ブックマーク / sogensyooku.hatenablog.com (437)

  • 大鳴門橋架橋記念館エディ  - sogensyookuのブログ

    淡路と阿波を結ぶ大鳴門橋は、昭和60年6月に完成した。 大鳴門橋の完成を記念して、大鳴門橋に関する資料を展示するために開館したのが、大鳴門橋架橋記念館エディである。 大鳴門橋架橋記念館エディ 大鳴門橋架橋記念館エディの入口 ところで、大鳴門橋架橋記念館エディの入口に入ると、正面に中国人を歓迎するような飾りが施されていた。 記念館周辺を歩いていても、中国語を話す人が沢山いた。鳴門海峡は、中国人に人気の観光スポットのようだ。 上空から見た大鳴門橋の写真 現在州と四国を結ぶ橋は、この大鳴門橋だけでなく、瀬戸大橋、明石海峡大橋、しまなみ海道の各橋があるが、大鳴門橋は、昭和54年5月供用開始の大三島橋、昭和58年12月供用開始の因島大橋に次いで、3番目に供用開始された州四国連絡橋の一つである。 大鳴門橋の模型 鳴門海峡に架橋するという発案は、徳島県出身の衆議院議員だった中川虎之助が、大正3年に帝

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    k10no3 2025/04/02
  • 鳴門海峡 - sogensyookuのブログ

    2月9日に阿波の史跡巡りを行った。 阿波は、播磨、備前、美作、摂津、但馬、因幡、丹波、淡路、丹後、備中、讃岐に次いで、私が史跡巡りで訪れた12番目の国である。 また、徳島県は、兵庫県、岡山県、鳥取県、京都府、香川県に次いで、私が史跡巡りで訪れた6番目の府県になる。 山川出版社「徳島県の歴史散歩」 今回も、山川出版社の「歴史散歩」シリーズを杖として、史跡巡りを続けて行こうと思う。 阿波には、神戸淡路鳴門自動車道を利用して、大鳴門橋を渡って行くのが、一般的な行き方である。 大鳴門橋を渡ると、徳島県鳴門市の大毛島に至る。 鳴門公園の図 大毛島の北東端に孫崎という岬がある。孫崎と、南あわじ市の門崎という岬の間が鳴門海峡である。 大毛島の北東には、展望施設や、大鳴門橋架橋記念館エディ、大塚国際美術館といった観光スポットが多数あり、総称して鳴門公園と呼ばれている。 先ず私は、鳴門山の展望台に登ってみた

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    k10no3 2025/03/31
  • ZC33S スイフトスポーツ 六年経過 - sogensyookuのブログ

    我が愛車ZC33Sスイフトスポーツも、購入してから六年が経過した。 走行距離は、87,000キロメートルを超えた。 最近法定点検を受けたが、問題はなかった。未だに快調である。 昨年タイヤをダンロップ LE MAN Ⅴ+にしてから、燃費が良くなった。タイヤを替えてから燃費計をリセットして計りなおすと、この1年間の平均燃費は、リッター16.0キロメートルである。 K14Cエンジン この走行パフォーマンスの車にしては、いい燃費である。 この1年でZC33Sスイフトスポーツを巡る環境で変化があったことは、ZC33Sの「標準車」が絶版になったことである。 ついにZC33S標準車は、「旧車」になってしまった。 この3月19日から、ZC33Sスイフトスポーツ・ファイナルエディションが販売になった。それに伴い、標準車は生産停止になった。 ファイナルエディションは、8,500台の限定生産で、今年11月には販

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    k10no3 2025/03/27
  • 阪神甲子園球場 - sogensyookuのブログ

    大観楼跡を後にして、西宮市甲子園町にある阪神甲子園球場を訪れた。 阪神甲子園球場 阪神甲子園球場は、プロ野球球団阪神タイガースの拠地として、また全国高校野球の聖地として知られている。 経営は、鉄道会社の阪神電鉄である。 阪神電鉄は、大正11年から、武庫川の支流である枝川、申川の廃川敷の開発を始め、線路の北側に住宅街、南側にスポーツ・娯楽施設を作る計画を立てた。 阪神甲子園球場 全国中等学校優勝野球大会(現全国高等学校野球選手権大会)は、大正6年の第3回大会から、西宮の鳴尾グラウンドで行われていたが、年々野球人気が高まり、収容人員、施設面で限界が来ていた。 阪神電鉄は、大正12年にアメリカ・ニューヨークジャイアンツの球場を参考に、日初の格的な野球場の建設を計画した。 阪神甲子園球場 大正13年3月に着工し、同年8月1日に竣工した。人力で土を運び、牛にローラーを曳かせて土を均した。 わず

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    k10no3 2025/03/24
  • 白鹿記念酒造博物館 中編 - sogensyookuのブログ

    酒造の工程は、先ずは酒米の洗米、浸漬に始まる。日酒は米から造られる。酒米は、酒造用に栽培された米で、灘五郷では、兵庫県美嚢郡や三木市で栽培される山田錦が主に使われている。 山田錦 斗桝で計った白米を踏桶に入れ、水を入れて3回に分けて足で踏んで洗った。 米櫃 米を踏んで洗う作業 足で踏んで洗った米は、漬桶に入れて十分に水に浸した。 漬桶 次は洗った米を蒸す作業である。 煉瓦製の炉の上に鉄の大釜を据え、その上に大甑を置き、大甑に米を入れる。 炉で火を焚いて、大釜の中の水を沸かして蒸気を発生させ、大甑の中の米を蒸すのである。 煉瓦製の炉の跡 鉄製の大釜 大甑 蒸すことにより、米は糊化されて麹菌や酵母菌が活動しやすくなる。 今度は、大甑の中から蒸された米を取り出して、莚の上で広げて冷ます放冷という作業を行う。 放冷の作業 放冷で使われた道具 麹用や醪(もろみ)用など、蒸米の用途に分けて、それぞれ

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    k10no3 2025/03/22
  • 白鹿記念酒造博物館 前編 - sogensyookuのブログ

    旧辰馬喜十郎住宅の隣に、辰馬家酒造株式会社が経営する白鹿記念酒造博物館がある。 辰馬家酒造は、寛文二年(1662年)創業で、白鹿は辰馬家酒造が造る酒の銘柄である。 白鹿記念酒造博物館 白鹿記念酒造博物館は、辰馬家酒造によって、明治25年築造の煉瓦造りの酒蔵を酒蔵館として利用して、昭和57年に設立されたが、平成7年の阪神淡路大震災により、旧酒蔵館は倒壊した。 旧酒蔵館 震災前の旧辰馬喜十郎住宅と白鹿記念酒造博物館の模型 震災で倒壊した旧酒蔵館 煉瓦造りの建物が地震に弱いことがよく分かる。煉瓦造りの旧酒蔵館は、貴重な遺構であった。 旧酒造館の北側にあった明治2年築の酒蔵は、震災での倒壊を免れた。今の酒蔵館は、この酒蔵を利用してオープンしたものである。 酒蔵館の前には、井戸から水をくみ上げる撥ね釣瓶が展示されている。 撥ね釣瓶 蔵で使用する水は、ここから汲み上げられた。 蔵の南側は、蔵前

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    k10no3 2025/03/20
  • 宮水発祥の地 旧辰馬喜十郎住宅 - sogensyookuのブログ

    西宮市久保町に、宮水発祥之地碑と陰刻された石碑が建っている。 宮水発祥之地碑 江戸時代以降、武庫川から生田川の間は、灘五郷と呼ばれる酒造地帯であった。 西宮郷もその一つであった。 江戸時代の酒は、「秋落ち」と言って、夏を越して秋になると味が落ちた。ところが西宮郷の酒だけが、秋になるとむしろ味が冴えて、「秋晴れ」と称えられていた。 西宮の酒にだけ、何故「秋晴れ」が起きるのか。魚崎郷と西宮郷の両方に蔵を持っていた酒造家山邑太左衛門は、その謎を追究した。 宮水発祥之地碑 山邑は、天保十一年(1840年)に、その原因が仕込み水にあることを発見した。 西宮郷が使用していた水は、塩分を適度に含み、鉄分が極めて少なく、香りの悪化を防いでいる。またカルシウム、カリウム、リン等の含有量が多い。リンの含有量に至っては、他の水の約10倍で、これが酵母の成長を助けている。 この発見以降、灘五郷はどこも西宮の宮水を

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    k10no3 2025/03/19
  • 阪神間の近代学校建築 中編 - sogensyookuのブログ

    文学部の南側には、関学の関学たる所以と言ってもよい神学部の建物がある。これも昭和4年の上ヶ原キャンパス発祥時からの建物だ。 神学部 神学部の建物の屋根の上には、十字架を戴いた塔が建っている。 日離れした美しい建物だ。 神学部 屋根の上の塔 神学部の壁飾り 中央の芝生広場の北西には、経済学部の建物がある。関西学院が大学となった昭和9年に商経学部となった建物だろう。 経済学経済学部の南側には中央講堂がある。 赤い屋根瓦が印象的な、壮麗な建物だ。 中央講堂 中央講堂と経済学部 神学部の南側には、宗教センター、神学部事務室の建物である吉岡記念館がある。 吉岡記念館 この建物も、昭和4年からある建物である。 吉岡記念館の南側には、ランバス記念礼拝堂がある。 ランバス記念礼拝堂 日にある古いキリスト教会は、木造建築物が多い。このような石造のキリスト教会は珍しい。ヨーロッパの町中にありそうな教会

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    k10no3 2025/03/16
  • 阪神間の近代学校建築 前編 - sogensyookuのブログ

    阪神間には、モダンな建築物が多い。 関東大震災で東京が被害を受けた後の昭和初期は、大阪は大大阪と呼ばれ、東京を超える都会であった。 大阪の通勤圏である阪神地区には、阪急電車が通って急速に宅地造成が進んだ。 谷崎潤一郎が阪神間に住んだ時代は、まさに大阪と阪神間の全盛期であった。 この時代に、モダンな建築物が阪神間に続々と建てられた。 これから紹介する阪神間の近代学校建築は、そんな時代に建てられた建築物である。 神呪寺の参拝を終えて、先ず西宮市上ヶ原一番町にある関西学院大学を訪問した。 関西学院大学正門 関西学院は、明治22年に「原田の森」と呼ばれる現神戸市灘区王子町、原田通に開学した。 米国南メソヂスト監督教会宣教師として来日していたJ.W.ランバスの長男、W.R.ランバスによって設立されたミッション系スクールであった。 昭和4年に原田の森から現在の西宮市上ヶ原にキャンパスが移転し、昭和9年

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    k10no3 2025/03/15
  • 武庫山神呪寺 後編 - sogensyookuのブログ

    神呪寺の境内南東側には、展望台があって、そこから大阪の市街を遠望することが出来る。 大阪市街には靄がかかっていて、幻想的な景観であった。 大阪平野 大阪のビル群が靄に包まれている。あそこに沢山の人たちがいる。 こうして見ると、人の世界は小さなものだ。 南の方を見ると、大阪湾と紀伊の山々が見える。 大阪湾 展望台から北に歩く。茶堂という阿弥陀如来を祀った建物がある。 茶堂 阿弥陀如来立像 茶堂と言うからには、ここで客に茶菓を供して、大阪平野の風景を見てもらうのだろう。 茶堂から奥に行くと、多宝塔が建っている。 多宝塔 私が史跡巡りで訪れた14番目の多宝塔である。 神呪寺開創1150年を記念して、昭和55年に建てられたものらしい。まだ新しい塔である。 多宝塔と赤鳥居 多宝塔 多宝塔上層 多宝塔下層 蟇股の彫刻 瓦葺で柱や梁が朱色に塗られた華麗な塔である。 多宝塔の内部には、金剛界大日如来が安置

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    k10no3 2025/03/14
  • 武庫山神呪寺 中編 - sogensyookuのブログ

    堂の西隣には、神呪寺鎮守の弁財天が祀られている。甲山の水の神様である。 弁財天 弁財天の安置されている宮殿 弁財天の安置されている宮殿の前には、地元の西宮で醸造されたと思われるお酒が沢山奉納されている。 神様は、お酒がお好きなのであろうか。 弁財天の前には、神呪寺八十八所の八十八番目の石仏がある。 神呪寺八十八所の石仏 神呪寺八十八所の参拝も、この石仏にお参りすれば満願である。 弁財天の西隣には、甲山大師と呼ばれる木造弘法大師坐像を祀った大師堂がある。 大師堂の前には、鉄製の巨大な錫杖がある。 巨大な錫杖 錫杖には、「南無大師遍照金剛」という御宝号が刻まれている。 大師堂 大師堂向拝蟇股の彫刻 大師堂の向拝蟇股の彫刻には、三鈷の松が刻まれている。高野山にあったと言われる松である。 大師堂に祀られる木造弘法大師坐像は、鎌倉時代の作で、檜の一木造りである。 大師堂内部 国指定重要文化財である

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    k10no3 2025/03/12
  • 武庫山神呪寺 前編 - sogensyookuのブログ

    廣田神社の参拝を終えて、西宮市甲山町にある真言宗の寺院、武庫山神呪寺(かんのうじ)に向かった。 神呪寺は、西宮を象徴する甲山(かぶとやま)の中腹にある寺院である。 甲山は、太古の火山活動で発生した溶岩が固まって出来た山で、長年の風雨により削れて、今の兜のような山容になった。 山麓一帯は、兵庫県立甲山森林公園になっている。 甲山森林公園の駐車場 甲山森林公園駐車場を過ぎて進むと、神呪寺の駐車場がある。 駐車場に車をとめて、目の前の道を下ると、神呪寺の仁王門がある。文化元年(1803年)に建てられ、今では西宮市指定有形文化財となっている。 仁王門 仁王門の彫刻 三間一戸八脚門という変わった形式の山門である。 網に覆われた仁王像を網の隙間から覗くと、こちらを睨みつけるようであった。 迫真の彫像である。 仁王像 仁王門の格天井は、木目をそのまま装飾に利用した面白いものであった。 格天井 仁王門を潜

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    k10no3 2025/03/11
  • 廣田神社 後編 - sogensyookuのブログ

    兜麓底績碑の前から立ち去り、廣田神社境内に進んだ。 境内を歩く 廣田神社境内は、私の父が子供の頃遊んでいた場所だ。 廣田神社は、「延喜式」で定める二十二の名神大社の内の一社である。平安時代初期には、全国有数の神社となっていた。 明治4年には、社格制度が復活し、廣田神社は兵庫県唯一の官幣大社となった。 明治7年には、境内地を分割譲与し、末社の戎宮総社西宮神社を独立させた。 境内の御神水 西宮は、都の西にあるお宮という意味である。この街は、廣田神社と共に発展してきた。 ところで、西宮と言えば、プロ野球球団阪神タイガースの拠地の阪神甲子園球場があることで有名である。 阪神タイガースチームは、毎年廣田神社に必勝祈願に来る。 阪神タイガース必勝祈願絵馬の案内 廣田神社では、阪神タイガース必勝祈願絵馬を販売している。 私は母方祖父から3代続いての阪神ファンだが、必勝祈願絵馬を買うほど熱狂的なファン

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    k10no3 2025/03/09
  • 坊主塚古墳 天神塚古墳 - sogensyookuのブログ

    丹波国府は、未だに発掘されていないが、丹波国府推定地として、今のところ亀岡市千代川町説と南丹市八木町屋賀説の二説がある。 平安時代の承安四年(1174年)十月二十日に書かれた「丹波国吉富庄絵図」の江戸時代初期の写には、現在の南丹市八木町屋賀の付近に「国府」と墨書された建物が描かれているという。 屋賀の町並み また、屋賀の北隣には、北屋賀国府という地名がある。 だが、国府の建物跡が発掘されないことには、ここが国府跡であると決定出来ない。 八木町屋賀にある京都丹波牧場のある辺りからは、奈良時代の大型建物跡が発掘された池尻遺跡や、奈良時代の瓦積み基壇が発掘された池尻廃寺跡が見つかった。 池尻遺跡、池尻廃寺跡の発掘場所 この池尻遺跡、池尻廃寺跡のすぐ東側に、坊主塚古墳、天神塚古墳という二基の古墳がある。 古墳は、天皇皇族や、地域の豪族の墓である。ここに二基の古墳があるということは、古墳時代にはこ

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    k10no3 2025/03/08
  • 龍興寺 坊田古墳群 - sogensyookuのブログ

    八木城跡から下山して、南丹市八木町八木西山にある臨済宗の寺院、龍興寺に赴いた。 龍興寺 龍興寺は、享徳元年(1452年)に、室町幕府の管領細川勝元が妙心寺第五世義天玄昭を招いて建立した寺院である。 安土桃山時代の天正年間(1573~1593年)には、子院9ヶ寺を有していたと言われている。 山門 天正七年(1579年)に、明智光秀が八木城を落城させた際、堂などが全焼して衰退した。 現在の堂は、天明六年(1786年)に再建された。 堂 実に堂々とした堂だ。尊は釈迦如来である。 境内にある鐘楼は、堂が再建された天明年間(1781~1789年)以前に建立されたものと言われている。南丹市の市指定文化財になっている。 鐘楼 梵鐘 また、龍興寺の裏には、織田信長の弟の織田信包(のぶかね)の供養塔が建っている。 織田信包供養塔 織田信包は、織田信秀の四男として生まれた。信長時代には、信長から伊

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    k10no3 2025/03/07
  • 南丹市 八木城跡 後編 - sogensyookuのブログ

    かえる岩を過ぎて更に山道を登っていくと、平坦な馬場に至った。 ここから西に行けば二ノ丸跡があり、東に行けば丸跡がある。 馬場 私は先ず二ノ丸跡に向かった。二ノ丸跡は、家臣内藤和泉の屋敷跡でもあった。 二ノ丸跡は、西側の先端部がコの字型の土塁に囲まれている。 二ノ丸城跡 二ノ丸城跡南側の土塁 コの字型の土塁 さてこの土塁の突端に立って下を見下ろすと、急峻な傾斜となっている。 二ノ丸跡の西側に造られた堀切である。 堀切 私は今まで数々の山城を見学してきて、一種の堀切ファンになったが、この八木城跡の堀切も、今まで見たものの中で有数の立派なものであった。 堀切の底 堀切の向こう側から二ノ丸跡を望む この堀切を越えて西に進むと、城の遺構の西端である八木玄蕃の屋敷跡の曲輪に至る。 八木玄蕃の曲輪跡 この曲輪の西端には土塁がある。 八木玄蕃の曲輪の土塁 土塁の上 ここから丸跡に戻った。 丸跡の切岸

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    k10no3 2025/03/04
  • 幡日佐神社 宝樹山安楽寺 - sogensyookuのブログ

    如城寺の参拝を終えて、次なる目的地、南丹市八木町氷所(ひどころ)中谷山にある幡日佐(はたひさ)神社に赴いた。 幡日佐神社 かつて、神社の裏山の峠を越えた神吉下村には、朝廷に献上する氷を貯蔵した氷室があったという。社伝によると、その地には氷室大明神が鎮座していた。 時期は明らかではないが、その氷室大明神の分祠を現境内の南にある故地に建てたのが、当社の創建という。 当初は氷所大明神と称した。 鳥居の扁額 和銅年間(708~715年)に、近在の美濃田村にある幡谷山に、八流の幡が天から下り、そのうちの一流が氷所大明神の境内樹にかかって金色の光を放った。 これを機に、以後は社名を「幡日佐」に改めたという。 天正十九年(1591年)に社殿を故地から現在地に遷した。 幡日佐神社の祭神は品陀和気命(応神天皇)であったが、寛文九年(1669年)に、戦国時代に焼亡していた神吉下村の氷室大明神を合祀した。 扁額

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    k10no3 2025/03/01
  • 教目山如城寺 - sogensyookuのブログ

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    k10no3 2025/02/21
  • 金龍山清源寺 - sogensyookuのブログ

    京都帝釈天の参拝を終えて、次に京都府南丹市八木町諸畑にある曹洞宗の寺院、金龍山清源寺を訪れた。 金龍山清源寺 清源寺は寛徳二年(1045年)に天台宗の寺院として創建されたが、応仁の乱で焼失した後、文明十三年(1481年)に正天重益という僧侶が再興して、その際曹洞宗の寺院に改めた。 その後慶長年間(1596~1615年)に山秀宗銀和尚により中興され、宝暦二年(1752年)には志雲長老により再建された。 清源寺 清源寺は、木喰(もくじき)明満上人が造った木造木喰仏像22躯を有することで知られている。 木喰明満上人は、享保三年(1718年)に甲斐国に生まれた。22歳で出家して真言宗の僧侶となり、45歳から木喰行を始めた。 山門 木喰行とは、「木戒」という修行法の一種である。 五穀を断ち、肉せず、火によって料理するものをせず、蕎麦の実や木の実を粉にして水を混ぜ、これを常とする百日間の修行で

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    k10no3 2025/02/20
  • 紫雲山帝釈天  - sogensyookuのブログ

    船井神社のある船枝の集落の北側に、志雲山という山がある。 この山中に、帝釈天(たいしゃくてん)を祀る紫雲山帝釈天がある。通称京都帝釈天と呼ばれている。 帝釈天を祀る帝釈天堂は、今は志雲山の麓にある曹洞宗の寺院、医王山福寿寺が管理している。 福寿寺参道 福寿寺の門 福寿寺堂 医王山ということは、尊は薬師如来だろう。曹洞宗が薬師如来を祀るのは珍しい。恐らく元は真言宗の寺院だったのだろう。 この福寿寺から北に行くと、志雲山(紫雲山)へ登る道がある。舗装されていて、帝釈天堂まで車で行くことが出来る。 私は車で上がったが、歩いてもそれほどの距離はない。 参道の途中、鐘が沢山設置されている。京都帝釈天願いの鐘という108個の鐘である。 打つ人の願いを帝釈天が聴いて下さるのだという。 参道の途中に観音堂がある。 観音堂 観音堂内の宮殿 この観音堂は、安産に効験があるそうだ。 一礼して車に戻り、山上を

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    k10no3 2025/02/18