてくそくらえ」はそのようなものを目指さない。 noon75が書き記すのは読むことで何かを失うような文章である。 人に勇気を与える文章、生きる力を与えるエントリというものがある。 「セックスなんてくそくらえ」はそのようなものを目指さない。 noon75が書き記すのは絶望を届ける文章である。 多くの読者を魅了する文章、万人にとって蠱惑的なエントリというものがある。 「セックスなんてくそくらえ」はそのようなものを目指さない。 noon75が書き記すのは、あなたを奪う文章である。

    j708
    j708 2006/11/22
  • デートにジーンズを履いてくる女を愛さない理由 (セックスなんてくそくらえ)

    ジーンズという土方の作業着をデートに着てくることは、ますます多様化する社会の一つの形式として認められるべきものなのかもしれないと思わないことはないが、例えばつまりインド女と付き合っていればサリーを許容しなければならないという言い方も可能であるし、「ありのままの自分、飾らない自分」といった三流大衆紙にありがちなコピーを無邪気にそのまま鵜呑みにし、「当の自分」が存在すると思ってしまっている数多くの愚かな人々にとって、ジーンズという服を着て「ありのままの」自分を演出したがるウブで世間知らずな女たちという存在は、こういったセックス体験も少ない愚かな人々が女に対して抱く幻想をほどよく満たしてくれる、まったくもって都合のよい存在なのだろうなと思われるが、現代の日社会においてこれから付き合おうとしている、あるいは付き合って間もない男と女の関係性において、女のためにまともな事の場所を準備しようと様々

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