ブックマーク / crd.ndl.go.jp (3)

  • 尾張出身の戦国武将が全国に散らばり、一時は尾張の方言が標準語のようになったそうだが、そのようなことが... | レファレンス協同データベース

    ご質問の内容と若干異なりますが、織田信長・豊臣秀吉と尾張出身者が二代続いたことにより、京都の言葉が尾張の方言と混ざって変化したとする史料(『名古屋方言の研究』p.9-10に引用あり)があります。 また、『東京語の歴史』p.105によると、江戸の町ができた当初、その住民の中核は伊勢・上方などの関西方面からの移住者であったため、“江戸初期には「上方語」が通語として用いられ、日常生活のうえで重要なコミュニケーションの具であった”とあることから、江戸初期には尾張の方言と混ざった上方語が共通語として使用されていたと考えてよいのではないでしょうか。 尾張方言ということから郷土資料コーナーで調べ、『名古屋方言の研究』が見つかりました。同書には「徒然草慰草」と「東雅」が引用されていました。 引用されていた史料を確認すると、「徒然草慰草」の日古典籍総合目録データベースでの統一書名は「なくさみ草」(松永貞徳

    尾張出身の戦国武将が全国に散らばり、一時は尾張の方言が標準語のようになったそうだが、そのようなことが... | レファレンス協同データベース
    kenchan3
    kenchan3 2024/02/26
    家康が三河武士を引き連れて何もない江戸に街を作り始めたじゃん。それで東京の言葉には三河弁が混ざってるという話は聞いたことあるが、ホントかどうかは知らん。
  • 戦前に、中国の呼称を「支那」から「中華民国」に変更した経緯を示す記録はありますか。 | レファレンス協同データベース

    外務省記録「各国国名及地名称呼関係雑件」のなかに、1930年(昭和5年)10月に、浜口雄幸内閣が中国の呼称を常則として「中華民国」とするとの閣議決定を行った際の記録が残されています。 この閣議決定が行われるまで、日政府は、条約や国書を除いて中国を「支那」と呼称するとの閣議決定(1913年6月)に基づき、中国の呼称として通例「支那」を使用していました。しかし、中国は侮蔑的なニュアンスの強い「支那」という呼称を好まず、「中華民国」を用いるよう求めていました。たとえば、中国国民政府文書局長であった楊煕績は、1930年5月に日中国との間で結ばれた関税協定において、日が条文中に「支那」という字句を使用した事を批判し、「今後日側カ重ネテ斯ノ如キ無礼ノ字句ヲ使用スルトキハ我方ハ之ヲ返附スルト共ニ厳シク詰責シ以テ国家ヲ辱シメサルコトヲ期スヘシ」と論じていました。 こうした中国官民の感情に配慮して

    戦前に、中国の呼称を「支那」から「中華民国」に変更した経緯を示す記録はありますか。 | レファレンス協同データベース
    kenchan3
    kenchan3 2023/12/05
    ビルマやグルジアのように相手国が国家レベルで嫌がれば呼称を変えるのが昔からの日本。逆にネーデルラントのように相手国が寛容ならそのまま使い続ける。
  • 「ひ、ふ」「み、む」「よ、や」のようにある数とそれを二倍した数とが、共通の子音を持っている事を最初に... | レファレンス協同データベース

    (1)辞典類の「数詞」の項(資料①p1231、資料②p641、資料③p537)を確認する。日における数詞について質問に関連する記述があるが、誰が説いたものであるかはわからない。資料①、②には、「ミ-ム、ヨ-ヤのような対立は…倍数法による命名と説かれ…」とあり。 (2)当館OPACを「数詞」をキーワードに検索した結果から資料に当たってみる。 資料④「数詞の歴史」p54、資料⑤「日語の数詞の語源」(安田尚道)p41に、「荻生徂徠」とあり、資料提供した。 資料⑤には、「日語の数詞には倍数法が見られる、という説がある。…このことを最初に説いたのは荻生徂徠(1666~1728)である。…」として、随筆集『南留別志』からの引用を載せている。 NDC 語源.意味[語義] (812 9版) 参考資料 ①『平凡社大百科事典 7』<031/77/7>(平凡社 1985年) ②『世界大百科事典 14 改訂

    「ひ、ふ」「み、む」「よ、や」のようにある数とそれを二倍した数とが、共通の子音を持っている事を最初に... | レファレンス協同データベース
    kenchan3
    kenchan3 2014/05/15
    昔、金田一晴彦の本で知ったけど、倍数の法則は、朝鮮語にはないんだよな。唯一琉球語だけが日本語と同じ倍数の関係。
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