学問(主に人文学だけど)ってのが中立を装うことによってその政治性を隠蔽し、その「政治性」込みで連綿と受け継がれてきたわけだけど、その問題性は今や明らかだよね、とサイードとか色んな人が言ってから早30年弱。それなのに、学者を名乗る者がいまだに自分のポジショナリティ(立ち位置)とか、自分の発言のパフォーマティヴィティ(自分の発言が結果としてどのように受け止められたり影響を与えたりするか)を、自分で「俺はそういうつもりはないもん」と言えば簡単に打ち消せると考えているというのはどういう事なのか(挨拶)。 このところ、大屋雄裕さんとApemanさんの議論を見ていたのだが、僕はApemanさんに与する。大屋さんの議論は、僕から見ればまさに「中立を装う」事に終始しているように思えるからだ(その「中立を装ったことの結果」は敢えて無視、と言うスタンスでもあろう)。 時々大屋さんのブログは拝見していたが、その