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森岡正博に関するjiangmin-altのブックマーク (6)

  • 生は最も意識の低い人々、最も深く眠っている人々に支配されている。

    たとえば、人間の生は意識を有する一群の人々によって支配されていると言うことができるだろうか? 彼らはどこにいるのだろう? 彼らは何者なのだろう? 我々はそれとちょうど正反対のことを目にしている。つまり生は最も意識の低い人々、つまり最も深く眠っている人々に支配されているのだ。 生において、最良で最強、最も勇気ある諸要素が優勢であるのを目にしていると言うことができるだろうか? とんでもない。それどころか、あらゆる種類の粗野や愚かしさの優勢を目にしている。また、単一性への、統一への熱望が我々の生の中に見てとれると言えるだろうか? もちろん言えはしない。我々はただ新たな分裂、新たな敵対心、新たな誤解を見るばかりだ。 というわけで、人類の現況には、進化が進みつつあることを示すものは何一つない。それどころか、人類を個人と比較してみるなら、質を犠牲にして人格が、つまり人工的で真実でないものが生長してい

    生は最も意識の低い人々、最も深く眠っている人々に支配されている。
  • 今は昔、男ありけり - jun-jun1965の日記

    まとめ 1993年 吉澤夏子が『フェミニズムの困難』を刊行。当時38歳。ラディカル・フェミニズムには未来がない、というような批判で、フェミニストの間で評判が悪かったが、男たちには受けた。 1997年3月、同『女であることの希望』を刊行。アンドレア・ドウォーキンが『インターコース』で、テネシー・ウィリアムズの『欲望という名の市電』を論じて、あらゆるセックスは強姦である、と主張した、と言われていたのに対して反論し、ブランチはひどい目に遭わされて狂気に陥るが、愛のあるセックスはあると信じていたことが尊いと主張し、ラディカル・フェミニズムを批判。これも、男たちに受けた。 同年10月、私が、二つのの題名を併せて『男であることの困難』を刊行。中でフェミニズムを批判し「一夫一婦制は最高の家族制度である」として、結婚否定のフェミニストを批判。 1998年5月、『ちくま』で上野千鶴子が「宮台真司氏の「偏向

    今は昔、男ありけり - jun-jun1965の日記
    jiangmin-alt
    jiangmin-alt 2009/09/21
    ジェンダー論の歴史
  • 村上隆フィギュアは射精感覚の肯定か? - kanjinaiのブログ

    村上隆の男性型フィギュア作品が、16億で売れたらしい。Yahoo!ニュースなどでは、フィギュアの上半身の写真のみが掲載されている。しかしその写真の白いロープはどこから出てるの?と疑問に思った方も多かったのではないか。全身像は、たとえば、このURLで見ることができる(性的なので視聴は注意すること)。 http://image.blog.livedoor.jp/guideline/imgs/c/b/cb540919.jpg (左の方) 村上隆の"アート"を私は基的に評価しないが、この作品だけは、結果的な批評性において面白いと思った。端的に言うと、このフィギュアの全身の姿勢と表情は、射精の自己肯定感覚を表現している。しかしそれは、私が『感じない男』で書いたように、実際に男にはおそらくほとんどの場合に訪れることのない感覚なのである。君たちは、こういう表情で、ここまで誇らかに射精しているか? して

    村上隆フィギュアは射精感覚の肯定か? - kanjinaiのブログ
  • 中島義道『ひとを愛することができない』解説・森岡正博

    エッセイ 中島義道『ひとを愛することができない』角川文庫2007年2月 209~215頁 中島義道『ひとを愛することができない』解説 森岡正博 このをはじめて読んだときに、私はいささか暗い気分になった。愛について書かれた、ここまでひねくれたがあるのだろうか、ここまで自虐的で暴力的ながあるのだろうか。しかし、この奇書は、やはり名作にちがいないのだろうとも思った。なぜなら、これはたしかに真の哲学者によって書かれただからである。 哲学者とは何かとソクラテスは問われて、うとうとと眠りにつこうとしている馬にまとわりついて、その目を覚めさせようとするアブのようなものだと答えた。常識や慣習のうえに安住して惰眠をむさぼっている馬のまわりをぶんぶんと飛び回って、そのうるさい羽音でもって馬を眠らせまいとするアブのような存在、それが哲学者だというわけだ。常識的に考えて、そんなにうるさいアブは、徹底的に嫌

    jiangmin-alt
    jiangmin-alt 2008/01/04
    "倫理学者は、「対話」が大事だとかすぐに言うが、彼らは実生活でほんとうに対話しているのか。必要なのは「対話」について議論することではなくて、対話が必要なときに実際に「対話」することではないのか"
  • 森岡正博氏の講演会: ミルク・ティー

    先日(7月30日)、池袋で森岡正博さんhttp://lifestudies.org/jp/index.htmの講演会があったので聞きに行ってきました。 『生命学をひらく』という新刊が出たので、その紹介も兼ねた講演会でした。 一昨年に『無痛文明論』という大著が出て、現在私もその運営に関わっている<新ひきこもりについて考える会>の前身の<ひきこもりについて考える会>にも来てもらって、話を聞くことができました。 今回の『生命学をひらく』には、その時の講演が≪無痛文明とひきこもり≫と題されて収録されています。 前から気になっている方だったので、その一昨年の講演を聞いて以来、何冊か読みました。 ことに『無痛文明論』は圧巻で、現在の社会状況と個人の意識の関連性をダイナミックに描き、これでもかというほどにその特性と関係性を追及しています。 ですから、【ひきこもり】という現象に対しても、森岡さんは特に専門

    jiangmin-alt
    jiangmin-alt 2005/12/27
    「自分を棚上げにしない」; Carl Rogersに通じる。
  • 書かれなかったジェンダー論:セクハラ、フェミニズム、男性学、ウーマン・リブ

    論文 1997年頃(未発表) 書かれなかったジェンダー論のための前書き 森岡正博 私がフェミニズムに出会ったのは、一九八〇年代のはじめのころだ。 しかし、私がフェミニズムというものの真意を知ることになるのは、もっとあとのことである。親しい人々と傷つけ合いを繰り返すなかで、「女であるというだけで生きにくさをかかえている人たちがいる」ことを思い知らされた。そのとき、はじめて、私はフェミニズムというものが、なにを言おうとしているのかを理解したのだった。 そして私は、同時に、「私が男であるとはどういうことか」という重苦しい問いを突きつけられたのだ。私が男として生まれ、男として成長し、男としていまここに生存していることそれ自体が、女として生まれ、女として成長し、女としていまそこに存在しているあなたを苦しめているのではないか。私は加害者の意識にめざめた。男であることをやめたくなった。 しかしながら、そ

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