▼いっそのこと、泣きゲー主体に死霊文学論とか立ちあげればいいと思ったよ! あるいは蘇生(粗製)文学。DQNのいない世界。 もう死んでいるのにかすかな生前の記憶を頼りにデパートやショッピングモールにゾンビたちと、泣きゲーの主人公たちと何が違うのだろうか。 死に瀕してる彼らを生かすためだけの、鎮痛剤としての日常に縋る彼らはゾンビと大差内のではないだろうか。 なんてことを、終末の過ごし方をリプレイしながら思うわけで。 鍵から連なる泣きゲーって大抵、非モテが作ったゾンビ映画(バカップルが真っ先に死ぬようなアレ)と似てる気がする。 言い換えるなら死霊文学みたいな、非モテから見た良い男とヒロイン。 そしてヒロインか主人公が死んでる、あるいは死に瀕していることが多い。 主人公は死んでる、とかヒロインが死んでいるとか。 でも何らかの理由で現世にとどまっている。あるいはこれから死んでしまう
箱庭(セカイ系とか孤島モノ)って、登場人物が少ないからイレギュラーが起きにくそう。 学園モノもそうだし、出会う人が限定されているものって 外部の環境からのストレンジャーが少ないから、ストレンジャーがやってくるだけで オハナシがひろがってくる。 転校生とか、島に流れ着いた人とか。 幼馴染って勇者くらい選ばれモノだったりするよな。 どうして、コイツじゃないとダメなの? って主人公が第三者に問われたときに 彼女と一緒にいるのが自然なことだと思っているからって返されそう。 そういう生来の宿命みたいな、ポジションって呪いであるだけに強いんだよな。 『なんで、セカイを救うんですか?』 (^o^)<ゆうしゃだからです 『なんで、彼女が好きなんですか?』 (^o^)<おさななじみ、だからです みたいな? よくわからん。
普通の学園発生装置という揺籃かあ。くるしい世界だからこそ、世界の特権者が普通を夢見て、夢の中に学園世界を構築しました。ね そう考えると2000年中盤から、学園あるいは楽園(もといご都合主義)が、過酷な現実に対する逃避として描写され続けているという事が見え隠れする。 つまり、お約束はモラトリアムと学生という記号を結びつけているんだよな。 ここで重要なのは『勇者→管理者』なんだよなあ。 神に選ばれた者が使命をこなすトップダウンから、選ばれた者が神を代行するボトムアップへの流れ。 いわば、ヒーローが美少女メディアの皮をかぶって魔法少女モノに近くなった。 ▼ご都合主義というのが世界観の魔法のシステムに組み込まれる時代なんですね ループと見せかけて無限の楽園の中からお好みの楽園を選び出す。 ひ、ひぐらしが、最先端だった、だと?(マブラブオルタなんてありましたね) Nega0 Ero
▼殺し合いや競い合いでも、商売ですらないのに、定型にこだわってるヤツってなんなの? って気はする。 方法論だけ自走するけど、論には形ある対象があるのを忘れてる人がいる。 よく守破離とか、何でもありな現代創作にもちこもうとするヤツがいるけど。 ターゲットがその客層だけなら、射抜く動脈は一緒だから、定型って簡単につくれるけど。 こっちは客層を選べねえんだから、発注主の言われた制限以外は自由でいいんじゃね、とは思うわけよ。人みたいに形のあるモノなら、そのカタチにあわせるというのは合理的だ。 だが、好みのツボがワリとちぐはぐな現代人にわざわざ、こっちから消去法で選択狭めても、同じ世界に繰り込んで閉じていくだけだし。 オレみたいに、ぐっちゃぐっちゃに人間の尊厳がつぶされていくような行為に興奮する人間がいるのと逆に、そういうものを嫌悪する人間だっている。 っていうか、定石なんて手前の客層
金がなかった頃ってさ、そうやってたくさんの芸術を消費しようと必死だったわけじゃない若い頃ってさお金がないからさ。 いつの時代も若い人はお金をかけずに芸術を学習するために腐心してたものです。 古本屋で買ったり、貸本屋で借りて内容を書き写したり。 アレだと思うけどな。パクリ厨ってさ江戸川乱歩やら芥川龍之介みたいなもんだと思うけどな 異文化の技術の輸入の担い手。 そういうリミックスもまた芸術表現だったりするわけで。 リミックスや配列の変更って、さコンセプトとしては創作とやってることが大差ないんだよ。原型が残ってるか残ってないかってだけで。 芸術の歴史ってさ大衆文化と、貴族だけのモノってのを行ったり来たりしてるだけなんじゃないかなあ。 大衆文化だったものがアンティークになって金持ちの間のマニアックな趣味になったりとかさ。ルネサンスや浮世絵とかってなんかそういう感じじゃない。 今ま
▼他人との共通項を得たいなら、用語並べるよりそれらによって指し示したいプロセスの部分の説明にリソースを裂くべき。 箴言を使わず、いたずらに言葉を冗長に弄するのもバカだが、箴言だけで何かを表現できると思ってるヤツはもっとバカ。 言葉(単語)と文脈(単語が向けられた対象やシチュエーションや例え話)は相互的に互いの意味を担保しあってる。 どちらかが壊れると、それらは断続的なものになる。 一つの言葉の意味のですら意味が広いのに、それを組み合わせた熟語だけの文章はどれだけ意味が広いと思ってるんだろう。 頭のよさそうなヤツに、見出しやタイトルだけを並べたような文章を書くヤツがいる。 あるいは横文字だけを並べたような文章なんかも、その部類に入るだろう。 言葉それそのものだけだと、あらゆるものを引っ張ってくるインデックスである。判りやすく言えば、一つの言葉だけだと、ケータイの予測変換みた
▼心の共有が強制される状況や場所は地獄しかない。理解とは幸せ(充足)によく似ている。 「コミュニケーションで心を共有できる」という幻想 - ピアノ・ファイア(via:独り言以外の何か) 関連:マーケットの馬車馬: 和魂と洋才とユダヤの商人 なんか素敵なものを見つけたので、なんかボクが蛇足。 あと、逆を考えればいい。 つまり心(共通意識)が共有できなきゃ生きて生けない場所は地獄ってこと。 言い換えれば、「世界中の全てが敵になっても、私はあなたの味方だよ」って発言を言わせてしまうような環境はそれだけ、切羽詰ってる状態ってこと。 心の共有がてきとーで許されるのは環境が幸せの証拠。 逆をいえば、心の共有が絶対的に求められる状況ってのは環境が地獄でしかない。 それは、心を共有できている人がいないと生きていけない環境とか。 ロミオとジュリエットとか、あとアリガチなラノベもそうだけど
▼なぜなら登場人物が立たされている環境とこれからの総括だから。 着想元:Twitter / 高島津諦: 「世界中の全てが敵になっても、私はあなたの味方だよ」と... 「世界中の全てが敵になっても、私はあなたの味方だよ」って発言が強制されうる状況や環境の方が地獄であることが多い。 「世界中の全てが敵になっても」ってのは、彼らにとっての世界中が敵になってる、あるいはなりうる状況を示唆してるわけさ。彼らの被害妄想であったとしても。 名セリフなんて、ぶっちゃけ環境がいわせるもんだから、そのセリフが登場人物おかれた環境の総括になる。 つまり、環境が乗り移って登場人物の『これからどうしたしたいか』って意思と混ざって吐き出された成果物。 人々が名台詞って感じるセンスってのは、その情景を端的に圧縮したセンスに感服するわけ。 ……という名セリフからセリフの話者の立たされた状況を読み手は推察して
■要約 ・風景描写もまた時間表現の一つ。 ・「死」と文字を書いても死は表現(感じさせたり、体験させたり)できず、読み手に「死を想え」と訴えかける(命令している)だけである。 ・表現とは、幾重もの連想の命令による対象の限定化(誰と誰が何をするのか)と読むという実時間の体験……というか実際の時間の消費の間に生まれるバーチャルリアリティみたいなもん。 ▼お話の中で流れる現実の時間を描写でどう操作するかのバランス。 カッコよくいえば、文章に流れる実際の時間とオモイデの密度と指示の話。 (で、上の一行だけだと、何も表現してないので、具体的な話は以下から) ・お話の中の時間帯で同じ一日、同じ一瞬であっても文章量が違う場合がある。 ということで例を出す。 1.『皿が落ちた』 2.『美しい天使が描かれたの皿が、日の光を反射し輝き回りながら床に落ちていった』 と、文字書きでないので、良
・現在手遅れな事(世界観)→少女が昔に背負った心の傷 ・これからまだ追いつけること(物語)→これから遅い来る少女へ降りかかる災難 ・現在手遅れな事(過去に回避したかった事)→大崩壊で文明が沈黙した世界 ・これからでも追いつけること(これから予測して回避出来る事)→大崩壊の再来の阻止 ・現在手遅れな事→昔に難病で死んだ人たちを蘇らせること ・これからでも出来る事→これから難病に感染する人の予防と感染した人の治療 これは、病気で失った最愛の人への敵討ちに難病に立ち向かう医者だったり 身近な人の死がきっかけで医者になった人の話になるだろう。まあ、こんな感じ。 ありとあらゆる事に手遅れだった出来事と、それを起こさないようにするための方法がある。 手遅れだった苦味が、次の手遅れを呼ばないように必死になることが 物語を駆動させるといえば、カッコイイかもしれない。 登場人物のキャラ
・ネタはもうそこをついていた。 ▼オタクとは、高度なオタクルールが体に染み付いている。オタクはハイカルチャー(あるいは排撃の文化)。 オタクカルチャーに浸ってる作り手は、オタク側からの要求が自明になってるから、外(オタク)から強制されている事を意識しない。 作者の作りたい欲望と、オタクからの強制が合致してる。 オタクカルチャーに限らず、ジャンルというものは 客の視聴、あるいは創作レンジがすごく体系化されてて、高度なルールがある。 中にいる人たちは縛られている事を意識しない。 オタクもオタク内のルールを実は意識していない。オタクになるというのはルールが当たり前になることだ。 社会人になるというのは、社会人という枠組みが当たり前になることであるように。 オタクのルールを利用して、ヒット作を作ってるって発信者側が気軽に明言すりゃ、俺らはお前になんて操られて無い。オタクのルールに
▼悪という世界信仰の利用(巨悪が滅びれば世界が良くなると考える僕ら)。欲望と願いは紙一重。 神ってのが、人にとっての善の信仰の象徴であるように。 魔王を倒せば世界が平和になるみたいに、みんなが構造の歪みに積極的に協力しているのを見ないふりして、誰かのせいにするという悪の信仰もまた存在する(別のエントリで話す) だからこそギアス(嘘という魔法)も裏表。 ゼロレクイエムは「ゼロへのレクイエム」ではなく「ゼロによるレクイエム」だったのね。 正義という仮面(嘘) セイギノミカタの嘘のつき方。 正義の味方になるために君は死ねるか? オレは死ねません。 ユフィのエピソードから想いも話が止まったままだったのは、こういうためにあったのか。 お陰で中だるみしたってのはあるけど。 バカとハサミは使いよう。 『やさしい世界でありますように』→「お前の目が見える頃にはきっとそうなってるよ」
▼不老不死になると生殖能力を失うのではないかという説。(C.C.が孕むなんて想像できねえ) カレンがウザク側にまわったのは 結局、大罪、背負ってかつそういう汚い自分を自分の中に包み込んでいないからなんだよな。 ルルーシュは、ユフィを使って大虐殺したし ウザクもギアスの所為で自分をゆがめられた ウザクが成長したのは生きろギアスに肯定的になったからなのかなあとも オレじゃないって逃げなくなって力として使うようになったというか シュナイゼルの時にあの部下のオカマがシュナイゼルには欲が無いっていってたけど ギアスって無欲な人間に欲を植え付ける能力でもあるからな 生きるという欲求が無かったウザクに生の渇望を与えたわけだし。 ▼恒例友達の発言。ルルーシュは幼い頃スザクと一緒に日曜日仮面ライダーを見ていたのではないかという説。 ゼロの行動とかルルの行動とか 全部日本で育ったから
大切なものを遠ざけるのがCCの生き方だったんだっけか。 ▼時間 と 思い出(体感時間) の区別をつける必要がある。 いわば、過ぎ行く実際の時間と、記録(密度)としての時間、時間を遅くするには記憶密度(解像度)を上げればいい。 コードギアスは膨れ上がりすぎている設定と物語をショートカット(あの人数と過去、世界観を纏め上げるのは普通では無理)するために、最初から積極的に実時間を排除しているという事に注目すべき。 たとえば、シャーリーと時間をかけてあの関係になった描写ってされてたっけ? とか。(イベントとしてはあるけれど、シャーリーとの出会いと親密だうpの書いて過程はバッサリ無い、なにかでちょろっと語られる程度で) ルルーシュの実時間の切り落とし方は残酷。 実時間より思い出を優先させている。そういう意味じゃ不老不死のC.C.的視点の物語といえる。 ルルーシュの物語は行動の積み重ねを
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