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YoutubeとWinnyとblogに関するj708のブックマーク (3)

  • プラスチックの涙 (セックスなんてくそくらえ)

    痛みが存在しないという痛みが、僕らを苦しめている。 ブログに限ったことではなく、いわゆる大衆作品、または漫画、アニメ、ドラマ、はてなブックマークの人気エントリには、安っぽい偽物の死と悲しみに満ち溢れている。そこに描かれた事実はもはや身を切るような苦痛であることをやめた、ただの消費されるコンドームであり、百円ライターであり、fromdusktildawnであり、どこにでもあるありふれた、何度でも反復されうる、凡庸で退屈な悲しみであり、絶望であり、テープに録音された無味乾燥なオーガズムの喘ぎ声のようにもはや聞き手のペニスを条件反射的に半勃起させるだけのまがい物であり、快楽の影でしかない。 愛する者を失った痛みという、それそのものは切実であるはずの悲しみもまたパッケージ化され、商品化され、テンプレート化され、誰でもそれについて書くことができるように薄められ、毒抜きされ、気の抜けたコーラのようにぼ

  • 「法」と「制度」について 〜 YouTubeを例題として - アンカテ

    アンカテ(Uncategorizable Blog) - YouTubeと小泉郵政改革の共通点は「合意形成プロセスの再起動」の続きのメモ。 阿部謹也さんが言っていたけど、ヨーロッパでも中世のある時点まで、お話の中の登場人物には自由意思がなかった。たとえば、誰かが殺されて親族が仇討ちする時、共同体の意思(ルール、しきたり)がそのまま個人の意思であって、それは、共同体の意思と個人の意思が一致しているというより、個人の意思が存在してなくて、個人は共同体の細胞みたいなものであったと。 その状態では、個人=市民は存在してなくて、個人=市民と社会=共同体の葛藤も存在してなくて、両者を隔てる壁もなければ、両者を調停する法律も不要である。だから、国家というのは、その時には存在していない。 個人=市民という意識が発生してはじめて、個人=市民 VS 社会=共同体の葛藤が発生して、それを調停する機関として国家が

    「法」と「制度」について 〜 YouTubeを例題として - アンカテ
  • キャズムを超えろ! - TV番組の著作権問題がネットユーザから軽視されているのは地方で『ハルヒ』が見れなかった反動か!?

    休日はかる〜いネタをひとつ。 「WinnyはだめでYouTubeは何でOKなの?」という話を見掛けた。結論から言うと「音楽ファイル共有はだめっしょ」「あ、映画もだめね」「PCアプリの共有なんてもってのほか」「個人情報漏れとかマズー」なんだけれど、「え?TV番組?それは便利に共有できる仕組みがあってしかるべきだねぇ」って思ってるからじゃなかろうか。 まぁ推測の域を出ないが、どうもそういう匂いがする。 商業的な権利なんてものは、社会全体の利益に反しない程度に守られればいいものである。 http://kazuho.exblog.jp/tb/5260622 こんな意見もあるようだが、当然のことだが音楽映画PCアプリをWinnyで交換されてしまうと著しく権利が損なわれ、メーカーの存続が危ぶまれる事は必至だ。しかしながら、TV番組がYouTubeでシェアされたところで、彼らのビジネスモデルは大きく

    キャズムを超えろ! - TV番組の著作権問題がネットユーザから軽視されているのは地方で『ハルヒ』が見れなかった反動か!?
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