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  • 管仲と鮑叔 才能がある人と、それを認めて支援した人の話

    紀元前7世紀ごろ、斉《せい》という国に、才能はあるものの失敗も多かった、管仲《かんちゅう》という男がいました。 【管仲の肖像画】 彼は若い頃からずっと、鮑叔《ほうしゅく》という男と親しく付き合っていました。 この鮑叔は、管仲に傑出した才能があることを見抜いており、このために管仲が不義を働いてもこれを見過ごし、怒ることも、交際を断つこともありませんでした。 二人はある時、南陽《なんよう》という土地で一緒に商売をしていたことがありました。 その時に貧しい境遇にあった管仲は、利益を配分する際に、鮑叔を騙して自分の取り分を多くします。 鮑叔はそれに気がついていたのですが、管仲を咎めず、好意的に接し続けました。 やがて時が過ぎると、二人はそれぞれに斉の公子たちに仕えるようになります。 (斉は公爵が治めており、公子はその子どものことをいいます。つまり公子は国主の後継者候補です。) 鮑叔は小白《しょうは

    管仲と鮑叔 才能がある人と、それを認めて支援した人の話
    kenjou
    kenjou 2017/12/27
  • 論語 學而第一 1「学んで而して時より之を習わす」

    原文 子曰、「學而時習之、不亦說乎。有朋自遠方來、不亦樂乎。人不知而不慍、不亦君子乎」 読み下し文 子(し)曰(のたまわ)く、「学(まな)んで而(しこう)して時(とき)より之(これ)を習(なら)わす、亦(ま)た說(よろこ)ばしからずや。朋(とも)有(あ)り遠方(えんぽう)より来(き)たる、亦(ま)た楽(たの)しからずや。人(ひと)知(し)らず而(しこう)して慍(いきどお)らず、亦(ま)た君子(くんし)ならずや」 意味 先生がおっしゃられた。 「いまだ私が知らない聖賢の道を、先人に習って学び、しばしばこれを繰り返して復習し、理解を深めるのは、喜ばしくないはずがない。学ぶところを得て、道をたどって徳を修めることができるからである。 私と同じ道を歩む者が遠くから訪ねてくるのは、思わず言葉や態度にそれが表れてしまうほど、うれしいことだ。徳の教えが世に広まりつつあることの証となり、果たそうと努めてい

    論語 學而第一 1「学んで而して時より之を習わす」
    kenjou
    kenjou 2017/12/15
    自分の学習をかねて、論語の解説サイトを作ってみました。まだ記事は一つだけですが、ぼちぼちと追加していこうと思っています。
  • 天皇家の家紋・菊の御紋の由来について | 歴史の読み物

    天皇家の紋章は「菊の御紋」ですが、鎌倉時代に後鳥羽《ごとば》上皇が用いたのが、その起源であるとされています。 【天皇家の菊花紋章】 上皇は鍛冶を好んでおり、全国から名工を集めて仕えさせ、常に身近なところで刀を作らせていました。 そして上皇は、時に自ら刀を打つほどに熱心で、自作の刀に菊の銘を付け、「上皇が作ったものである」という証明にしました。 こうした事例が皇室において、菊の紋が使用された始まりとなっています。 菊を用いたのは、上皇が菊の姿や形を大変に好んでいたからだとされています。 倒幕運動と菊の御紋上皇が刀作りに熱心だったのは、朝廷の武力を高めようとする意識の表れでした。 上皇は密かに、鎌倉幕府を取りしきる北条氏の打倒を計画しており、自分に味方する者たちに刀を贈り、官兵の記章として用いることにします。 つまり菊紋は、元々は軍事的な意図があって広まったもので、皇室だけがそれを身につけてい

    天皇家の家紋・菊の御紋の由来について | 歴史の読み物
    kenjou
    kenjou 2017/12/12
    歴史の読み物を更新しました。今回はややデリケートな話題を扱っています。
  • 石田三成と柿の逸話 | 歴史の豆知識

    kenjou
    kenjou 2017/12/01
    書きました。
  • 北条氏との外交に見られる、徳川家康の忍耐強さについて

    徳川家康は、強大な武田信玄に立ち向かえるほどの勇気を備えた武将でした。 このために「三方ヶ原(みかたがはら)」で信玄に挑戦して大敗し、あやうく戦死しかけたこともあるほどです。 しかし一方では、家康は非常に忍耐強い性格も備えており、なかなかに複雑な人格の持ち主でもありました。 【徳川家康の肖像画】 秀吉との敵対と、北条氏との同盟1584年ごろから、織田信長の領地を引き継いで畿内を制していた羽柴秀吉と、家康は敵対するようになります。 秀吉の領地は広大なものとなり、その戦力は16万にも達しています。 これに対し、東海と甲信を抑えた家康の戦力は4万程度で、4倍もの差が開いていました。 家康は5ヶ国の太守にまでその地位を向上させていましたが、秀吉の勢いはすさまじく、単独で対抗するのは不可能になっていたのです。 このため、家康は関東の覇者である北条氏と同盟を結ぶことを決意しました。 北条氏の戦力は7万

    北条氏との外交に見られる、徳川家康の忍耐強さについて
    kenjou
    kenjou 2017/12/01
    更新しました。
  • 石田三成が忍城を攻略できなかったワケ

    豊臣秀吉は1590年に天下統一の事業を完成させるべく、関東の北条氏の討伐を実施しました。 そして北条氏の拠である小田原城を15万の大軍で包囲しつつ、別働隊に関東の諸城の攻略を命じます。 この流れを受け、石田三成や大谷吉継、長束(なつか)正家といった秀吉子飼いの家臣たちが中心となった2万3千の部隊は、武蔵(埼玉県)にある忍城(おしじょう)の攻略に取りかかりました。 忍城の城主・成田氏長(うじなが)は小田原城に入城していたために不在で、しかも守備兵は500人程度しかいませんでした。 46倍もの戦力差があったことから簡単に攻め落とせるはずでしたが、三成たちは意外なことに、この城の攻略に失敗してしまいます。 この文章では、忍城が落城しなかったのはどうしてか、について書いてみます。 忍城の防衛に住民が参加する忍城は「関東七名城」の一つで、守りやすく、攻めるのが難しい城でした。 城に続く道路が狭く、

    石田三成が忍城を攻略できなかったワケ
    kenjou
    kenjou 2017/11/27
    更新しました。
  • 坂本龍馬と大政奉還 果たされなかった無血革命

    龍馬の事跡の一つとして「大政奉還(たいせいほうかん)の実現」が知られていますが、龍馬の政治的な活動においては、最も重要な案件だったと言えます。 大政奉還とは、徳川幕府が日の統治権(大政)を朝廷に返上(奉還)することをいいます。 幕府は将軍が運営する軍政組織なわけですが、将軍の地位は朝廷から与えられるもので、権力の正当性は朝廷からの承認を受けて成立するものでした。 このため、幕府に政権を担当する能力がなくなった場合には、統治権を朝廷に返上することもできたのです。 幕府は徳川家康が将軍になって以降、260年もの長きに渡って日の統治権を掌握して来ました。しかし、1853年のペリーの来航以後、強大な武力を持つ諸外国に屈従する外交を展開したことで、その権威が損なわれていきます。 そしてやがては、幕府は統治者にはふさわしくないのではないか、とみなされるようにもなっていきました。 通商条約と攘夷

    坂本龍馬と大政奉還 果たされなかった無血革命
    kenjou
    kenjou 2017/11/19
    歴史の読み物を更新しました。
  • 国会で野党の方が質問時間が長いのはどうして?

    kenjou
    kenjou 2017/11/16
  • 徳川家康はいかにして井伊直政を育成したか

    優れた戦国大名の元には優れた人材が集うものですが、最終的に覇者となった徳川家康にも、優れた家臣たちが仕えていました。 その中でも多忠勝・榊原《さかきばら》康政・酒井忠次・井伊直政は「四天王」と呼ばれ、特に秀でた能力を持っていたことで知られています。 では、そのような人材たちが、勝手に育って家康のところに集まったのかというと、そうではありません。 優れた戦国大名はみな優れた教育者でもあり、家臣たちの育成も熱心に行っていたのです。 この文章では、北条征伐において、徳川家康が井伊直政に施した実地教育の様子について、書いてみます。 【教育者としても優れていた徳川家康の肖像画】 小田原攻め1590年になると、豊臣秀吉は天下統一の仕上げをするべく、20万の大軍を動員し、関東を支配する北条氏の征伐に向かいました。 当時、東海道と甲信を支配していた家康は3万の軍勢を率いてこれに従軍し、やがて北条氏の

    徳川家康はいかにして井伊直政を育成したか
    kenjou
    kenjou 2017/11/11
    歴史の読み物を更新しました。今回は徳川家康の人材育成の方法についてです。
  • 温泉(硫黄泉)とニンニクが体にいいことが科学的に証明される

    東北大学で、温泉が体にいいことが科学的に証明されたそうです。 具体的には、硫黄成分の含まれる温泉です。 人間は活動をする上で、主に酸素をエネルギー源として使っていますが、硫黄分子も使われていることが、研究によってわかったとのこと。 温泉に入っているうちに、「システイン」という硫黄を含むアミノ酸が体に取り込まれ、それがミトコンドリアの働きによって活動エネルギーへと変換されるそうです。 温泉に入ると体力が回復する感じがしていましたが、ちゃんと科学的に根拠があったんですね。 べ物からも摂取できる このアミノ酸は、ニンニクやタマネギ、甘のりからも摂取できるそうです。 そしてその摂取量をコントロールすることで、老化防止、呼吸器や心疾患の予防などにつながることが期待されているとのこと。 調子が悪いときにニンニクが含まれた事をすると、元気になるといいますが、こちらも硫黄分子の力によるものだったようで

    温泉(硫黄泉)とニンニクが体にいいことが科学的に証明される
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    kenjou 2017/11/01
  • 文化露寇とゴローニン事件、高田屋嘉兵衛の活躍について

    文化露寇(ぶんかろこう)とは、1806〜7年にかけて、蝦夷(北海道)の近辺にロシア軍が攻撃をしかけてきた事件です。 これを命令したのはレザノフというロシアの外交官で、元々は平和的に通商を求めて来航をしていました。 しかし、当時の幕閣がレザノフに乱暴な対応をして、追い払うように命じたために関係がこじれ、ロシアの攻撃を招き寄せることになったのです。 この時の戦いで、日の軍勢はロシアに敗北し、幕府の権勢が揺らぐ結果を招きました。 この文章では、そんな文化露寇のあらましと、以後に続いたゴローニン事件、そして日ロシアの和解をもたらした、高田屋嘉兵衛(かへえ)の活躍についても書いてみます。 文化露寇のきっかけを作ったレザノフの肖像 ロシアとの最初の接触ロシアと日との最初の交渉は、1792年に行われています。 この年にロシアの使節、アダム・ラスクマンが漂流民たちを連れて来日しました。 この漂流民

    文化露寇とゴローニン事件、高田屋嘉兵衛の活躍について
    kenjou
    kenjou 2017/10/19
    1800年代初頭の、日本とロシアとの関係について書きました。
  • 徳川家康はどうして小牧・長久手の戦いで羽柴秀吉と互角に渡り合えたのか?

    徳川家康は1584年、織田信雄とともに羽柴秀吉に戦いを挑みました。 この時の戦力は、徳川・織田連合軍が3万、羽柴軍が10万で、大きな差が開いていました。 にも関わらず、家康は小牧・長久手の戦いで勝利し、秀吉と正面から戦いながらも、敗退しなかった唯一の大名になっています。 このことが、後に家康が天下人となるための、布石として機能することになりました。 この文章では、そんな家康と秀吉の戦いについて書いてみます。 【小牧・長久手の戦いに勝利した徳川家康の肖像画】 信長の死と秀吉の台頭能寺の変で織田信長が死去した後、信長の子や家臣たちが、織田氏の主導権を巡って争いました。 信長の仇を討って飛躍した秀吉は、織田信雄(信長の次男)を推戴し、織田家重臣の丹羽長秀、池田恒興(つねおき)を味方につけ、有利な状況を作り上げます。 そして賤ヶ岳の戦いに勝利し、敵対した柴田勝家や滝川一益、織田信孝(信長の三男)

    徳川家康はどうして小牧・長久手の戦いで羽柴秀吉と互角に渡り合えたのか?
    kenjou
    kenjou 2017/09/22
    書きました。
  • 比叡山は三度焼かれる – 織田信長に至る、比叡山焼き討ち事件の経緯について

    比叡山・延暦寺は織田信長に焼き討ちを受けたことで知られていますが、武家との抗争はこれが初めてではなく、三度も主要な建物が焼失する事件が発生しています。 比叡山焼き討ち事件は、場所が寺院であるだけに、刀や槍を持った武士たちが、無力な僧侶たちを一方的に、無残に殺害したのだろう、というイメージをもたれがちです。 しかし実際には、比叡山は多くの僧兵を抱える武装勢力でもあり、桓武天皇から信奉された開祖・最澄(さいちょう)や、その後に続いた名僧たちの威光をもって、朝廷や鎌倉幕府を圧迫できるほどの、強大な権勢を誇っていたのです。 平安時代に院政を敷き、朝廷を支配していた白河法皇は「山法師(比叡山の僧兵のこと)は朕が心にままならぬもの」と述べ、思うように制御できないことを嘆いています。 また、鎌倉幕府を開いた源頼朝も、重臣の佐々木定綱を、延暦寺からの要求によって追放せざるを得なくなった、という事件も起こっ

    比叡山は三度焼かれる – 織田信長に至る、比叡山焼き討ち事件の経緯について
    kenjou
    kenjou 2017/09/11
    書きました。今回は比叡山焼き討ち事件についてです。
  • 幕末年表

    琉球(沖縄のこと。当時は薩摩藩の支配下にあった)にイギリス・フランスの軍艦が来航し、開国を迫る事件が発生する ペリー来航のさきがけとなった事件であり、日にもいよいよ脅威が間近に迫ったことが認識されるようになる <薩摩藩と幕政の改革が始まる> 老中首座・阿部正弘の働きかけにより、島津斉彬が薩摩藩主に就任し、近代技術を導入した工場群を建設し、「集成館事業」を開始する これによって薩摩藩の近代化が促進され、経済力・軍事力が急速に高まり、幕末の情勢を薩摩藩が主導する上での原動力となる 阿部正弘は島津斉彬の他、水戸藩の徳川斉昭、土佐藩の山内容堂、福井藩の松平慶永ら、諸侯の中の秀でた人材を起用して、幕政改革を行うことを目指した この頃に、オランダからアメリカの艦隊が来日を計画しているとの情報が幕府にもたらされる

    幕末年表
    kenjou
    kenjou 2017/09/02
    幕末の主な事件を記した年表を作ってみました。
  • 応仁の乱と戦国時代の始まりについて

    応仁の乱は1467年から1477年まで、11年もの長きに渡って続いた内戦です。 室町幕府の将軍家と守護大名、そして朝廷の公家と皇族までもが東軍と西軍に別れて抗争を繰り広げました。 乱が発生した直接の契機は、実力者の細川勝元と山名宗全が対立したことにあり、両陣営に様々な勢力が参加していったことで、収拾のつかない事態となりました。 この時代は政治の中枢を担うべき将軍の権威が、著しく低下していった時期にあたっており、そのために家臣たちの争いを鎮めることができず、内乱が発生したのです。 そしてこの乱の結果、幕府や朝廷の統制力が低下し、地方で独立割拠するものが次々と現れ、いわゆる戦国時代が訪れることになりました。 この文章では、応仁の乱の経緯や、当時の社会の変動の様子について、書いてみようと思います。 【応仁の乱発生時の将軍・足利義政の肖像画】 不安定な将軍の権力室町幕府はその発祥の頃から、足利将軍

    応仁の乱と戦国時代の始まりについて
    kenjou
    kenjou 2017/08/29
    応仁の乱について書きました。
  • 「最後の将軍」(著:司馬遼太郎)の感想・レビュー

    「最後の将軍」はタイトルの通り、徳川幕府の最後の将軍となった、徳川慶喜(よしのぶ)を主人公とした小説です。 徳川慶喜と言えば、大政奉還によって統治権を朝廷に返還したことと、新政府軍の追討を受けた際に、徹底して降伏・恭順の意を明らかにし、江戸が戦火にまみれることを回避した事跡が知られています。 平和的に政権交代を行ったことが称賛される一方で、将軍でありながら、幕府を守ろうとしなかった惰弱な人物であると見なされるむきもありました。 この小説によると、そもそも慶喜は水戸藩主・徳川斉昭(なりあき)の子だったのですが、この斉昭も水戸藩も幕府から嫌われており、その煽りをうけて、慶喜もまた、幕閣や大奥から嫌悪されていたのだそうです。 水戸藩というのは、いわゆる御三家のうちの一家で、幕府の開祖・徳川家康の子孫が藩主を務める家柄です。 このため、水戸藩主は幕府を補佐する立場にあり、幕府とは良好な関係を保って

    「最後の将軍」(著:司馬遼太郎)の感想・レビュー
    kenjou
    kenjou 2017/08/29
    書きました。
  • 滝川一益 信長の軍団長として活躍した、知勇兼備の名将の生涯について

    滝川一益(かずます)は織田信長に仕え、その重臣として活躍した人物です。 戦闘に強く、調略や外交もこなせる優れた武将で、主に伊勢(三重県)方面の攻略で活躍しました。 やがて大名になり、関東を統括する軍団長に任命されるほどに出世しますが、信長が能寺の変で死去したことで、その運命が反転します。 関東を北条氏によって追われた後、信長の死後に台頭した羽柴秀吉と戦って敗れ、領地をすべて失ってしまいました。 信長の躍進とともに出世を遂げ、死とともに没落した武将であったと言えます。 この文章では、そんな一益の生涯について書いてみます。 【滝川一益の武者絵】 甲賀の出身だと言われる一益は前半生がはっきりとしていないのですが、近江(滋賀県)の甲賀で、1525年に誕生したと言われています。 甲賀は忍者で有名な土地ですので、一益も元は忍者だったのではないか、という説がありますが、はっきりとした証拠はありません。

    滝川一益 信長の軍団長として活躍した、知勇兼備の名将の生涯について
    kenjou
    kenjou 2017/08/25
    書きました。
  • 北条早雲(伊勢宗瑞)は、どうして最初の戦国大名になったのか?

    北条早雲は伊豆や相模(神奈川県)に独立した勢力を築いた、史上初の戦国大名です。 元々は室町幕府に仕える役人でしたが、駿河の守護大名・今川氏の後継者争いに介入し、功績を立てて一城を与えられました。 以後は中央に戻ることなく、甥の今川氏親を補佐しつつ、伊豆や相模に侵攻し、独自の勢力圏を構築していきます。 そして領民の生活を重視する新しい統治体制を構築し、武家政治のあり方に大きな影響を及ぼしました。 この文章では、早雲はどうして最初の戦国大名になったのか、について書いてみます。 【北条早雲の肖像画】 伊勢氏の一族に生まれる早雲の生年については2説あり、1432年か、もしくは1456年の生まれだとされています。 室町幕府で代々、政所(まんどころ)の執事を務めていた伊勢氏の出身で、伊勢盛時というのが最初の名前です。 政所は、土地の所有権をめぐる訴訟を扱う役所で、地権者の連合政権である室町幕府にとって

    北条早雲(伊勢宗瑞)は、どうして最初の戦国大名になったのか?
    kenjou
    kenjou 2017/08/08
    書きました。
  • 羽柴秀吉はどうして清洲会議や賤ヶ岳の戦いで、柴田勝家に勝利できたのか?

    織田信長が能寺の変で急死した後、織田氏の内部では、羽柴秀吉と柴田勝家の抗争が発生しました。 秀吉は、信長を殺害した明智光秀を討った功績によって、それまで筆頭家老であった勝家よりも有利な立場を手に入れます。 そして信長の遺産の分配を話し合う「清洲会議」で自分の意見を通し、領地の大きさでも、立場の強さでも勝家を上回るようになりました。 勝家は秀吉に対抗するため、外交によって味方を増やしつつ、近江の賤ヶ岳(しずがたけ)で戦いを挑みますが、秀吉に敗れて滅亡しています。 この文章では、秀吉がいかにして勝家に勝利し、信長の後継者になったのか、について書いてみます。 【秀吉の肖像画】 信長配下の軍団長信長は1580年ごろまでに畿内を制圧すると、各地方に軍団長を派遣し、天下統一事業を推し進めて行きました。 この過程で、筆頭家老である柴田勝家は北陸を担当する軍団長となり、越中や越後を支配する上杉景勝と対決

    羽柴秀吉はどうして清洲会議や賤ヶ岳の戦いで、柴田勝家に勝利できたのか?
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    kenjou 2017/07/30
    書きました。
  • 橋本左内 将来を嘱望されながらも、安政の大獄で散った志士の生涯

    左内は幕末に福井藩の医者の子として生まれ、適塾で蘭学(オランダ由来の西洋学問)を習得した人物です。 若年の頃より優れた知性を備えており、世界情勢に通じ、幕末において日の取るべき道を示した思想家としても活動しています。 やがてその才能を認められ、福井藩主・松平春嶽(しゅんがく)の抜擢を受けて藩政改革に参与し、国事にも携わるようになります。 そして同志となった西郷隆盛とともに、英明で知られる一橋慶喜を将軍に擁立する運動を推進し、幕閣や朝廷にもその存在を知られるようになりました。 しかし、井伊直弼が強行した安政の大獄によって処刑され、わずか26才で惜しくも世を去っています。 この文章では、そんな左内の生涯について書いてみます。 【橋左内の肖像画(島田墨仙作)】 福井藩の医師の子として生まれる左内は1834年に、福井藩に仕える医師・橋長綱の長男として誕生しました。 幼い頃より向学心が強く

    橋本左内 将来を嘱望されながらも、安政の大獄で散った志士の生涯
    kenjou
    kenjou 2017/07/25
    書きました。