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30pと仏教に関するjrfのブックマーク (9)

  • Philosophy of Emptiness (Introduction)

    わたしは空の思想に関する解説書をしばらくおいて、自分の目で確かめることにした。つまりナーガールジュナ自身の書に直接いどむことにした。 空の思想の解説書の問題点 空の思想に関して、アメリカの著名な仏教学者リチャード・ロビンソン博士は、「この主題に関する幾つかの優れた研究を調べてみた結果、中観派について『わたしたちはまだ知らない』とはもう言えない」と語られた。中観派とは空の思想を説いたナーガールジュナ(竜樹あるいは龍樹と漢訳される2世紀の仏教哲学僧)の学派につけられた名前であるが、ロビンソン博士は、長年の多くの仏教研究者の努力の末、いままで最も難しいと言われていた中観派の空の思想の実体がついに明らかになった、と宣言されたのである。 しかし、わたしの経験はまったく逆であった。ナーガールジュナの思想に関する研究をいくら読んでも、いったい彼の説く「空」(スーニャタ)とは何なのか、いっこうに明確になる

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    jrf 2007/12/22
    >自己の思想を語るのに、空の概念を利用しているにすぎない場合が多く、それはそれ自体で意義のあることではあっても<学びではない?私は学ぶところから出ることを重視しすぎてきた。始めから諦めていたのかも。
  • Anatman 2 (無我の思想 第二章 ブッダの沈黙)

    しかし、仏教は、たとえば、「アートマンは有る」というウパニシャッドの主張に対して、同じ次元で「アートマンは無い」と単純に言い返したのではありませんでした。仏教の批判は、ウパニシャッド(やその他の宗教各派)の主張が依って立つ土台そのものに向けられた、もっと根的なものだったからです。 最も古層に属する原始仏典のひとつ(スッタニパータ、4章と5章)には、ブッダの宗教観としてつぎのような洞察が残されています。 或る人々が「最高の教えだ」と称するものを、他の人々は「下劣なものである」と称する。これらのうちで、どれが真実の説であるのか? かれらはすべて自分らこそ真理に達した者であると称しているのであるが。(903) かれらは自分の教えを「完全である」と称し、他人の教えを「下劣である」という。かれらはこのように互いに異なった執見をいだいて論争し、めいめい自分の仮説を「真理である」と説く。(904) も

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    jrf 2007/12/22
    沈黙が救いだった。大きな支持を得られたという時代もあった。私もここに書かれるブッダのような人格を求めたこともあったかもしれない。現在もそれでやっていけるのか。私は「我」から逸脱しようとしているのか。
  • 法華経の教えってどんなんなんでしょうか?

    今仏教の事を調べてるんですが、法華経の教えってどんなんなんでしょうか? 簡単にでいいので、もしよければ教えてください。 聖徳太子や最澄の昔から、日では『法華経』はたいへんポピュラーな経典ですから、法華経に関する書物は無数にあり、手軽に手に入ります。ここでは、わたしの個人的な解釈を述べてみたいと思います。 1.大乗仏典のなかの代表的な仏典の一つ ブッダが死んでから三〜四百年後、西暦一世紀前後に伝統的仏教に対抗する宗教改革運動が仏教内で起こります。大乗仏教運動です。この宗教改革運動の興味深い特徴の一つは、自分たちの主張をするのに、新しい経典を創作したところです。経典というのは、ブッダの弟子たちが、ブッダの教えを弟子から弟子へと伝承してきたものを書き残したものです。ところが、大乗仏教運動の改革者たちは、それらとは別の経典を新しく創作して、あたかもブッダ自身が教えたものであるかのように、自分たち

    jrf
    jrf 2007/12/21
    大乗仏教の解釈。>心の中に、「ブッダとは何か」(…)等々の疑問が生まれるとき、人は、本来のブッダの悟りへの道へとすでに一歩踏み出していると言えるでしょう。<そしてそこに至れない/至れるのは皆平等…?
  • 死は別物ということ: 極東ブログ

    死についてはいろいろ考え続け、そして率直に言って自分にはほとんど結論も信念もないのだが、死の恐怖が時折無意識からこみ上げてくることがあるせいか、折に触れて考え続けている。 いくつか問題の下位の構図のようなものはあり、例えば「棺の蓋を閉じて評価が定まる」というのはどうなのだろうか。つまり死という終点が人生の意味を表現するのかということだ。もちろん私のように無名で無意味な人間にとっては、身近な人間以外に私の棺の蓋を閉じる意味もないだろうというのは当然としても。 死のことを書き出したのは、先日のエントリ「極東ブログ: [書評]よせやぃ。(吉隆明)」(参照)の関連だ。私はけっこう吉隆明のを読んできた部類に入るし、彼のアングル以外からも親鸞についてもいろいろな側面で関心を寄せてきた。吉の親鸞論はある程度理解したという感じももっていた。が、次の発言に触れたとき、虚を突かれた感じはした。 「人間

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    jrf 2007/09/26
    死刑は「私にとって」必要だ…という感覚はあるのに論理的に考えると死刑廃止に傾く自分がいます。死刑に戦争をひき付けて考えが止まるのは、生きたいと祈る我がいて、矛盾こそ生であると願うからか…とか悩みます
  • ララビアータ:寺の経営(教会と信仰) - livedoor Blog(ブログ)

    久しぶりに小学校のクラス会に出たら、寺を継いだ友人や、墓の設計を手がけている建築家の友達と話し込むことになった。今日、寺を維持する経営は、御多聞にもれず、なかなか厳しいらしい。もともと十分な不動産があって、半ば不動産業を兼業できるような寺は別だが、現代人の生活が葬式以外では寺から遠ざかるようになると、十分にお布施を集めるのも難しいわけだ。戒名の文字ひとつについて、なぜあれほどのお金がかかるのか合理的に説明できる人はいないから、このようなところでも遠からず「価格破壊」が起こらざるを得ない。 友人の一人は、仏教界でも宗教改革が必要なのではないかと言う。 だがいかにして? 橋爪大三郎氏によれば、排除された人々は仏舎利を納めた仏塔(ストゥーパ)の周りに集まり始める。彼らは、己の悟りより、悟りを開く前の釈迦(菩薩という)に自己同一化し、菩薩道を目指す事になる。それというのも、彼らには、戒律を通じた正

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    jrf 2007/06/05
    >仏塔を心の塔として建てる<。>欠けていたのは信仰の意識<。寺も神社も残って欲しいが、どうすればいいんだろ。Webも塔みたいなものだが、金のにおいはしない。昔からあるところが有利になってないからかなぁ…
  • そういえば縁起論だが - finalventの日記

    あれから時折考えたのだが、大筋として、十二支縁起は別に間違ってもいないというか、十二支縁起には時間は含まれていないなと考えなおした。 ⇒十二因縁 - Wikipedia ただ。 ⇒縁起 - Wikipedia すなわち有・無によって示される空間的にも、生・滅によって示される時間的にも、すべての存在現象は、孤立してでなく相互の関係性によってのみ現象していることが説かれている。 釈迦がさとったように、いっさいのものは、独一存在でなく、無我である。しかし、すべてが無我でありながら、価値を持ち、存在性を持ちうるのは、すべてが縁起であるからである。この関係においてのみ存在者は存在性を獲得することができる。 この空間とか時間とかの説明はやっぱり間違っていると思う。特に、「生・滅によって示される時間的にも、すべての存在現象は、孤立してでなく相互の関係性によってのみ現象している」は違うでしょう。 諸法の仏

    そういえば縁起論だが - finalventの日記
    jrf
    jrf 2007/05/13
    >十二支縁起には時間は含まれていないなと考えなおした。<縁起そのものに方向はなく多重的だが、十二因縁は例示として前後を含むと思っていたし、そう思える。まったく理解が及ばない。が、ここを識らねばとも。
  • ちょっこし、仏教の根幹について、「縁起説」はたぶん間違い - finalventの日記

    まあ、キリスト教ほど仏教には異端概念がなく、「外道」くらいなもので、これをいうと、外道とされるのだろうけど、私は、いわゆる仏教の「縁起説」は間違いだと思っている。別の言い方をすると、仏教は縁起説を否定しているはずと理解している。 もちろん、そんなことをいえば、たーんと、おめーバカじゃねーという経典群が引用されるのは、わかっている。わかって言うのだ、それ、全部、仏教として間違いじゃないの? 仏教の認識において、なにも、生起するものはない。時間は存在しない。縁もなければ起もない。縁起説は諸存在の実在生を否定するが故に空とかいうけど、縁起説には、こっそり構成要素としてのアトムや時間が存在している。それすら、ない。 っていうか、これだけ読まれた般若心経に、縁起の否定がズバと書いてあるのに、なぜ仏教徒と称する人々は、奇妙な解釈をつけて諸経典を整合しようとして複雑な体系を志向するのだろう? 般若心経の

    ちょっこし、仏教の根幹について、「縁起説」はたぶん間違い - finalventの日記
    jrf
    jrf 2007/05/09
    縁起が法であるというのは方便であると。なるほど、わかりませんねぇ。と「小乗」への釣りをどうもガードをしてしまいます。「私」は縁だけがあり、何かが何かを見出せること、それは起という捉え方をしています。
  • 脳と阿頼耶識 - finalventの日記

    ⇒極東ブログ: [書評]脳は意外とおバカである(コーデリア・ファイン ) これが意外と哲学的な問題を持っているなと再読して思う。うまく表現できないのだが、ども脳というのは、知識・感情といったセンターではなく、存在そのものというか、外界と身体=内臓近く、に対して、時間的なフレームワークを与える調停機構というか生存スケジューラーとして存在しているようだ。 脳というのは感覚のなかに時間を導入するためのもので、いあゆるオカルト的ヘンテコ解釈じゃない、正統大乗仏教的な阿頼耶識なのだろう。つまり、sensation - rememberという枠組みなのだろう。 ⇒阿頼耶識 - Wikipedia 唯識思想により立てられた心の深層部分の名称である。眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識・末那識・阿頼耶識の八つの識のうち第八番目で、人間存在の根にある識であると考えられている。 感覚と時間の基礎意識主体なんだ

    脳と阿頼耶識 - finalventの日記
    jrf
    jrf 2007/05/09
    縁起の中に法を見出さねば前後はない。だが、見出す者は不明。己の中に識ろうとするのは世に因果を求めるがごとき空しい行であると思う。が、今の世の中、宇宙論が役に立つなら脳科学も役に立つでしょう。
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    jrf
    jrf 2007/02/21
    遠き山波は近くに消えゆし、今君はいずこや。
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