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報道に関するkeya1984のブックマーク (4)

  • 間がもたない - コラム・イナモト

    屋で諸星大二郎の「壺中天」が文庫になっているのを見つけて、ひさしぶりに読んだ。 壺中天―諸怪志異2 (双葉文庫 も 9-3 名作シリーズ) 作者: 諸星大二郎出版社/メーカー: 双葉社発売日: 2007/01メディア: 文庫この商品を含むブログ (15件) を見る 中国の怪異譚に材をとっている漫画(諸星大二郎のオリジナル・ストーリーもあると思う)。諸星大二郎ならではのグロテスクかつ不思議と居心地のよさのある世界で、楽しめた。 中に「三山図」という話がある。ストーリーは書かないが、最後はこんな言葉で終わる。 「そんな仙人の顔を想像しながら一人この小石を眺めるのが阮邦の晩年の楽しみだったそうである」 机の上に少し靄のかかった小石(なぜ靄がかかるかは内緒)を置き、阮邦が盃を片手に、何とも言えないいい表情をしている。 いいなあ、と思う。そういうふうに、ほわーっとしていられる境地に憧れる。 しかし

    間がもたない - コラム・イナモト
  • 過激な週刊誌報道と権力と権威について:イザ!

    私は新聞記者という職業に就いていて、記事を書いて給料をもらっていますが、実は年々、新聞や雑誌のさまざまな記事に目を通すのが辛くなってきました。自分のことを棚に上げないと言えないことかもしれませんが、あまりにも扇情的で、たまたまその件について事情を知っている者から見れば、事実とは言いにくい記事、決めつけた記事が多すぎるからです。あえて言えば、これまでの年月の中で自分もそれに類する記事をいくつか書いてきたのではないかという思いが、余計に気分を憂にします。 特に今朝の某週刊誌の記事には、ここまでやるかという思いがして、暗澹たる気持ちになりました。関係者に迷惑をかけるので具体的には書きませんが、関係者の一人は「人間の血が通っていないのではないか。日は法治国家だから、いずれはっきりするだろう」と話していました。こういう記事を読むと、報道とは何のためにあるのかと、表現の自由とは何だろうかと疑問を

  • 魚住昭「官僚とメディア」 | bewaad institute@kasumigaseki

    魚住昭「官僚とメディア」 著者の作を読むのは「野中広務 差別と権力」に次いで2冊目なのですが、「野中広務」を読んだときに思ったとおり、著者は優秀なジャーナリストなのだな、と実感させる一冊です。検察にい込んでいった様の描写など、プロとはかくあるべしと感心してしまいます。 しかしながら、書の醍醐味は、そこにはありません‐あるいは、優秀なるがゆえに著者の狙いとは違った問題をも図らずも抉り出してしまった、というべきでしょうか。つまりは、優秀である著者であっても逃れられないということから、今のマスメディアの抱える問題の深刻さがあぶりだされてくるのです。 歴史は繰り返す 今なおメディアの世界においては、昭和初期の全体主義体制の確立に当たって、被害者意識のみを持つ人も多いように見受けられますが。 私がまだ共同通信の記者をやめる直前の『沈黙のファイル』の取材で、同僚と一緒に太平洋戦争開戦前夜の参謀

  • Meine Sache 〜マイネ・ザッヘ〜: カミカゼは不適切語か?

    知り合いのディレクターにびっくりするような話を聞きました。 あるスポーツ番組で「カミカゼ」という言葉を使おうとしたところ、局側から「問題だ」と指摘され、ディレクターとしての常識を問われた挙げ句、制作から外すことを示唆されたというのです。 果たして「カミカゼ」は不適切な言葉でしょうか? カミカゼという言葉は、日よりもむしろ外国で、スポーツ選手を形容する表現として良く使われます。「向こう見ずで危険なやつ」というようなニュアンスもありますが、大抵の場合は、「恐れを知らぬ勇敢な選手」という、敬意を込めた使われ方をします。かつてF1の片山右京選手が「カミカゼ・ウキョー」と呼ばれたのも、危険を顧みない大胆なドライビングが評価されてのことでした。 ぼくは日人ですから、闇雲にスポーツ選手にカミカゼという言葉を使うことには躊躇があります。大切なものを守ろうとして死んでいった人たちに、失礼な気がするからで

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