ブックマーク / sogensyooku.hatenablog.com (386)

  • 栗渓神社  - sogensyookuのブログ

    太閤ヶ平から鳥取市栗谷町に下りる登山道を歩くと、谷間の集落即ち栗谷町に至る。 この栗谷町に鎮座するのが、栗渓(くりたに)神社である。 栗渓神社 一の鳥居 この神社の創建は、貞観年間(859~877年)とされている。 因幡国内に悪疫が流行した時に、鎮疫の神様として著名だった播磨国廣峯神社の牛頭天王の分霊を勧請したのが栗渓神社の始まりとされている。 今となっては、廣峯神社は全国的に有名な神社というわけではないが、この当時は廣峯神社の信仰はかなり広がっていたようだ。 境内への石段 二の鳥居 播州人である私は、身近にある廣峯神社がかつて全国的な信仰を集めていたことを知って嬉しくなる。 一の鳥居を過ぎて急な石段を登り、二の鳥居を潜ると境内に至る。 祭神は、明治の神仏分離で牛頭天王から須佐之男命になった。栗渓神社は、江戸時代までは牛頭天王社と呼ばれていた。 境内 拝殿 境内では、神職の方がジャージを着

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    k10no3 2024/11/08
  • 鳥取県立博物館 その3 - sogensyookuのブログ

    鳥取県内にある弥生時代の遺跡は、米子市、大山町にある木晩田(むきばんだ)遺跡、鳥取市にある青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡が有名である。 これらの遺跡は、全国的にも類を見ない大規模な遺跡である。 鳥取県立博物館には、これらの遺跡から発掘された出土品を展示しているが、これらの展示品は、将来この遺跡を訪れた時に紹介したいので、今回は割愛する。 弥生式土器 石包丁 前回の記事でも紹介したように、この時代は意外と航海術が発達していて、日と朝鮮半島の行き来は活発であった。 半島に近い九州北部は、当時の日の最先端地域であったが、海を介して半島と行き来していた山陰地方も、先進地域であったと思われる。 山陰と各地の交流図 山陰地方からは、半島から伝わった貨幣や鉄製品だけでなく、北陸、九州北部、畿内、吉備などが原産地の土器や祭器などが発掘されている。 これは何よりも、山陰地方が海運などを通してこれらの

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    k10no3 2024/11/04
  • 鳥取県立博物館 その2 - sogensyookuのブログ

    江戸時代後期に来日したオランダ人医師シーボルトは、日に生息するオオサンショウウオを見て大いに驚いたという。 オオサンショウウオは、ヨーロッパでは絶滅していて、化石としてしか知られていなかったからである。 オオサンショウウオの剥製 オオサンショウウオは、世界最大級の両生類で、日固有種である。岐阜県以西の州に生息し、四国、九州の一部地域でも生息が確認されている。 2千万年前の化石の形と現生種の形がほぼ変わっておらず、生きた化石と呼ばれ、国の特別天然記念物になっている。 ホルマリン漬けのオオサンショウウオ 館には、ホルマリン漬けになったオオサンショウウオが展示してあった。 このオオサンショウウオは、昭和20年10月から平成15年7月まで、57年9ヶ月の間飼育されていたらしい。オオサンショウウオは、かなり長生きのようだ。 このオオサンショウウオは、全長143センチメートル、体重44.3キロメ

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    k10no3 2024/11/03
  • 南丹市美山町 石田家住宅 - sogensyookuのブログ

    大原神社の参拝を終えて、同じ樫原の集落内にある国指定重要文化財・石田家住宅を訪れた。 私が訪問した時は、凄まじい雨になっていた。 石田家住宅 石田家住宅は、この地方の庄屋の家である。昭和42年に発見された縁桁に記された墨書から、慶安三年(1650年)に建築された建物だと判明した。 建築年代が判明している日の民家の中で、最古の民家であるらしい。 石田家住宅 石田家住宅は、入母屋造茅葺の民家である。外壁は板で覆われていた。 私は今まで神戸市北区にある箱木家住宅や、兵庫県姫路市安富町にある古井家住宅などを訪れたことがある。 箱木家住宅は室町時代前期(14世紀)、古井家住宅は室町時代後期(16世紀)の建築で、17世紀の建物である石田家住宅よりは古かった。 茅葺の屋根 石田家住宅が最古というのは、あくまで建築年代が確認できる民家の中で最古ということである。 箱木家住宅と古井家住宅は外壁が土壁であっ

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    k10no3 2024/10/11
  • 南丹市美山町 大原神社  - sogensyookuのブログ

    明隆寺観音堂の参拝を終え、京都府南丹市美山町樫原大原谷にある大原神社を訪れた。 ここに向かう途中、雨が降って来た。雨は次第に強くなり、ついには大雨になった。 それにしても、京都府側の丹波には、大原神社が多くある。 大原神社 大原神社の祭神は、伊弉冉尊である。日の国土と神々を生んだ神様を祀っているので、安産の御利益があるとされている。 社伝によると、孝徳天皇の時代(645~654年)に創建されたという。 鳥居と境内 近世には、園部藩主小出氏の祈願所となった。 殿の前には、神楽殿がある。これは新しい建物であった。 神楽殿 殿は覆屋に覆われている。丹波の神社の殿は、覆屋に覆われていることが多い。 丹波は雨が多い土地柄である。殿を風雨から守るための設備だろう。 殿と覆屋 殿は神明造の杮葺である。正面に唐破風がある。 殿 殿は、まだ瑞々しさを保っている。新しい建物である。 唐破風

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    k10no3 2024/10/10
  • 天足山祥雲寺 - sogensyookuのブログ

    片山家墓所を見学した後、京丹波町大迫にある曹洞宗の寺院、天足山祥雲寺を訪れた。 祥雲寺 山門 この寺は、承応三年(1654年)に、天足香禅という僧侶が開創した。 天足は、現在も地元で「天足さん」と呼ばれて親しまれている。民衆を救済するために全国を行脚した高僧である。 堂 行脚の最後にこの地に杖を留め、永住の地にしたという。 天足は、寛文九年(1669年)に祥雲寺で没した。 遺言により、天足は、境内に自ら植えた檜の根元に葬られた。 檜と天足堂 天足が葬られた場所には、天足堂というお堂が建っていて、その左右に2の檜の巨木がある。 向かって右を長寿の霊木、向かって左を安楽の霊木というらしい。 天足堂 天足堂と檜の遠景 二とも、天に真っ直ぐ伸びるような名木である。 長寿の霊木 檜は、日の木造建築には欠くべからざる木材である。 日の原始的な信仰では、巨木には神霊が降りてくるとされている。

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    k10no3 2024/10/07
  • 片山家墓所 - sogensyookuのブログ

    京丹波町庄にある阿上三所神社の参拝を終え、北西に向かう。 京丹波町坂原にある阿上三所神社を訪れた。 坂原阿上三所神社 鳥居 この神社は、安栖里(あせり)地区の地頭であった片山氏が、観応元年(1350年)に庄の阿上三所神社から祭神を勧請したものと伝えられている。 片山氏は、元々は武蔵国新座郡片山郷に所領を持っていた鎌倉幕府の御家人であった。 承久四年(1222年)に、片山氏は丹波国和知荘の新補(しんぽ)地頭となった。 参道のイチイガシ 鎌倉幕府が成立した時、源頼朝は、国衙領、荘園の治安維持を行うという名目で、配下の御家人を各国衙領、荘園の地頭に任命した。 地頭は、国衙領、荘園の治安維持を行う代わりに、その土地から収穫された年貢の一部を入手した。 鎌倉時代初期には、幕府の地盤であった東国には地頭が配置されていたが、まだ朝廷や寺社の勢力が強かった西日には、地頭が少なかった。 参道の欅 とこ

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    k10no3 2024/10/06
  • 須知城跡 後編 - sogensyookuのブログ

    須知城は、天正四年(1576年)には、丹波に侵攻してきた明智光秀に攻略された。 その後光秀は須知城の改修に取り掛かった。 その時に築かれた立派な石垣が今も残っている。 須知城跡の主郭は、東西に長く連なっているが、最も規模が大きな石垣は東側に面している。 石垣 須知城跡を東から登ると、東側の石垣の威容が目に映るようになっている。 石垣の上の曲輪が丸である。 石垣 ここから下を見下ろすと、結構な高低差を感じる。攻める側からすれば、この石垣はかなりの障壁だろう。 丸から下を見下ろす 丸はかなり広い曲輪である。 丸の曲輪 丸を西に歩くと、今度は段状に下に曲輪が繋がっている。 丸西端には、崩れた石垣の跡がある。 丸西側の石垣の跡 その西側の曲輪の西端には、腰までの高さの石垣がある。 西端の石垣 その西側には、馬の背のように細長い曲輪が続いている。 尾根のような曲輪 曲輪は段々低くなって

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    k10no3 2024/10/03
  • 覚鑁山宇南寺 - sogensyookuのブログ

    姫笹原遺跡から南下して国道181号線に戻り、約2キロ西進すると、新庄川の南にある小高い丘が見えてくる。 丘の上に真言宗の寺院、覚鑁(かくばん)山宇南寺がある。 宇南寺 現在の堂 宇南寺は、真義真言宗を創設した興教大師覚鑁の孫弟子が、建久年間(1190~1199年)に開基した寺とされている。 宇南寺の現在の堂の北側に、太平堂と呼ばれる旧堂がある。 旧堂への参道 太平堂 元弘二年(1332年)、元弘の乱に敗れた後醍醐天皇は、鎌倉幕府により隠岐に配流されることになった。 隠岐に向かう途次、天皇一行は宇南寺に立ち寄った。 その時、住持宥恕が堂で「天下太平玉体帰幸」を祈念した。それ以降、宇南寺堂は太平堂と呼ばれるようになった。 太平堂正面 太平堂は、永正七年(1510年)に改築された。 文化十二年(1815年)には、草葺だった屋根が瓦葺に葺き替えられた。 内陣 御前立の不動明王像 太平堂

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    k10no3 2024/09/10
  • オアシス - sogensyookuのブログ

    2024年8月28日、世界中のオアシスファンたちが待ち望んだニュースが世界を駆け巡った。 オアシス再結成。 ノエル・ギャラガーとリアム・ギャラガーというギャラガー兄弟を中心とした英国のロックバンド・オアシス。 ノエル(右)とリアム(左)(2024年) 兄ノエルは、レノン=マッカートニー以来の才能と言われる作曲の天才で、彼が作るオアシスの楽曲は、ビートルズ風の王道メロディとピストルズの演奏のような衝動性を併せ持っている。 シンガーである弟のリアムは、イギリスの下町のあんちゃんが、巻き舌で「かかってこんかい」と挑発しているような、攻撃的で粘着的な歌い方をする。 その声は、まるでジョン・レノンが生まれ変わって大声でがなり立てているような「美声」である。 ノエルが作った美しいメロディーの曲をリアムが全力で歌う。これがオアシスの全てで、これで全てが完結している。 だがこの毒舌の兄弟は仲が悪い。200

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    k10no3 2024/09/04
  • おのころ神社 上立神岩 - sogensyookuのブログ

    「古事記」の国生みの条によると、伊邪那岐命と伊邪那美命が天の浮橋に立って、天の沼矛(ぬぼこ)を指し下ろして、海を「こをろこをろ」とかきまぜて、引き上げた時、矛の先から塩がしたたり落ち、積み重なって「おのころ島」になったという。 伊邪那岐命と伊邪那美命は、おのころ島に降り立って、天の御柱を立て、八尋殿(やひろどの)を建てた。そして天の御柱の周りを回ってからまぐわい(性交)をして、日列島を生んだ。 この「おのころ島」の候補は多数あるが、沼島もその一つである。天の沼矛と同じ沼の字が島名についているので、島民は沼島を日始まりの島と信じている。 沼島八幡神社の絵馬に描かれた天の沼矛を持つ伊邪那岐命と伊邪那美命 前回紹介した沼島八幡神社には、天の沼矛から滴った塩が沼島になった場面を描いた絵馬がある。島民が奉納したものである。 伊邪那岐命と伊邪那美命は、おのころ島に居ながら、淡路島、四国、隠岐、九州

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    k10no3 2024/09/04
  • 龍燈山神宮寺 - sogensyookuのブログ

    沼島城跡に建つ蓮光寺の参拝を終えて東に歩く。沼島の集落の真ん中の道を行く。 沼島の集落 この道は、沼島のメインストリートである。 暫く歩くと、左手に真言宗の寺院、龍燈山神宮寺が見えてくる。 龍燈山神宮寺 神宮寺とは、神仏習合の時代に神社を管理する寺として建てられたものである。 かつては日各地の神社の隣に神宮寺があった。 龍燈山神宮寺の隣には、沼島八幡神社がある。昔は神宮寺が沼島八幡神社を管理していたのだろう。 神宮寺山門 沼島の神宮寺は、元慶元年(880年)に開基された寺である。 沼島の領主だった梶原氏の菩提寺である。 堂 境内には、樹齢数百年の白槇(びゃくしん)がある。 白槇 寺の守り神のように生えている。白槇の下には素朴な修行大師像がある。 修行大師像 この寺には、2つの兵庫県指定有形文化財がある。 一つは「尊勝法華曼荼羅」である。 尊勝法華曼荼羅のレプリカ 「尊勝法華曼荼羅」は、

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    k10no3 2024/08/24
  • 沼島城跡 - sogensyookuのブログ

    7月28日に淡路の史跡巡りを行った。 今回訪れたのは、淡路島の南約3キロメートル沖に浮かぶ沼島(ぬしま)である。 今回の沼島の旅が、私の淡路史跡巡り最後の旅となった。 沼島 沼島に渡るには、兵庫県南あわじ市灘土生にある土生港から沼島汽船に乗らなければならない。 沼島汽船灘ターミナルセンター 沼島汽船の待合所である灘ターミナルセンターには、沼島の地図が掛けられている。 沼島の地図 沼島は上空から見ると、勾玉のような形をしている。周囲約10キロメートル、面積2.63キロ平方メートルの小島である。 沼島汽船は、乗ってみると意外に利用客が多い。観光のために沼島に渡る人は、案外多そうである。 沼島汽船の乗り場 沼島汽船はまちどり 沼島汽船は、灘土生と沼島を約15分で結ぶ。波は穏やかで、スムーズに沼島に着いた。 沼島漁港 沼島の主要産業は漁業である。住民の大半は、漁に関係していることだろう。 沼島に到

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    k10no3 2024/08/23
  • 江崎古墳 - sogensyookuのブログ

    中国分寺跡の西側には、吉備路最後の前方後円墳と言われる江崎古墳がある。 江崎古墳後円部 江崎古墳は山の南麓に築かれていて、前方部が山側にある。 全長約45メートル、前方部幅約25メートル、後円部径約32メートル、二段築成で、円筒形埴輪が並んでいた。 江崎古墳 後円部の西側に、横穴式石室が開口している。 後円部と横穴式石室の入口 前方部 横穴式石室は、両袖式で、全長13.8メートル、玄室長6.6メートル、玄室最大幅2.6メートルで、羨道には、角礫を使った閉塞施設が残っていた。 閉塞施設 後円部の石室入口への立ち入りは禁止されていて、石室内の見学は出来なかった。 石室入口 だが入口に近づいてカメラのフラッシュを焚くと、奥に安置されている石棺が見えた。 石棺 石棺は、こうもり塚古墳と同じ貝殻石灰岩製(浪形石製)である。 江崎古墳は、昭和55年に発掘調査が行われた。 棺内には、成人男女の人骨二体

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    k10no3 2024/08/22
  • 総社吉備路文化館  - sogensyookuのブログ

    中国分尼寺跡から北西に歩いていくと、茅葺屋根の建物が見えてくる。 総社吉備路文化館の敷地内にある旧山手村役場と旧松井家住宅である。両方とも国登録有形文化財になっている。 旧山手村役場 山手村は、かつて岡山県都窪郡にあった村である。平成17年3月22日に総社市に合併されて消滅した。 この建物は、風早雲嶂(かざはやうんしょう)という医師が、幕末から明治初期にかけて自宅として建てたものである。 旧山手村役場入口 風早は初代山手村長となった。風早の死後は、山手村がこの建物を購入し、明治35年から昭和43年まで66年間に渡って山手村役場として使用した。 こんな建物が、戦後になっても村役場として使われていたというのが驚きだ。 かつてこの建物は、現在総社市役所山手支所がある場所に建っていたが、昭和47年に現在地に移築された。 土間に入る 建物に入ると土間があり、奥に台所がある。台所には竈が設置されてい

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    k10no3 2024/08/21
  • 備中国分寺跡 中編 - sogensyookuのブログ

    山門を潜って境内に入ると、正面に見えるのは客殿である。 客殿 客殿玄関 備中国分寺は、中世初期に衰微した。日各地の国分寺には、七重塔が建っていたが、備中国分寺の七重塔は、南北朝期までは残っていたらしい。 備中国分寺を復興させたのは、備中高松城主の清水宗治で、天正年間(1573~1592年)に真言宗の寺院として再興された。 客殿勅使門 その後再び衰微したが、宝永年間(1704~1711年)に上林領主蒔田定英の援助で、増鉄上人が復興させた。今に残る経蔵、裏書院、庫裏は、この時の建築である。これらの建物は、岡山県指定文化財となっている。 経蔵 外から見た経蔵と大師堂 大師堂 庫裏 堂に安置されている尊は、薬師如来坐像である。この像自体は、江戸時代の再建時のものだろう。そう古いものではない。 堂内陣 尊薬師如来坐像 堂は、江戸時代の再建である。文政年間に建てられた五重塔と同

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    k10no3 2024/08/16
  • 小造山古墳 - sogensyookuのブログ

    以前、岡山市北区新庄下にある全国第4位の規模の前方後円墳、造山古墳について紹介した。 今回は、造山古墳の北西約500メートルの山中にある、小造山古墳について紹介する。 小造山古墳は、岡山市北区新庄上、総社市下林にまたがる山の中にある。 私は、総社市側にある企業集積地、テクノパーク総社の服島運輸の南側の登り口から山に入った。 小造山古墳のある山 登り口 山に入るとすぐ前方に、小高い丘のようなものが見えてくる。これが小造山古墳の後円部である。 後円部 小造山古墳は、5世紀中期に築造された前方後円墳である。 全長135メートル、後円部の直径92メートル、高さ9メートルの古墳である。 後円部周辺に、幅約10メートルの周濠の跡がある。 周濠の跡 写真では分かりにくいが、周囲よりも低くなった場所が帯状につながっている。これが周濠跡であろう。 古墳は三段に築盛されている。後円部には、僅かに段になった形跡

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    k10no3 2024/08/13
  • 鼓神社 - sogensyookuのブログ

    足守の見学を終えて北上し、岡山市北区上高田にある鼓神社を訪れた。 鼓神社 ここは、備中国の二宮とされる神社である。 鳥居に架かる「二宮鼓神社」の扁額 祭神は、第10代崇神天皇の時代に、吉備の平定のために派遣された吉備津彦命の功臣遣霊彦(やりだまひこ)命である。 その他、当地の県主であった楽々森彦(ささもりひこ)命、吉備津彦命、その后神の高田姫命、その子吉備武彦命を祀っている。 参道 随神門 今では、高田姫命を主神のように扱っているが、元々は吉備平定に功績のあった遣霊彦命が、吉備津彦命からこの地を所領として賜り、後世の人が遣霊彦命を神として祀ったのが、この神社の起こりだろう。 参道を歩くと、脇に紫陽花が咲いていた。しばし紫陽花を見て心を休めた。 参道脇の紫陽花 この神社の創建年代は詳らかではない。 「六国史」の一つ、「日文徳天皇実録」に、仁寿元年(851年)に、この神社を正六位上に叙したと

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    k10no3 2024/08/12
  • 大光寺霊廟 緒方洪庵生誕地 - sogensyookuのブログ

    足守の町の西にある山中に、足守藩主木下家の菩提寺である臨済宗の寺院、大光寺がある。 第3代藩主木下利当(としまさ)が建てたと伝えられている。 大光寺 山門を潜ると、寺まで参道が真っ直ぐに続いている。 山門 山門は城郭の門のように立派である。 参道はゆるやかな石段で、歩くとすぐに目的地に到達した。 参道 石段を登り切って驚いた。大光寺は荒れ果てていて、明らかに無人の廃寺であった。 大光寺 大光寺には、秀吉、北政所、歴代藩主の位牌を安置した霊廟があるが、境内に入ることは出来なかった。 境内の中は、見るからに雑木や雑草だらけである。 霊廟 霊廟は、岡山県下でも珍しい霊廟建築の遺構として、岡山県指定文化財になっている。 大光寺の土塀や堂は崩れかかっているが、岡山県指定文化財になっている霊廟だけは修復されているのか、屋根も崩れていない。 堂は、唐破風の玄関の付いた立派な建物だったようだが、

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    k10no3 2024/08/11
  • 近水園 - sogensyookuのブログ

    旧足守藩陣屋跡の北隣に、足守藩木下家の庭園である近水園(おみずえん)がある。 足守川の水を引き入れて造られた、池泉回遊式庭園である。岡山県指定名勝となっている。 近水園 作庭された詳細な時期は不詳であるが、18世紀初頭と言われている。 近水園 池には、亀島、鶴島という二つの島が造られている。 亀島 亀島には、亀頭石、中心石、脚石、亀尾石が配され、上から見ると亀のような姿に見える。 鶴島には、木下利玄の歌碑が建っている。利玄も近水園を訪れて、その風光を愛でたことだろう。 鶴島 木下利玄の歌碑 近水園には、池に面して吟風閣という数寄屋造りの建物が建っている。 吟風閣は、第6代目藩主木下㒶定(きんさだ)が、宝永五年(1708年)に仙洞御所を造営した時に、その残材を使って建てたと言われている。 吟風閣 吟風閣は、池に迫り出すように建てられている。1階の回廊の下は、懸造になっている。 吟風閣 吟風閣

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    k10no3 2024/08/10