ブックマーク / sogensyooku.hatenablog.com (375)

  • 龍燈山神宮寺 - sogensyookuのブログ

    沼島城跡に建つ蓮光寺の参拝を終えて東に歩く。沼島の集落の真ん中の道を行く。 沼島の集落 この道は、沼島のメインストリートである。 暫く歩くと、左手に真言宗の寺院、龍燈山神宮寺が見えてくる。 龍燈山神宮寺 神宮寺とは、神仏習合の時代に神社を管理する寺として建てられたものである。 かつては日各地の神社の隣に神宮寺があった。 龍燈山神宮寺の隣には、沼島八幡神社がある。昔は神宮寺が沼島八幡神社を管理していたのだろう。 神宮寺山門 沼島の神宮寺は、元慶元年(880年)に開基された寺である。 沼島の領主だった梶原氏の菩提寺である。 堂 境内には、樹齢数百年の白槇(びゃくしん)がある。 白槇 寺の守り神のように生えている。白槇の下には素朴な修行大師像がある。 修行大師像 この寺には、2つの兵庫県指定有形文化財がある。 一つは「尊勝法華曼荼羅」である。 尊勝法華曼荼羅のレプリカ 「尊勝法華曼荼羅」は、

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    k10no3 2024/08/24
  • 沼島城跡 - sogensyookuのブログ

    7月28日に淡路の史跡巡りを行った。 今回訪れたのは、淡路島の南約3キロメートル沖に浮かぶ沼島(ぬしま)である。 今回の沼島の旅が、私の淡路史跡巡り最後の旅となった。 沼島 沼島に渡るには、兵庫県南あわじ市灘土生にある土生港から沼島汽船に乗らなければならない。 沼島汽船灘ターミナルセンター 沼島汽船の待合所である灘ターミナルセンターには、沼島の地図が掛けられている。 沼島の地図 沼島は上空から見ると、勾玉のような形をしている。周囲約10キロメートル、面積2.63キロ平方メートルの小島である。 沼島汽船は、乗ってみると意外に利用客が多い。観光のために沼島に渡る人は、案外多そうである。 沼島汽船の乗り場 沼島汽船はまちどり 沼島汽船は、灘土生と沼島を約15分で結ぶ。波は穏やかで、スムーズに沼島に着いた。 沼島漁港 沼島の主要産業は漁業である。住民の大半は、漁に関係していることだろう。 沼島に到

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    k10no3 2024/08/23
  • 江崎古墳 - sogensyookuのブログ

    中国分寺跡の西側には、吉備路最後の前方後円墳と言われる江崎古墳がある。 江崎古墳後円部 江崎古墳は山の南麓に築かれていて、前方部が山側にある。 全長約45メートル、前方部幅約25メートル、後円部径約32メートル、二段築成で、円筒形埴輪が並んでいた。 江崎古墳 後円部の西側に、横穴式石室が開口している。 後円部と横穴式石室の入口 前方部 横穴式石室は、両袖式で、全長13.8メートル、玄室長6.6メートル、玄室最大幅2.6メートルで、羨道には、角礫を使った閉塞施設が残っていた。 閉塞施設 後円部の石室入口への立ち入りは禁止されていて、石室内の見学は出来なかった。 石室入口 だが入口に近づいてカメラのフラッシュを焚くと、奥に安置されている石棺が見えた。 石棺 石棺は、こうもり塚古墳と同じ貝殻石灰岩製(浪形石製)である。 江崎古墳は、昭和55年に発掘調査が行われた。 棺内には、成人男女の人骨二体

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    k10no3 2024/08/22
  • 総社吉備路文化館  - sogensyookuのブログ

    中国分尼寺跡から北西に歩いていくと、茅葺屋根の建物が見えてくる。 総社吉備路文化館の敷地内にある旧山手村役場と旧松井家住宅である。両方とも国登録有形文化財になっている。 旧山手村役場 山手村は、かつて岡山県都窪郡にあった村である。平成17年3月22日に総社市に合併されて消滅した。 この建物は、風早雲嶂(かざはやうんしょう)という医師が、幕末から明治初期にかけて自宅として建てたものである。 旧山手村役場入口 風早は初代山手村長となった。風早の死後は、山手村がこの建物を購入し、明治35年から昭和43年まで66年間に渡って山手村役場として使用した。 こんな建物が、戦後になっても村役場として使われていたというのが驚きだ。 かつてこの建物は、現在総社市役所山手支所がある場所に建っていたが、昭和47年に現在地に移築された。 土間に入る 建物に入ると土間があり、奥に台所がある。台所には竈が設置されてい

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    k10no3 2024/08/21
  • 備中国分寺跡 中編 - sogensyookuのブログ

    山門を潜って境内に入ると、正面に見えるのは客殿である。 客殿 客殿玄関 備中国分寺は、中世初期に衰微した。日各地の国分寺には、七重塔が建っていたが、備中国分寺の七重塔は、南北朝期までは残っていたらしい。 備中国分寺を復興させたのは、備中高松城主の清水宗治で、天正年間(1573~1592年)に真言宗の寺院として再興された。 客殿勅使門 その後再び衰微したが、宝永年間(1704~1711年)に上林領主蒔田定英の援助で、増鉄上人が復興させた。今に残る経蔵、裏書院、庫裏は、この時の建築である。これらの建物は、岡山県指定文化財となっている。 経蔵 外から見た経蔵と大師堂 大師堂 庫裏 堂に安置されている尊は、薬師如来坐像である。この像自体は、江戸時代の再建時のものだろう。そう古いものではない。 堂内陣 尊薬師如来坐像 堂は、江戸時代の再建である。文政年間に建てられた五重塔と同

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    k10no3 2024/08/16
  • 小造山古墳 - sogensyookuのブログ

    以前、岡山市北区新庄下にある全国第4位の規模の前方後円墳、造山古墳について紹介した。 今回は、造山古墳の北西約500メートルの山中にある、小造山古墳について紹介する。 小造山古墳は、岡山市北区新庄上、総社市下林にまたがる山の中にある。 私は、総社市側にある企業集積地、テクノパーク総社の服島運輸の南側の登り口から山に入った。 小造山古墳のある山 登り口 山に入るとすぐ前方に、小高い丘のようなものが見えてくる。これが小造山古墳の後円部である。 後円部 小造山古墳は、5世紀中期に築造された前方後円墳である。 全長135メートル、後円部の直径92メートル、高さ9メートルの古墳である。 後円部周辺に、幅約10メートルの周濠の跡がある。 周濠の跡 写真では分かりにくいが、周囲よりも低くなった場所が帯状につながっている。これが周濠跡であろう。 古墳は三段に築盛されている。後円部には、僅かに段になった形跡

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    k10no3 2024/08/13
  • 鼓神社 - sogensyookuのブログ

    足守の見学を終えて北上し、岡山市北区上高田にある鼓神社を訪れた。 鼓神社 ここは、備中国の二宮とされる神社である。 鳥居に架かる「二宮鼓神社」の扁額 祭神は、第10代崇神天皇の時代に、吉備の平定のために派遣された吉備津彦命の功臣遣霊彦(やりだまひこ)命である。 その他、当地の県主であった楽々森彦(ささもりひこ)命、吉備津彦命、その后神の高田姫命、その子吉備武彦命を祀っている。 参道 随神門 今では、高田姫命を主神のように扱っているが、元々は吉備平定に功績のあった遣霊彦命が、吉備津彦命からこの地を所領として賜り、後世の人が遣霊彦命を神として祀ったのが、この神社の起こりだろう。 参道を歩くと、脇に紫陽花が咲いていた。しばし紫陽花を見て心を休めた。 参道脇の紫陽花 この神社の創建年代は詳らかではない。 「六国史」の一つ、「日文徳天皇実録」に、仁寿元年(851年)に、この神社を正六位上に叙したと

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    k10no3 2024/08/12
  • 大光寺霊廟 緒方洪庵生誕地 - sogensyookuのブログ

    足守の町の西にある山中に、足守藩主木下家の菩提寺である臨済宗の寺院、大光寺がある。 第3代藩主木下利当(としまさ)が建てたと伝えられている。 大光寺 山門を潜ると、寺まで参道が真っ直ぐに続いている。 山門 山門は城郭の門のように立派である。 参道はゆるやかな石段で、歩くとすぐに目的地に到達した。 参道 石段を登り切って驚いた。大光寺は荒れ果てていて、明らかに無人の廃寺であった。 大光寺 大光寺には、秀吉、北政所、歴代藩主の位牌を安置した霊廟があるが、境内に入ることは出来なかった。 境内の中は、見るからに雑木や雑草だらけである。 霊廟 霊廟は、岡山県下でも珍しい霊廟建築の遺構として、岡山県指定文化財になっている。 大光寺の土塀や堂は崩れかかっているが、岡山県指定文化財になっている霊廟だけは修復されているのか、屋根も崩れていない。 堂は、唐破風の玄関の付いた立派な建物だったようだが、

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    k10no3 2024/08/11
  • 近水園 - sogensyookuのブログ

    旧足守藩陣屋跡の北隣に、足守藩木下家の庭園である近水園(おみずえん)がある。 足守川の水を引き入れて造られた、池泉回遊式庭園である。岡山県指定名勝となっている。 近水園 作庭された詳細な時期は不詳であるが、18世紀初頭と言われている。 近水園 池には、亀島、鶴島という二つの島が造られている。 亀島 亀島には、亀頭石、中心石、脚石、亀尾石が配され、上から見ると亀のような姿に見える。 鶴島には、木下利玄の歌碑が建っている。利玄も近水園を訪れて、その風光を愛でたことだろう。 鶴島 木下利玄の歌碑 近水園には、池に面して吟風閣という数寄屋造りの建物が建っている。 吟風閣は、第6代目藩主木下㒶定(きんさだ)が、宝永五年(1708年)に仙洞御所を造営した時に、その残材を使って建てたと言われている。 吟風閣 吟風閣は、池に迫り出すように建てられている。1階の回廊の下は、懸造になっている。 吟風閣 吟風閣

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    k10no3 2024/08/10
  • 旧足守藩陣屋跡 木下利玄生家跡 - sogensyookuのブログ

    旧足守藩侍屋敷遺構から北に歩くと、足守藩の陣屋跡がある。 陣屋は、城を持つことが出来なかった小規模藩や旗、藩の家老らが領地に設けた政庁のことである。 石高2万5千石の小藩だった足守藩も、城を持つことは出来ず、陣屋を築いた。 足守藩陣屋図 大坂夏の陣で功績を挙げ、元和元年(1615年)に足守藩主になった木下利房は、宮地山南東麓の地に陣屋を築いた。 陣屋の周りには、ささやかだが濠を巡らした。この濠は今でも残っていて、陣屋を偲ぶよすがとなっている。 陣屋の大手 陣屋の濠 陣屋の大手は東側にあるが、南側には濠に石橋が架かっていて、かつての陣屋の雰囲気を残している。 陣屋の東側の石橋 平地に築かれた陣屋には、防御能力はほとんどない。お濠も、ちょっとした溝のような程度である。 大坂の陣が終わり、合戦のない太平の世になってから築かれた陣屋らしい。 陣屋のお濠 大坂夏の陣で豊臣家が滅亡したことにより、応

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    k10no3 2024/08/09
  • 西宮砲台  - sogensyookuのブログ

    西宮市教育文化センターから西に歩き、夙川を越えると、昔香櫨園(こうろえん)と呼ばれていた一帯に出る。 香櫨園の辺り 香櫨園は、明治40年に開園した娯楽施設の名である。博物館、動物園、グラウンド、奏楽堂、宿泊施設、ウォーターシュートなどがあった。 その名は、創業者香野蔵治と櫨山慶次郎の名前から取られた。 阪神電鉄も、集客を見込んで、近くに香櫨園駅を設置したが、香櫨園は開園から僅か6年後の大正2年に廃園となった。 その跡地は今のような住宅地になった。 それにしても、明治時代にそんな娯楽施設があったとは、驚きである。 ここから東に行き、西宮市西波止町にある国指定史跡、西宮砲台に赴いた。 西宮砲台は、御前浜という砂浜にある。 御前浜 この海岸が御前浜と呼ばれるようになったのは、かつて神功皇后がこの辺りに上陸したからとか、広田神社摂社の濱の南宮の前にある浜だからとか、様々な説がある。 この御前浜の奥

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    k10no3 2024/08/01
  • 金津山古墳 朝日ヶ丘遺跡 - sogensyookuのブログ

    阿保親王塚古墳の南側、翠ヶ丘台地の先端部に当たる芦屋市打出小槌町からは、打出小槌遺跡が発掘された。 打出小槌遺跡が発掘された辺り 打出小槌遺跡からは、約2万年前の石器である、国府(こう)型ナイフ形石器が発掘された。 芦屋市内で最古の出土品である。 国府型ナイフ形石器 打出小槌遺跡から発掘された出土品は、芦屋市立美術博物館にて展示されている。 また、打出小槌遺跡からは、5世紀末の人物埴輪なども見つかっている。 人物埴輪 芦屋には、古くから長い時間、人々が住み着いていたようだ。 打出小槌町の東にある芦屋市春日町には、5世紀後半に築造された帆立貝型前方後円墳の金津山古墳がある。 金津山古墳 金津山古墳は、住宅街の真ん中にあって、周囲をフェンスに囲まれており、一般人は立ち入ることが出来ない。 金津山古墳の出入口 金津山古墳 元々の墳丘は、全長が約55メートルあったが、鎌倉時代から室町時代にかけての

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    k10no3 2024/07/20
  • ヨドコウ迎賓館 その5 - sogensyookuのブログ

    3階の奥には、寝室3室と婦人室1室がある。 とは言え、今は寝室としては使われておらず、往時の面影はない。 最も南側の寝室には、部屋の中央に当時あったものを再現した机と椅子が置かれていて、書斎のような雰囲気を出している。 南側寝室の入口 南側寝室 机と椅子は、直線基調のアールデコ調のものである。 机と椅子 この椅子には実際に座ることが出来る。 私も座って大きく息を吸い込んだ。 寝室の西側の壁には、暖炉が設置されている。 寝室の暖炉 寝室の北側には、一段高い位置に婦人室がある。奥方がここで化粧をしたり、化粧落としをしたのだろう。 婦人室 婦人室と寝室の間には窓があり、婦人室から寝室を見下ろすことが出来る。 婦人室から見下ろした寝室 婦人室は、畳敷きの和室であった。 寝室に面した婦人室の棚の上に、ライトの理想が結実された「夏の家」に置かれたものと同じテーブルスタンドが置かれている。 テーブルスタ

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    k10no3 2024/07/14
  • ヨドコウ迎賓館 その4 - sogensyookuのブログ

    和室西側の廊下の突き当りを右折すると、箱がある。 ここからが、ヨドコウ迎賓館が個人の住宅だった時代の家族の生活スペースである。 箱 廊下を挟んで、この箱の向かい側に、洗面室や浴室などがある。 箱(右)と洗面室(左)の窓 洗面室の窓 先ずは洗面室に入ってみた。洗面室の奥にトイレと浴室がある。 洗面室入口 今まで色んな邸宅を見学して思ったが、広壮な邸宅でも洗面室や浴室は狭いので、部屋全体をカメラに収めることが出来ない。 こういった部屋を魅力的な写真に撮る方法はないものかといつも頭を悩ませる。 洗面場 水道の蛇口のある洗面場の底には、ガラス棒が並べて敷き詰められていた。ここに水を流した時には、涼しい音がするのではないか。面白い工夫である。 洗面場の底に並べられたガラス棒 洗面室の奥には浴室がある。タイル張りの、いかにも大正昭和初期の浴室である。 浴室 浴室の湯舟 湯舟を見ると、タイル張り

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    k10no3 2024/07/13
  • ヨドコウ迎賓館 その3 - sogensyookuのブログ

    2階応接室、給湯室の見学を終え、3階に上がる。 3階への階段 3階に上がると、最初に広間に導かれる。広間は、三間ある和室の南側にある空間で、広い窓がついた開放的な場所である。 広間の中央には、ヨドコウ迎賓館の模型が置かれている。 広間 ヨドコウ迎賓館の模型 この模型を見ると、ヨドコウ迎賓館が、山の斜面を巧みに利用した、自然をその一部とした建物であることが実感できる。 広間の北側には、三間の和室が続いている。 広間から和室を望む 畳敷きの和室は、当初のライトの設計には盛り込まれていなかったが、施主の強い要望により、ライトの高弟の遠藤新、南信の配慮で実現した。 ライトはヤード、ポンド法の寸法でこの建物を設計したが、遠藤新、南信は、日式の尺貫法で和室を設計した。その誤差は壁の厚さで調整した。 和洋折衷の見事な実例がここにある。 南側和室の東側窓 南側和室の西側床の間 南側和室の西側窓 ヨドコウ

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    k10no3 2024/07/13
  • 芦屋神社 - sogensyookuのブログ

    6月9日に摂津の史跡巡りを行った。 兵庫県の芦屋市と西宮市の史跡を巡った。 最初に訪れたのは、兵庫県芦屋市東芦屋町にある芦屋神社である。 芦屋神社 芦屋神社の祭神は、天照大御神の第二子天穂日(あめのほひ)命である。 祭神名を刻んだ石柱 天穂日命は、天照大御神の命により、大国主命と国譲りの交渉をするために、六甲山頂の磐座に降り立ち、出雲に向かったが、大国主命に心服して逆に彼の家来になってしまった。 その後、大国主命が天孫(天皇家)に国譲りをする条件として、自らを日一の大神殿に祀るように頼んだため、天孫が日に降臨して日を統治する代わりに、大国主命は今の出雲大社に祀られることになった。 拝殿 天穂日命は、出雲大社の神官となって大国主命に仕えた。天穂日命の子孫は、出雲国造家である千家(せんげ)家となり、代々出雲大社の神官を勤めた。 今でも出雲大社の神官は、千家家が勤めている。 天皇家の祖先は

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    k10no3 2024/07/08
  • 箕浦家武家門 - sogensyookuのブログ

    鳥取市尚徳町の北西角に、鳥取藩の重臣箕浦家の屋敷にあった箕浦家武家門がある。 箕浦家武家門 箕浦家は、鳥取藩の番頭格だった家で、箕浦家屋敷は現在の鳥取市立久松小学校の敷地にあった。 鳥取市立久松小学校 箕浦家武家門は、明治時代半ばから、箕浦家屋敷跡に建築された久松小学校の校門として利用されたが、昭和11年に鳥取師範学校(現鳥取大学)の増改築に際し、同校の校門として現在地に移転された。 門正面 門の扉 門の背面 門はなまこ壁を有する漆喰塗の長屋門で、門の左右には門番が控えた部屋がある。 門番部屋の入口 箕浦家武家門は、昭和18年の鳥取大地震、昭和27年の鳥取大火災を生き残り、現在に伝えられた。 箕浦家武家門のある鳥取市尚徳町は、鳥取県立図書館、鳥取県立公文書館、鳥取文化会館などが建つ鳥取市の文教地区であるが、鳥取藩主池田重寛(しげひろ)が宝暦七年(1757年)に建てた藩校尚徳館が地名の由来に

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    k10no3 2024/07/05
  • 久松山真教寺 荒木神社 清光山本浄寺 - sogensyookuのブログ

    一行寺に隣接して、浄土宗の寺院、久松山真教寺がある。 寺伝によれば、天文十四年(1545年)に布施天神山城主山名誠通(のぶみち)が、久松山に築城するに際し、鎮守として建立したという。 久松山真教寺 又この寺院は、吉川経家の菩提所でもある。 境内 堂正面 境内には、鳥取市保存樹木に指定された黒松がある。 明治30年に植えられた松で、樹勢なお盛んである。 黒松 盆栽の松のように、よく整備されている。 また、境内の鉢には、蓮の花が咲いていた。夏が近づいている。 蓮の花 真教寺の東側には、墓地と塔頭円相院があったが、今は移転して、跡地が真教寺公園という公園になっている。 真教寺公園 公園には、入場無料の動物園がある。 真教寺の参拝を終えて、若桜街道に戻ると、麒麟獅子の舞が行われている。鳥取市街の氏神である聖神社の祭礼行事の日であるらしい。 麒麟獅子 因幡から但馬西部にかけて、麒麟獅子による獅子舞

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    k10no3 2024/07/02
  • 片原神社 慶雲山養源寺 - sogensyookuのブログ

    鳥取市街の散策を続ける。これからは、若桜街道と呼ばれる国道53号線沿いの史跡を訪れる。 鳥取市片原1丁目に片原神社という小さな神社がある。 片原神社 拝殿 片原神社の創建については、よく分かっていない。 かつてこの辺りは、芝生が広がっていて、その中に五輪塔が散在するような場所であったらしい。 殿裏の五輪塔 享保年間(1716~1735年)に、誰ともなく、この神社を荒神様だと言うものが出てきた。 ここに参拝して、瘧が治った、頭痛が止んだという人が出てきて、某家の乳母が日参して、重病の子供の助命を祈願し、子供が元気になったという例もあったらしい。 殿 その頃からこの神社は、片原荒神と呼ばれ、子供の守護神とされるようになった。 明治元年に一度廃社となったが、明治12年に復活し、片原神社と称されるようになった。 それ以降の祭神は須佐之男命である。 片原1丁目の南側の町1丁目には、鳥取市立遷喬

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    k10no3 2024/06/22
  • 高砂屋(城下町とっとり交流館) - sogensyookuのブログ

    鳥取市元大工町の角に、江戸時代から酒造業を営む高砂屋の建物がある。今は城下町とっとり交流館という名前で一般公開されている。 明治時代中期の建物で、国登録有形文化財である。 県道184号線沿いに主屋が建っている。主屋は、店舗棟の東棟と、住居棟の西棟が東西に連なっている。 高砂屋 主屋東棟 主屋西棟 高砂屋は、元々播州高砂で酒造を行っていた池内家の屋号である。 元和三年(1617年)に、姫路藩主池田光政が鳥取に国替えになった。 その時に、高砂屋も藩主に付いて播州高砂から鳥取に移った。 当時の鳥取では、濁り酒しか造られていなかったが、この高砂屋が鳥取で初めて清酒を造り、販売したらしい。 東主屋1階 二階の格子窓 池内家は当初材木町に住んでいたが、明治時代の中頃に元大工町に移り、この建物を建てたという。 この建物は、昭和18年9月の鳥取大地震や、昭和27年4月の鳥取大火の被災を免れた。 高砂屋東主

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    k10no3 2024/06/19