まどかは魔法少女の絶望を概念から、ほむらは現実から消す戦いを永遠に続ける最近、概念からの救済(何が正しい理かを変える)ってことがとてもとても大事だって「村正」をプレイして学んだ。頑張ればどうにかなることとと、努力する前提そのものが奪われていることは別次元の問題なのだよね。故に「まどかひとりに背負わせない」役割分担という点は非常に良い。そういえば、まど☆マギの母親の声が、村正では「ワルプルギスの夜」の役割を果たしていて、そのあたりすごい興味深いな。現実での努力には正当性という裏付けがいる。そうでなければ希望を持つことさえ許されない。存在さえ許されない。自己満足や世の反逆として切り捨てられる。個人の精一杯の努力が、ささやかな希望が、その価値をわからない人によってゴミのように扱われ、捨てられる。そういう経験が全くない人は居ないと思う。。「アンチ・マジカル」のような世界観、魔法少女そのものが社会に
ttp://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20110223/p1リベラルな方のある魔法少女「べき」論。<沙耶の唄のようなハッピーエンドを期待している>に同意な私としてはこういう10年前に見たわー的な思考とアニメがドッキング可能であるという事実がとっても新鮮。思考としては私が最も嫌いな部類に属するものであるため考えもしなかったが、アニメの脚本案とか作品論しては非常に面白い。なのでぜひDogDaysあたりでやって欲しい。まどかではやるな。俺はそんなまどかは嫌だ。 繰り返して言うが、私はこの意見が大嫌いであるが、嫌いだから認めないだけ。ひとつの論としてはとても面白いし、筋も通ってる。アリだと思います。 まずこの部分は同意。 私はこんな上手に説明できないが「コゼットの肖像」のイメージに近いので言いたいことはわかる。魔法少女の罪は「願うこと」である。彼女達は「願い」という罪を犯したた
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く