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ブックマーク / kanototori.hatenablog.jp (176)

  • 厳島町時代の出来事 - 環藝録

    明治22年から昭和25年までが「佐伯郡厳島町」*1。 明治44年の厳島神社の社格昇格を祝う注連柱に「厳島町」とあり、地御前神社の石鳥居にも「厳島町」の人が名を連ねる。 大正12年に厳島が史蹟及名勝に指定される。昭和6年に文部省による碑が立ち、参道入口で棧橋からの客を迎える位置に立ち続ける。 wikipedia:厳島の中に「使い分け」の項があり、「厳島」と「宮島」について、明確な区別があるわけではなく使用する文脈によってどちらかが選ばれたり併用されたりすることなどが例示されている。 県立広島大学の図書館企画展示「旅人が見た厳島」で『藝州厳島細見之図』(天保10年改正再版)が展示されており、その題名の傍らに平仮名で「あきのみやじまゑづ」と添えられている。「みやじま」という呼び名が平易な言葉の一群に含まれていることの例。 *1:http://d.hatena.ne.jp/kanototori/2

    厳島町時代の出来事 - 環藝録
  • 第3回平和祭の位置 - 環藝録

    その「2代目平和の鐘の物語」の資料には『ヒロシマの記録』(中国新聞社)から引用した平和祭の様子の写真が2点ある。 その写真は、「2代目平和の鐘に関する新聞記事 hiroshima-peacebell.org に画像の載っている、当時の中国新聞記事を初出とする。 鐘を吊るした鉄塔が手前にあり、南側の広場にステージが東向きにあり、さらに南に原爆ドームが見える。 現在の「はなのわ2020」会場内の「未来に向けた思い出年表」の道筋がこの写真の向きに沿っている。

    第3回平和祭の位置 - 環藝録
  • 湯釜古墳の石室 - 環藝録

    古墳の詳細は『探訪・広島の古墳』(1991)や 探訪・広島県の考古学―百聞よりも一見 作者: 脇坂光彦,小都隆出版社/メーカー: 渓水社発売日: 2013/09メディア: 単行この商品を含むブログ (1件) を見るを参照。古墳は尾根上にあるけれど、所在地の字名は「胡麻谷」。ほとんど戸坂の境界に近い口田。 現状の埋葬施設の残り方は、天井部には何も無く、高さ1m以下の壁石が囲み、北面の一部が開口する。温泉が湧いていたという想像がなされやすい形であるし、「古墳の石積みに水銀朱(硫化水銀)が塗られていたことから、その朱色が硫黄の残留物のように思われて温泉跡という伝説が生じたのであろう」(新中瑛亮『物語・松笠観音寺』p52)との推測もある。 関連 梅慶庵の塚穴 http://d.hatena.ne.jp/kanototori/20101016/1287247015

    湯釜古墳の石室 - 環藝録
  • 「フタバ書店」表記 - 環藝録

    radio.rcc.jp 今月放送されたラジオ番組のサイト上の表記が「フタバ書店」(肩書きのところは「フタバ図書」)だったり、 横川の商工案内図でも「フタバ書店」と書かれたりと、ありがちな誤表記。

    「フタバ書店」表記 - 環藝録
  • 下調帳の貞丸1号古墳 - 環藝録

    文政二年提出、南方村の「国郡志御用ニ付下調書出帳」にはこう記されている、という孫引き。 油塚 塚の内に石船と云伝へて長さ七尺、横三尺九寸、高さ二尺、石中、人の臥みたけほどうがちたる石あり、又、近所に右石の蓋とおぼしき石もあり、上代富貴の人の墳墓か*1 この記述を参考にして、前項『藝藩通志』の「古壙」になるのだけれども、そこでの石函(地元の呼称:石船)の寸法は「大約長六尺幅三尺高三尺餘」とあって、三点とも少し違う。測る部位が違うのか測る人が違うのか、はたまた切りの良さが違うのか。 また、近所の「右石の蓋とおぼしき石」は、後に供養塔の台石になるものが転がっていたのか、又は他のそれっぽい平たい石があったものか。すでに「石船」と言い伝えられるほどに、その石棺が蓋を失ってから長い年月が経っていたもののようであり。 *1:「貞丸1号古墳・貞丸2号古墳」『日歴史地名大系35』平凡社

    下調帳の貞丸1号古墳 - 環藝録
  • 元柳町の説明板 - 環藝録

    天神町とは材木町を挟んで反対側、川に面した小さな町が「元柳町」。現在の国際会議場の北西部、川橋よりは南の区域。 城下町の東部(現在の南区稲荷町)に新たに「東柳町」ができたことで「柳町」から「元柳町」に変わる。 英文説明では「Motoyanagi-cho("old willow town")」とある。oldなほうのwillow town。

    元柳町の説明板 - 環藝録
    kanototori
    kanototori 2022/12/04
    “「Motoyanagi-cho("old willow town")」”
  • 両延神社参道への入口 - 環藝録

    光西寺観音堂の傍らに立つ石燈籠。大毛寺川を渡って神社方面へ向かう道に面して「献燈」の二字。 「大毛寺氏子中」と「々青年團」による大正7年の奉納。「年」の字がとてもジグザグ。

    両延神社参道への入口 - 環藝録
  • 「廣島缶詰物語」展 - 環藝録

    その郷土資料館で12日まで開催されている企画展が「廣島缶詰物語」。 廣島缶詰物語:広島市郷土資料館 脇隆景や逸見勝誠*1に始まる、広島での民間の缶詰製造業に関する諸資料の展示で、この建物(糧秣支廠缶詰工場)などの軍需に関する資料は今回は脇役。図録掲載の表「廣島県の主な缶詰製造業者」は10ページにわたる。 *1:サンヨー堂 http://www.sunyo-do.co.jp/top/regeme/history.html※リンク切れ →令和4年9月現在はこちらhttps://www.sunyo-do.co.jp/company/

  • 館町と桜山 - 環藝録

    和久原川西部、三原駅の北側一帯が「館町」。もと三原城内で、神明大橋西詰に「東大手門跡」の碑がある。 碑のある曲がり角には「桜山登山道」への案内表示もある。桜山は館町のすぐ北にある小山で、全長865mの登山道。平成10年に桜の植樹が始まった、と案内図にある。 桜山はもと御調郡西野村の南東端にあたり、中世の城跡として記録された。 桜山城跡 城主山名権之左衛門与申伝候、由来年暦相知不申候、城山之後ロニ大目木与申所御座候、此所より落城仕候ニ付、大めげ与申名ヲ言誤テ大目木与申習セ候由申伝候、駒ヶ原与申候者(略) 西野村「国郡志御用ニ付下しらへ書出帳」*1 櫻山城  西野村の地にて、三原城の北にあり、相傳る、文應、文永の間、山名權左衛門入道氏正なるもの居りしが、弟備中に殺さる、後氏正が子、備中を討て再び此城に據りしといふ、 『藝藩通志』巻百 村の提出した記録では古城跡にまつわる地名について詳しく、藝藩

    館町と桜山 - 環藝録
  • ホタルの里 - 環藝録

    「坂村」は同じく高田郡でも水系の異なる三篠川流域の上流で、豊田郡と三次郡(文政期当時)と隣接する。 そこの「書出帳」はどの部門も記述が詳細で、物産も名前だけでなく注記がたくさんある。 「魚龞之部」には「山椒魚」に「所俗はんざきと申候」と添えられ、 「虫之部」では筆頭に「螢」があり、「当村ハ沢山ニ居リ申候四月末より五月初メ頃盛ニ御座候」と、名物のように意識されている。

    ホタルの里 - 環藝録
    kanototori
    kanototori 2022/04/21
    高田郡坂村
  • 多治比川の稲田橋 - 環藝録

    国道54号の東、商店街から伸びる道にあたる「稲田橋」は赤い。 案内図上でも欄干を目立たせている(実際は反った形ではないけれども)。 近世後期にも規模の大きな板橋として知られていて、「吉田十二景」*1のうちの「稲田橋納涼」に選ばれている。吉田村の橋の筆頭*2にあるのはもちろん、高田郡全体でも板橋は二例があるのみ 一、橋  七百弐拾ヶ所 (板橋 弐 吉田町稲田橋 上根村刎橋 但 (石橋 弐百弐拾七ヶ所 (略) (土橋 三百四拾ヶ所 (木橋 百五拾壱ヶ所  (略) 「国郡志御編集ニ就テ下調郡辻書出帳」『高田郡史 資料編』 多治比川を「稲田川」とも呼ぶことは、吉田村の「川筋」の部に「一名稲田川」とあり郡辻帳(同上)にも「名稲田川」とある。より詳しくは吉田村の祇園社(清神社)に述べられており、「日紀神代巻」にあらわれる「可愛川」を同村の「江ノ川」であるとしたうえで、 又吉田ヲ流ルル川ニ小川一派ア

    多治比川の稲田橋 - 環藝録
    kanototori
    kanototori 2021/08/27
    “旧名稲田川ト名ク吉田ノ市中ヲ横ニ流ル”
  • 石碑の復旧 - 環藝録

    移転するつもりのない石碑が、災害によって攪乱されてしまった後、傷を残しつつも元の位置に直された姿は、災害からの復旧を象徴する意味が加わる。 安佐南区の細野神社の麓に立っていた「定用水碑」と「熊野忠左衛門墓碑銘」が豪雨災害により土砂に流された。神社境内の復旧とともに石碑の台座も直されて、でこぼこの目立つ碑面が据え直されたのが平成26年。「ライオンズクラブ国際協会331-c」による寄贈。

    石碑の復旧 - 環藝録
  • 広の三角州 - 環藝録

    賀茂郡広村の『国郡志御用書上帳』*1(文政二年)では、村内の川を「大川壱筋」のみとして、その大川が村内で枝分かれして海に注いでいるとする。 郷中ニ而二筋ニ分レ、又三筋ニ分レ末海中ニ入、西を川と言東を中川と言、 その「川」(広西大川)と「中川」(広東大川)に挟まれた三角州が「古新開」と呼ばれ、古新開からさらに沖へと干拓が進み、「四新開」「仙兵衛新開」「彌生新開」「武兵衛新開」が連なっていた(『藝藩通志』巻七十六、広村絵図の記載)。 ぱっと見気付きにくい「新開」と「新聞」の誤りは、「古新開」で起こりやすいのかもしれない。 また、同書上帳の「当村形勢生産之事」に、水害の多いことに触れている。 右大河なれハ年々砂流れ出川筋高くなりて古地方ハ水損多し、又大水ニ至れハ所々川岸堤等危く、村中之者向寄々ニ相集り是を防く事心力を尽せり、誠ニ後来水難之憂あり、 大正時代、広村に海軍工廠が置かれたことで都市

    広の三角州 - 環藝録
  • 美波羅川 - 環藝録

    広く江田庄と括られた三谿郡西部地域。そこで一番大きな川が「美波羅川」で、みよし風土記の丘の東を流れて馬洗川に合流している。源流は世羅郡の青水。 前項と同じくふるさとの川と桃源郷 (芸備選書)。 p47からp53は「美波羅川-正しくは三原川。美波羅川は風流人のつけた名称-」という記事で、明治二十年代に「美波羅川」という統一呼称を与えられたことなどが記されている。語源の「三原」から表記を変えて用いたものという。 三谿郡での呼び名に「西川」があるものの、流域の村単位では東西南北を冠する必要性は少なかったろう。強いて言えば「大川」ではあるけれど、 一 大川 壱筋 川上当郡三若村より流来、川下海渡村へ流込申候 (略)川名何与申儀茂無御座候 「三谿郡石原村国郡志御用書上帳」(『三次市史4』三次市.2004所収) 固有名詞が無くとも日常では差し支えなかったと見える。

    美波羅川 - 環藝録
  • 大毛寺の人穴 - 環藝録

    上ヶ原神代人穴 数拾ヶ所  往古人住居仕候由 奥行五間 横九尺或ハ二間三間有之候片平ニ入口有之中ニ炭ノ粉杯有之何ツノ頃何人住候歟ハ相知不申左右奥ハ築地ニ而上ハ石畳ニ仕雨露漏不申候当時ハ野山又ハ百姓腰林ノ内杯ニ御座候 大毛寺村「国郡志御用ニ付下調べ書出帳」 と、大毛寺村の古跡として記録されているけれど、上中野村や水落村では取り上げられていない。複数の村にまたがる福王寺山南斜面を「上ヶ原」ということにするなら、現存の青古墳群も含めた古墳が「数拾ヶ所」あったということか、それとも数量については大毛寺村にあるものだけかもしれない*1。 「奥行五間 横九尺或ハ二間三間」という寸法が、どの古墳のどの部分をどう測ったのやら。青4号古墳の「全長5.95m、幅 入口付近1.1m、中央1.45m、奥壁部1.24m」*2とくらべても、そのままでは置き換えられない長さ。墳丘の直径はどれも10m前後だから「幅」とは

    大毛寺の人穴 - 環藝録
  • 案内図の訳語 - 環藝録

    その「宇品海岸プロムナード案内図」には、日語の地点名に英字とハングルと簡体字と繁体字が添えられている。「宇品デポルトピア」などは英字のみ。英語とイタリア語の造語の場合、漢字だとどうするのだろう。 案内図のタイトルも訳してある。宇品海岸プロムナードの「海岸」は訳されて「seaside」。漢字の方では「プロムナード」が訳されて「散歩路」。

    案内図の訳語 - 環藝録
  • 藝藩通志の厳島部分 - 環藝録

    芸藩通志の凡例に、 一、厳島は藩内にても、霊異非類の地なれば、島志の製、おのづから外邑と同じからず。故に古文書、古器物、藝文なども、皆志に附て観るものヽ便にしたがふ、他地の例にあらず といい、全159巻のうち、第十三巻から第三十二巻の19巻分を厳島に割いている。他の土地では別に置かれる「古文書、古器物、藝文」も巻十八以下に連続して載せている。 巻十三から十七までは以下のような構成となっている。 巻数 部門名 内容 13 圖考 絵図三種類 總説 島の概況 神廟起源 鎮座の所伝 神階 律令期の位階 神封 厳島神社領の履歴 造営 社殿造営の履歴 宮殿廊廡 厳島神社に付属する建造物 大鳥居 大鳥居建造の履歴 14 屬祠攝社 島内外の摂末社 祭祀祈祷 神社の年中行事 巡島禊祓 七浦の巡拝 15 佛觀 仏像等の安置される建造物 僧院 僧侶の居住する建造物 祠官職員 神社に関わる役職 市街公廨 大きく

    藝藩通志の厳島部分 - 環藝録
  • 広島市立中央図書館の南口 - 環藝録

    中央図書館 | 施設案内 | 総合案内 | 人が、が、めぐるステーション 広島市立図書館 のページにある写真のように、中央図書館の北口には、2階の入口にあがる階段と、1階の入口となる細いスロープがある。 南口(旧市民球場側)にも2階に通じる入口があり、階段の傍らにはインタホンがある。 スロープは建物の反対側の入口(北側)にございます なお、車椅子等でお手伝いが必要な方は、インタホンで職員をお呼びください と添えてある。階段を使わずに2階の自由閲覧室や3階の参考閲覧室に行くためには、北口(広島城側)から1階に入ってエレベータを使うことになる。 南口の階段の隣に新たに設えられたスロープ。くねくねと3回曲って2階にたどりつくようで、2階の展示ホールにはすんなり行けるのかもしれないし、閲覧室にものぼりやすくなるような配慮がなされちゃったりするのかもしれない。*1。 *1:館内の様子 http:/

    広島市立中央図書館の南口 - 環藝録
  • 往復か片道か - 環藝録

    宮島口と宮島桟橋を結ぶフェリーの券売機。JRではない方の。 地元の人はほぼパスピーやICOCAで済ませるだろうから馴染みがないが、初めての利用の人が多い観光地でどういう券売機が分かりやすいか。多言語表示はもはや基として。 上下半分に色分けしてあるのは、上が往復券で下が片道券。航路のダイヤの兼ね合いで往復券が早い時間に販売終了する。その旨は下方に注意書きがある。 その中でさらに人数や種類別の多数のボタンが配置される。

    往復か片道か - 環藝録
  • 旧亀山発電所 - 環藝録

    亀山発電所の運転は明治43年から昭和38年。 広島市亀山公民館(安佐北区) あゆみ5回 亀山の発展と太田川 のページに「時に洪水によって浸水の被害を受け、時に干水によって出力の滅少を来すなど」とある。水量が多くても少なくても難儀する。 建物正面の長方形の板に記されているのは大正8年から昭和51年の8回におよぶ浸水被害の高さ。昭和18年3月がもっとも高く、玄関の上に達する。 広島県文化百選(4)建物編 に、「昭和四十七年(一九七二)の大水害を契機に、老朽化、コスト高などの理由で」廃止となったとある。プレート上では昭和47年の「洪水跡」は三番目の高さにある。

    旧亀山発電所 - 環藝録