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ブックマーク / dongfang99.hatenadiary.org (7)

  • 当たり前の政治が欲しい - dongfang99の日記

    現在、「増税」をめぐって政界再編が起きようとしている。民主主義の政治において重要なのは適切な争点の設定であるが、まさに「増税」ほど不適切な争点はなく、日の政局の混乱および政治(という以上に民主主義への)不信、政策の停滞の元凶であると断言してよい。 ブログやツイッターなどで発言力の高い経済系の人が増税策に反対しているのは、消費税増税の景気や財政に対するネガティヴな影響の問題である。そうした問題は「科学」に属するので、学問的なスキルを身につけた専門家同士で冷静に議論してもらうしかなく、そこに政治的な判断の入り混む余地はなく、当然ながら選挙の争点にもなり得ない。 そうした専門家で議論されるべき増税の問題が、政治の争点として前面化するとどうなるか、既に日の現実が語っている。社会保障はもちろんのこと、景気や財政の話ですら重要性がなくなってしまい、「国民は我慢して増税を受け入れるべき」か、それとも

    当たり前の政治が欲しい - dongfang99の日記
  • 再び反緊縮派の立場から - dongfang99の日記

    「社会保障と税の一体改革」関連法案が衆議院を通過したが、「増税」をめぐって政局が大混乱に陥っている国は、おそらく日だけではないだろうか。ギリシアでもフランスでもアメリカでも、争点になっているのは「緊縮」の是非であって増税ではなく、むしろ世界の反緊縮派は(経済学者も含めて)富裕層増税を掲げている。日の「増税/反増税」は「緊縮/反緊縮」と緩やかにすら対応するものではなく、「増税しないと財政破綻」と「増税の前にやるべきことがある」の対立にすぎない。それぞれにおいて優勢なのは、公務員人件費を筆頭とする歳出削減を志向する緊縮派であり、反緊縮派はその中の少数派に甘んじて(というより甘んじているという自覚すらなくて)、政治的な勢力としてはまさに「存在しない」状態になっている。 野田政権のように「財政再建」の文脈を強く押し出す形の増税策は、つまりは国民に「我慢」を要求するということになり、そうなると官

    再び反緊縮派の立場から - dongfang99の日記
  • 「身を切る姿勢」は泥沼の道 - dongfang99の日記

    ここのところ、野田首相を筆頭に「増税の前に身を切る姿勢を」という主張が盛んであり、実際に議員定数や公務員の人件費などの削減が実行に移されようとしている。ここでも繰り返し述べてきたが、これは全面的に間違ったものである。議員定数や公務員の人員は、民意を政治的に代表する適切的な規模や、必要とされる行政事務の仕事量に応じて決められるべきであって、社会保障財源のための増税とはまったく関係のない問題である。 むしろ、国民の生産と消費における社会保障の比重が高まることは、一般には民意の複雑化・多様化をもたらし、行政の国民の生活保障に対する役割が増えることであるから、増員の主張が起こるほうが自然である。メディアはよく「議論が尽くされていない」「説明が足りない」などと政権与党を批判するが、議員定数削減の是非については、議論や説明が不足しているという以前に全くなされていない状態である。 そもそも、「増税の前に

    「身を切る姿勢」は泥沼の道 - dongfang99の日記
  • 「絆」の戦後史 - dongfang99の日記

    漢検の今年の漢字として「絆」が選ばれた事に関して、どこかの新聞で、いま人と人との結びつきとして理解されている「絆」は昔は否定的な意味であったという記事を読んで、「へえ、そうなんだ」と思い、ではいつ頃から肯定的な意味に変わってここまで普及するようになったのか、ということが気になって国会議事録や朝日新聞の記事タイトルなどを検索してみた。単に暇な時に興味があって調べたというもので、特に言いたいことや結論があるというわけではない。 確かに新聞や議事録などにおける1960年代頃までの用法を見ると、「絆創膏」「脚絆」(ゲートル)など以外には、身動きが取れない環境を指して、「羈絆(きはん)」などの意味で使われていることが多い。また、「封建的な絆」「悪弊のきずな」とか、束縛や癒着・結託といった明確に否定的が意味が込められることも少なくない。「絆を断ち切るべき」という表現も散見される。これは、家畜を繋ぎ止め

    「絆」の戦後史 - dongfang99の日記
  • 税負担の公平性について - dongfang99の日記

    税に関する議論を眺めていていつも思うのは、どの論者も税の問題にとって根幹であるはずの負担と分配の「公平性」の問題に、あまりに無関心・無頓着であることである*1。というより、論者がそれぞれ自明としている「公平性」に無自覚に寄りかかっているため、議論が常に一方通行になっている印象がある。一方通行の議論を許容してしまうと、現状において権力をもつ多数派の意見が自動的に勝利し、権力をもたない少数派の意見が論争以前に敗北しまうことになってしまう。税負担の「公平性」そのものに関する議論がもっと深められなければならない。 何が「公平」な負担であるかというのは極めて難しく、その国の政治文化によって異なるし、その人の価値観によっても大きな違いがある。たとえば、消費税と累進所得税とのいずれが公平であるのかは、容易に決着のつかない問題である。テレビを見ると、増税の手段として消費税が「公平」であることはほとんど自明

    税負担の公平性について - dongfang99の日記
  • 泥臭い政治 - dongfang99の日記

    ここのところ、民主党政権の混迷に関して思うところを書いてきたが、きちんと考えてなかった重要な問題として、1990年代末以降に激増した年金生活者や非正規雇用者に対して*1、民主党をはじめとする各政党が支持獲得の仕方を間違えてきたことを指摘する必要がある。 かつて55年体制下では、大雑把に言えば、自民党が財界と農家・漁業者の利害関心を代表し、野党と左派政党が労働組合や教職員・知識層の利害関心を代表していたことはよく知られている。自民党と民主党の違いも、ある程度はこの対立構図を引き継いでいる面がある。こうした既存の政党の旧来の支持層は、基的に「まともな仕事についている」人たちだった。だから、彼らを政治的に動員するためには、農協や労組などの産業団体や職場組織などにターゲットを絞ることが標準的な手法だった。補助金行政や公共事業政策も、それによって恩恵を受ける人が多かった時代は、メディアからの批判が

    泥臭い政治 - dongfang99の日記
  • 開き直る以外にどうしようもない - dongfang99の日記

    原発事故の報道を眺めていると、問題の解決よりも混乱を招くような批判がある。在野のジャーナリストはともかく、大手マスコミのほうにも目立っているのが残念である。 (1)「情報を隠している」という批判 「情報を隠している」というなら、隠しているという根拠をしっかりと提示して、そしてそれにかわる「正しい情報」を提供してほしい。大手メディアには原発問題を専門に報道してきた人もいるはずだが、どうして情報を「おねだり」するばかりなのだろうか。記者会見で、保安員や東電に答えにくい質問をぶつけて困惑させても、専門家の信頼を貶めて不安を増幅させ、デマや風評を広めることに貢献するだけだろう(もちろんマスメディアはそのことで得をする業界ではある)。自分が今回失望したのは東電ではなく、プルトニウムを即時に測定する機器がそもそも世の中に存在しないという基的事実すら調べようともせず、「情報を隠している」とわめき散らす

    開き直る以外にどうしようもない - dongfang99の日記
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