「野宿者を怖がること」、こういう気持ちが生じることを事実として受け止めよう、そういう趣旨のことを書いた。これは、そのような感情を肯定する、ということではない。そのような感情が存在することは事実であるから、それを出発点にすることはどうしようもないことだとまず認めるしかない、というくらいの意味だ。差別感情も含めて、人が何かを感じてしまうことには、どうしようもなくそう感じてしまう、という面がある。 「そういう感情も社会的に構築されているのだから、解体可能だ」と述べてみることに意味がないわけではない。しかし、社会的に既に構築されてしまって生きているその人にとっては、社会的に構築された自分自身から出発するほかはないわけで、解体するにせよ、まずはそういう自分が存在しておりそこから出発するのだ、ということを前提するしかしようがない。あらゆる差別者の存在を、僕はまず肯定する。そして、そこからどこへ向かおう