黒田官兵衛は名軍師として知られる戦国時代の武将ですが、「策が多く野心に満ちた人物であった」と見なされることが多い人でもあります。 しかし官兵衛は、生涯で一度も主君を裏切ったことはありません。 初め小寺政職に仕え、ついで羽柴秀吉に仕え、と主君を一度変えていますが、これは小寺政職に裏切られたことによってやむを得ずそうなっただけであり、自ら望んで主君を変えたわけではありません。 しかしながら、小寺政職に裏切られた点から見ても、どこか主君から全幅の信頼を寄せられない要因を備えていたようでもあります。 【黒田官兵衛の肖像】 秀吉と官兵衛その天下取りに対しておおいに貢献した秀吉からもあまり信用されず、その功績の割には豊前(福岡県)に12万石(後に検地によって17万石に変更)という過小な領地しか与えられていません。 これがなぜ過小と言えるかというと、秀吉子飼いの加藤清正、福島正則、小西行長、石田三成とい
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