角田柳作(つのだりゅうさく)とはどのような人物か、展覧会に先立ち、いくつかのトピックスでご紹介します。 (※以下の見出し等は、展覧会の構成とは異なります。) 「無名の巨人」 角田柳作は、日本、ハワイでの教員生活ののち、さらに学問を志して40歳で米国の土地を踏んで以来、87歳で死去するまでの人生の大半を、米国、主にニューヨークで過ごしました。氏の米国における日本文化研究・教育の功績にもかかわらず、日本では「角田柳作」の名はあまり知られていませんでした。日本文学の翻訳や日本学によって著名なドナルド・キーンが敬愛をこめて師・角田を語り、1993年には『週刊朝日』に連載されていた司馬遼太郎のエッセイ『街道をゆく』でも紹介されたことから、角田柳作という人物が少しずつ日本人にも親しみのあるものになってきました。 ドナルド・キーン「ニューヨークの一人の日本人(この人のことを知ってほしい)-わが師角田柳作
宇垣一成(カズシゲ:1868-1956)は岡山県出身の陸軍軍人・政治家である。陸軍士官学校を卒業後ドイツ駐在等を経て、大正13年(1924年)に田中義一の推挙により陸相に就任、政治の世界に足を踏みいれた。 加藤内閣の陸相時代に「宇垣軍縮」で軍のスリム化を断行、節減した予算を陸軍装備の近代化にまわし、軍需産業の育成、軍事教育の推進などと国家総動員体制の整備を行い軍部の中枢で活躍した。だが陸軍によるクーデター未遂事件である昭和6年(1931年)の三月事件にも黒幕として関与するなど黒い影が付きまとい、しばしば首相候補に挙げられながらも、周囲の反対で首相就任には至らなかった。 朝鮮総督を経て昭和13年(1938年)には近衛文麿内閣の外相に就任、戦争の長期化による国力の消耗を防ぐ為に対中国和平工作をすすめたが、軍部と対立して失敗した。終戦後は参議院議員として政界に名を留めた。 この宇垣一成文書は、宇
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