徳川家康は1584年、織田信雄とともに羽柴秀吉に戦いを挑みました。 この時の戦力は、徳川・織田連合軍が3万、羽柴軍が10万で、大きな差が開いていました。 にも関わらず、家康は小牧・長久手の戦いで勝利し、秀吉と正面から戦いながらも、敗退しなかった唯一の大名になっています。 このことが、後に家康が天下人となるための、布石として機能することになりました。 この文章では、そんな家康と秀吉の戦いについて書いてみます。 【小牧・長久手の戦いに勝利した徳川家康の肖像画】 信長の死と秀吉の台頭本能寺の変で織田信長が死去した後、信長の子や家臣たちが、織田氏の主導権を巡って争いました。 信長の仇を討って飛躍した秀吉は、織田信雄(信長の次男)を推戴し、織田家重臣の丹羽長秀、池田恒興(つねおき)を味方につけ、有利な状況を作り上げます。 そして賤ヶ岳の戦いに勝利し、敵対した柴田勝家や滝川一益、織田信孝(信長の三男)