2017年5月11日のブックマーク (2件)

  • 子供は身近な人の『死』を理解できるのか?『死』を理解させる難しさ。 - よゆうのよっちゃん

    連休中に私の祖母が急逝しました。 昨日まで元気で軽口をたたき合い、別れ際の「またねー!」が最後の挨拶になるなんて思いもしないほど急に、祖母は逝ってしまいました。 その日の朝、保育園で作ったこいのぼりを入院中の祖母に見せに行こう!と娘と相談していて、母に連絡をとったところ、 「ばーちゃんが心肺停止して心臓マッサージしてるって、今病院から連絡があったの。」 病院に着いて詳しい話を聞いたらまた連絡するから、と電話を切り、たったの1時間後。 「今息を引き取ったよ…」 信じられない気持ちで報告を受けました。 「当に眠っているみたいな顔だから、○○(娘の名前)も連れて病院に来れる?ばーちゃんも○○(娘の名前)に会いたがっていたから。」 ひーばーちゃんと娘 祖母は体が不自由で生活全般に介護が必要なため、施設に入所していました。 私は0歳の頃から娘を連れて施設に通っていましたし、連休などで祖母を実家に戻

    子供は身近な人の『死』を理解できるのか?『死』を理解させる難しさ。 - よゆうのよっちゃん
    jeha-college
    jeha-college 2017/05/11
    今はまだ小さいのでうまく言葉にできないかもしれませんが、小さい子供でも身近な人の死は印象に残ると思います。きっと大きくなったときに思い出し、人生を考えるきっかけになると思います。
  • 2017.5.11 「偶有性」④ - カメキチの目

    カメキチの目 先に「他でもあり得た」といったけれど、 それは自分が自分であった必然性はないということだと茂木さんは述べていた。 彼(彼女)とめぐり会っていなく、他の彼(彼女)といっしょになっていたかもしれない。あの学校に行っていなくこっちの学校へ、この会社に就職していず、あっちの会社にいっていたかもわからない。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー その際、私が他の誰かでもあり得たとき、その誰かと私は、同じように人として尊重されなければならない。 彼(彼女)と私は「等価」なのである。対等である。 つまり、「もし私がAさんだったなら…」 Aさんの気持ち、立場をていねいに想わなければいけないということだろう。 茂木さんは書いている。 「…このような仮想の背景にあるのは、他人にも自分と同じようにうち震える意識があるという前提である。『今、ここ』に自分がいるという逃れようのない思い。

    2017.5.11 「偶有性」④ - カメキチの目