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内田樹と智に関するjiangmin-altのブックマーク (6)

  • 学ぶ力 - 内田樹の研究室

    「学ぶ力」という文章を書きました。中学二年生用の国語の教科書のために書き下ろしたものです。が届いて、読んでみたら、なかなか「なるほど」と思うことが書いてあったので(自分で言うなよな)、ここに再録することにします。 中学二年生になったつもりで読んでね。 「学ぶ力」 「学ぶ力」 日の子どもたちの学力が低下していると言われることがあります。そんなことを言われるといい気分がしないでしょう。わたしが、中学生だとしても、新聞記事やテレビのニュースでそのようなことを聞かされたら、おもしろくありません。しかし、この機会に、少しだけ気を鎮めて、「学力が低下した」とはどういうことなのか、考えてみましょう。 そもそも、低下したとされている「学力」とは、何を指しているのでしょうか。「学力って、試験の点数のことでしょう」と答える人がたぶんほとんどだと思います。ほんとうにそうでしょうか。「学力」というのは  「試

  • 歩哨的資質について - 内田樹の研究室

    毎日新聞社が高野山金剛峯寺で開いているセミナーで一席おうかがいしてきた。 「公共性の再構築」という演題だったのだが、それは3・11以前に出したものなので、もう少し踏み込んで「社会制度の作りなおし」というテーマで70分お話しする。 このところ繰り返し述べている「存在しないもの」と「存在するもの」のフロントラインにおけるふるまいということをまた申し上げる。 私たちの世界は「存在しないもの」に囲繞されている。 宇宙の起源を私たちは知らないし、宇宙の果てに何があるか(というより「何がないか」)も知らない。 時の始まりを知らず、時の終わりを知らない。 『ヨブ記』で主はヨブにこう問う。 「わたしはあなたに尋ねる。わたしに示せ。 わたしが地の基を定めたとき、あなたはどこにいたのか。 あなたに悟ることができるなら、告げてみよ。 あなたは知っているか。 だれがその大きさを定め、 だれが測りなわをその上に張っ

    jiangmin-alt
    jiangmin-alt 2011/08/08
    "「どうふるまってよいかわからないときに、どうふるまえばよいかがわかる」能力が必要なのである。その「センサー」を研ぎ澄ますために経験的に効果的な方法が存在する。宗教的な修業や武道の稽古は本来そのための"
  • 暴言と知性について - 内田樹の研究室

    復興相が知事たちに対する「暴言」で、就任後わずかで大臣を辞任することになった。 この発言をめぐる報道やネット上の発言を徴して、すこし思うことがあるので、それについて書きたいと思う。 松大臣が知事に対して言ったことは、そのコンテンツだけをみるなら、ご人も言い募っていたように「問題はなかった」もののように思われる。 Youtube で見ると、彼は復興事業は地方自治体の自助努力が必要であり、それを怠ってはならないということを述べ、しかるのちに「来客を迎えるときの一般的儀礼」について述べた。 仮に日語を解さない人々がテロップに訳文だけ出た画面を見たら、「どうして、この発言で、大臣が辞任しなければならないのか、よくわからない」という印象を抱いたであろう。 傲慢さが尋常でなかったから、その点には気づいたかもしれないが、「態度が大きい」ということは別に政治家が公務を辞職しなければならないような

  • 『邪悪なものの鎮め方』内田樹

    ブログを拝読することはあっても、考えてみると内田樹さんのを買ったことがない、と言ったら、近しい御方に「あるやろっ」とツッコまれました。 確かにありました。『私家版・ユダヤ文化論』等の、フランス文学者あるいは「ゲンダイシソーの人」として内田先生の著書です。 でも、その後「養老孟司化」した内田氏の著書は、キチンと読んだことがありませんでした。 そう、こういうのを「養老孟司化」と呼んでます。どこぞの道を極めた御方が、「コイツに世の中語らせると面白いぞ」と発見されて、ヨン様からイラク戦争まで語り出してご意見場になる現象のことです。 「養老孟司化」するのは、確かに当に頭のキレる方なのが普通ですし、少なくとも最初の頃はとても面白いです。亀仙人の甲羅を外した悟空みたいに、専門の楔から放たれた賢者は、もう十メートルくらいジャンプしまくりです。 でも、そういう人も聖人君子ではないですし、場合によっては既

    『邪悪なものの鎮め方』内田樹
  • 高橋源一郎さん渋谷陽一さんと乃木坂でイタリアンを食べつつ小沢一郎について語る - 内田樹の研究室

    早起きして、何通か手紙を書き、メールに返信し、締切をすぎた原稿を必死で書き(こればっか)、朝ごはんをかき込んで、銀行へ。 土地の登記をするのである。 そう、私はついに道場用地を買ってしまったのである。 JRの駅の北側、85坪。 「私が買った」というより、「内田家のみなさま」のご支援により「たなぼた」的に手に入ったという方が正しいのであるが、それも私が常日頃から「道場が欲しいなあ」と神経症的につぶやいていたのを、母や兄が憐れに思って、「そこまで言うなら、望みをかなえてやろう」ということになったのである。 お母さん、お兄さん、ありがとう。 道場の体の方は私の責任で建てなければならないのであるが、土地購入に貯金のほとんどをはたいてしまったので、これからまたこつこつ貯めないといけない。 でも、多田塾甲南合気会の会員たちは餌を、待つひな鳥のように口を開いて「どーじょーどーじょー」とさえずっているの

    jiangmin-alt
    jiangmin-alt 2010/03/05
    "私はついに道場用地を買ってしまったのである。 JRの駅の北側、85坪"
  • 証明問題とニセ科学 - 赤の女王とお茶を

    さて、内田樹を巡って何度かお話した結果、どうしても言葉のかみ合わない方が「数学屋のメガネ」のid:khideakiさんです。 前回http://d.hatena.ne.jp/sivad/comment?date=20060316#c、「khideakiさんの問題は、自分または内田氏に都合のよい解釈だけを持ってきて「論理的だ」とおっしゃる点です」と書いた説明をお望みなので、それに関連してちょっと書いてみます。 例えば典型的なのが以下のような論法です。 http://d.hatena.ne.jp/khideaki/20060318/1142642494 <「労働」は「贈与」である> という主張は、その批判者には合理的なものとして受け取られていないのだろうか。この主張を合理的なものと受け止めれば、その合理性の中に、例えば現実とは重ならない部分があるとか、前提としている条件がおかしいとか、論理的な

    証明問題とニセ科学 - 赤の女王とお茶を
    jiangmin-alt
    jiangmin-alt 2006/03/20
    なるほど!
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