私はかつてキリシタン版を印刷したコンスタンチノ・ドラードに「活版印刷人」なる呼称をつけました。本当はもっとわかりやすく「日本最初の」という冠つきで表現したかったくらいです。 たしかに、彼はポルトガルのリスボンで金属活字を使う「活版印刷」のテクニックを習って、帰国途中にインドのゴアやマカオで印刷を手がけ、1591(天正19)年には加津佐で『サントスの御作業の内抜書き』を印刷、刊行に漕ぎ着けました。 まさに、これが日本におけるグーテンベルク方式の活版印刷のはじめでありましたから、彼こそ日本最初の活版印刷人といえるでしょう。 しかし、ドラードのことを書いたり、話したりしているうちに私の頭の中を去来してやまない疑問がいくつも出てきました。 その中でもいちばんの疑問はドラード以外の活版印刷人の存在です。 小さくてわかりにくいでしょうが、写真は1592(文禄元年)に天草で印刷,刊行された国字本『どちり