西夏史、中央ユーラシア史、中国史、日本史から、歴史に関係のない日常のことまで、気になったことを記録しています。 嵐の予感!民族学者、「大チベットという国が存在した事実はない」と断言---中国(Record China) 一週間近く前のニュースでいくつかのサイトで話題になっていたが、興味のあるテーマなので少し考察をしてみた。この記事によれば、中央民族大学の喜饒尼瑪氏は以下のように述べたという。 ダライ・ラマが主張する『大チベット』とは現在の自治区だけでなく、四川省、甘粛省、雲南省、青海省を含めた地域を指すもので、これらの地域が中国の歴史上において『大チベット』であった事実はないさらに、これに続けて以下のよう述べている。 西蔵(現チベット自治区)」は元(1271年〜1368年)の時代には中央政府による直接統治下にある1行政区域として地図に画かれており、王朝や政権は変わっても、現在に至るまでずっ
紀元前900年代前後或いは紀元前300年前後までには建国してると思いますよ。 いや4/1ネタではなくて(笑) 西晋のAD279年~280年(呉滅亡年)にかけて戦国魏の王墓もしくは封君墓から発掘された『穆天子伝』という西周穆王の西域遠征の記録(太行山脈から天山山脈までの紀行文、一説に趙の武霊王の時代に編集されたとも)に、 宗周:長安附近の西周の都 西土:西域など 河宗の邦:オルドス 陽紆の山:陰山 河首:黄河の河源附近 崑崙の丘:崑崙山 庚辰、天子は宗周の廟に大朝し、乃ち西土の数を里(はか)る。 曰(ここ)に、宗周テン水より以て西して、北のかた河宗の邦、陽紆の山に至る、三千有四百里なり。 陽紆自り西のかた西夏氏に至る、二千又五百里なり。 西夏氏より珠余氏に至り、河首に及ぶ、千又五百里なり。 河首襄山より以て西して、南のかたショウ山、珠沢、崑崙の丘に至る、七百里なり。 ~(中略)~ 各行数を兼
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