東京府荏原郡馬込町(現在の東京都大田区馬込)で生まれる。戦火に遭い、母親の実家がある茨城県稲敷郡牛久村(現在の牛久市)へ疎開する。茨城県立龍ヶ崎中学校(現在の茨城県立竜ヶ崎第一高等学校)時代はエースで4番。國學院大學に進み、ここでもすぐにエース格となる。 1950年、大学に籍を置いたまま、東急フライヤーズに入団・プロ入りする[3]。背番号は14。 1950年5月11日の対大映スターズ戦の0対18で迎えた5回裏二死の場面で、蔦文也に替わって4番手で塩瀬がプロ入り初登板、姫野好治を三振とした[3]。6回表、二死一塁の場面で、塩瀬はプロ入り初打席に立ち、先ほど対戦した姫野から初球を打ち、右翼席上段への2ラン本塁打を放った[3]。6回裏には四球、ボークで2点を許し、続く7回裏も四球、内野安打、四球と続けて無死満塁となり、常見茂と交代。以降、塩瀬は公式戦に出場することはなかった[3]。 試合終了後、