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  • 浄光寺(じょうこうじ)「栃木県上三川町」

    上三川町役場の南側を通る県道35号を西進して、約3kmの所に、大山簡易郵便局がありその南に立地します。 由緒 浄光寺は、西暦1301年(正安3年)に華厳宗常超和尚によって開山された言い伝えられています。 西暦1368年~1375年(応安23年~天授1年)に寛海住職により真言宗となり、西暦1573年~1592年(天正1年~文禄1年)に時宗となったそうです。 天台宗になったのは、江戸時代初期の西暦1624年~1644年(寛永1年~正保1年)純賢住職の代のことでした。 寺伝によると、西暦1688年(元禄1年)に尊・阿弥陀三尊と薬師如来の修復が行われたそうです。 その際、日光・月光菩薩および十二神将は虫いのために修復できず、新たに作り直されました。 西暦1724年(享保9年)に、川中子村(現在の上三川町)光西寺の阿弥陀三尊が落合清兵衛武により浄光寺に移されたことが、記録に残っており、現在の

    浄光寺(じょうこうじ)「栃木県上三川町」
  • 磐裂根裂(いわさくねさく)神社「栃木県壬生町」

    壬生町の北部に位置し、県都宇都宮市の境付近、国道121号と県道2号の交差点付近の高台に鎮座します。 由緒 西暦1570年(元亀1年)九月二十九日に殿を建設し、正一位の位を賜り、西暦1874年(明治7年)九月二十九日に安塚神社に昇格し、社号を改めて、村社磐裂根裂神社に改定し、現在に至っています。 磐裂根裂神社は、社名のとおり磐裂神・根裂神が主祭神で、この二神の誕生は文献によると、「伊邪那岐神は、伊邪那美神が火の神を生んだ際に、その火に焼かれて死んでしまったことに悲しみ怒って、その迦具士神を十挙の剣で斬り殺してしまいました。その時、その剣先についた血により化成した神」との言い伝えがあります。 西暦741年(天正13年)日光開山の勝道上人は、日光男体山頂きをきわめたのは、常に磐裂神、根裂神を尊崇して、必ず神恩を忘失すべからず、とさとされた同神社の神様です。 石柝は文字通り石(岩)をも裂く程のす

    磐裂根裂(いわさくねさく)神社「栃木県壬生町」
  • 精忠神社(せいちゅうじんじゃ)「栃木県壬生町」

    壬生町の中心市街地の、壬生城址公園に隣接西側に鎮座します。 由緒 西暦1712年(正徳2年)それまでの城主加藤氏が近江の国水口へ、同国から鳥居氏が壬生蕃へと国替えになりました。 鳥井忠英は、壬生城内東北の隅に、その租、鳥居彦衛門元忠を祀りました。 西暦1799年(寛政12年)神祇(しんぎ)管領吉田家より精忠霊神を受けました。 西暦1849年(嘉永2年)現在地に移遷し、社殿を建立しました。 祭神鳥井元忠は、徳川家の命を受け、京都伏見城の主将として、西暦1600年(慶長5年)西軍の城攻めを守死したが、自刃しました。(関ヶ原の戦いの前哨戦)その後、徳川の世となり元忠の戦功を徳川家は厚遇したそうです。 鳥居

    精忠神社(せいちゅうじんじゃ)「栃木県壬生町」
  • 十二所神社「栃木県芳賀町」

    芳賀町の中西部にあり、国道123号芳賀町西水沼から県道156号を北進約2kmの西側の大地に鎮座します。 由緒 西暦1393年(明徳4年)秋に、東水沼字免の内台藤山勧請したと言い伝えられています。 祭神は天神七代(天御中主神・高皇産霊神・神皇産霊神・可美葦牙産舅神・天常立神・国常立尊・豊雲野神)と地神五代(天照大神・天忍穂耳尊・々杵尊・彦火々出見尊・草葺不合尊)の十二柱の神を祀ることから十二所神社と呼ばれたとのことです。 鳥居と参道

    十二所神社「栃木県芳賀町」
  • 妙福寺(みょうふくじ)「栃木県高根沢町」

    高根沢町の東部にあり田園地帯を抜け山間の民家の建ち並ぶ間に立地します。 由緒 日蓮宗長栄山妙福寺は、日蓮上人が西暦1264年11月11日 房州の小松原に於いて、東条左衛門影信に眉間に大傷を受け、治療のため那須温泉入場のおり滞在され自ら尊象を遺置された霊地になりました。 西暦1375年(天授1年)に日升上人により復興され、西暦1627年(寛永4年)に現在地に移転しました。 題目板碑 緑泥片岩製の武像型板碑で、2基とも南那須町福岡の同じ地点で発見、妙福寺に寄進されました。 共に同じ南妙法蓮華経、両側に経典の章句を抜粋した偈の刻文がみられます。 右の1基は西暦1330年(元徳2年)銘で高さ106cmの大型です。 塩那地方への日蓮宗の布教活動を示す数少ない題目板碑です。 妙福寺境内

    妙福寺(みょうふくじ)「栃木県高根沢町」
  • 蓮性院(れんしょういん)「栃木県高根沢町」

    栃木県塩谷郡高根沢町宝積寺(ほうしゃくじ)の、日蓮宗大正山(たいしょうさん)蓮性院(れんしょういん)の紹介です。 宝積寺という寺は群馬、山梨など各地にあるが、最古の寺は京都の大山崎町にある。724年に有名な僧行基が創建したという真言宗の寺院で、俗に「宝寺(たからでら)」という。 「宝積寺」の由来については史料に諸説はあるが、はっきりしたことは解っていない。 宝積寺の村名についての初出は文禄2年(1593)の大和田重清日記(史料編Ⅰ)だが、由来を記した最初は「地誌編集材料取調書・宝積寺村」(明治18年)で、次のようである。 「村下阿久津村ヲ宝積寺村ト改名セシハ、旧領主宇都宮弥三郎国綱氏の妹、慶長ニ酉年中(1597)村月馬場ニ宝積寺ト称ス尼寺ヲ建立シ田畑ヲ開キ寺 料トナシ居住セシニ、慶長八卯年中(1603)相州鎌倉ニ転ジ廃寺スルニ寺号ヲオシミ給ヒ、宝積寺ノ号ヲ村号トシ永称セヨト寺料諸品不残

    蓮性院(れんしょういん)「栃木県高根沢町」
  • 道の駅発酵の里こうざき利用記録情報「千葉」

    香取郡神崎町は、利根川と平行して走る国道356号沿いの、成田市と香取市、利根川を挟んで茨城県稲敷市に隣接しています。 古くから米所として、栄えたこの地は、酒・味噌:醤油などの発酵品が盛んに製造されてきました。

    道の駅発酵の里こうざき利用記録情報「千葉」
  • 満願寺「栃木県上三川町」

    上三川町の北東部の県道158号と193号の交差点から南東に方向に数十メートルの所に立地します。 由緒 薬王院満願寺は、山号を仁王山と号し、真言宗智山派に属する名刹である。同寺は、西暦765年神護景雲2年称徳天皇の御代、下野国芳賀郡の人・勝道上人が日光開山の帰途の際、この地に立寄り、日光立木観音満願寺にちなみ、不動明王を尊としてこの満願寺を開山したのが始まりと言い伝えられています。 上人御年36歳であったそうです。 西暦807年(大同2年)に、弘法大師が巡教のおり、一木をもって薬師如来三体を刻み一体を安置したと言われています。 爾来幾星霜の年月がすぎ去り、法灯は守りつがれて今日にいたる。 別名を汗薬師様とも呼ばれ、広く人々の信仰を集め、参詣客はあとをたたない。境内の満願寺かやは、上三川町天然記念物であり、栃木県名木百選となっています。 満願寺楼門 この楼門(二階造りの門)は木の組み方などに

    満願寺「栃木県上三川町」
  • 上三川城跡(上三川城址公園)「栃木県上三川町」

    西暦1249年(建長1年)、宇都宮頼綱の二男、頼業の築城といわれています。 頼業は、初めは横田城を居城としていたので、横田姓を名乗っていました。 上三川城築城以降は代々居城とし、8代目の元明の時、今泉に姓を変えています。 上三川城に係る戦いで西暦1558年(永禄1年)に起きた「多功の戦い」があります。 これは、当時長尾景虎と名乗っていた上杉謙信が宇都宮氏攻撃に攻め寄せ、これを宇都宮氏の軍が撃退したという戦いです。 小田原の役で北条氏が滅ぶと、宇都宮氏で跡継ぎ問題が起き、当主宇都宮国綱には男子がなかったので、豊臣秀吉のあっせんで五奉行の浅野長政の三男長重が推挙されました。 家老の14代城主今泉高光はこれに賛成しましたが、宇都宮国綱の弟芳賀高武は反対して対立してしまいます。 西暦1597年(慶長2年)5月、芳賀高武は上三川城を急襲、落城し、城主今泉高光は自害して廃城となりました。

    上三川城跡(上三川城址公園)「栃木県上三川町」
  • 長泉寺「栃木県上三川町」

    上三川城は上三川町の中心部の県道35号沿いの白鷺神社の東側に立地します。 由緒 1504年(永正1年)に上三川城主今泉盛朝によって建立されました。 鎌倉時代の作、尊十一面観世音菩薩坐像や推定樹齢500年のコウヤマキ、上三川城主今泉家の墓といった町指定文化財があります。 1597年(慶長2年)の上三川城落城の際は、この場所において城主今泉高光以下家臣たちが最後を遂げたと伝えられています。 山門

    長泉寺「栃木県上三川町」
  • 道の駅水の郷さわら利用記録情報「千葉」

    香取市は、千葉県の北部にあり、利根川の南に位置し、水と大地の恵みの街です。 道の駅水の郷さわらは、香取市の中心街と利根川の間にあり、国道356号沿いに立地します。

    道の駅水の郷さわら利用記録情報「千葉」
  • 常珍寺(じょうちんじ)「栃木県芳賀町」

    瀧海山弘誓院常珍寺 芳賀町の中西部に流れる野元川の西側、国道123号から約1kmほど北に立地します。 由緒 西暦858年(天安2年)比叡山延暦寺第三世座主慈覚大使円仁の開基と言われています。 境内に滝があったことから瀧海山と呼ばれました。 西暦1673年(延宝元年)に山崩れのため諸堂宇、滝ともに埋没しましたが、西暦1683年(天和3年)二十二世賢榮法師がこれをなげて、現在地を選んで堂宇を再建し、元禄年中、第二十四世慶海僧正中興の祖として、観音堂、仁王門、大門、鐘楼などを建立し、仁王像、諸仏像を鋳造した。 その後も年々整備につとめ、西暦1985~1989年(昭和60年から平成元年)に諸堂宇、菩提堂など新改築し、境内に整備しました。 秘仏「聖観世音」は、寺伝によると八幡太郎義家が、西暦1087年(寛治元年)、後三年間の役に際して「諸仏」を当山に奉安し、戦勝祈願しました。 後に、下野三十三観音第

    常珍寺(じょうちんじ)「栃木県芳賀町」
  • 道の駅和田WA・O!利用記録情報「千葉」

    地元農家の採れたて新鮮野菜や、南房総の海産物、銘菓まで販売されていました。意外に海産物がメインかと思いましたが、耕地が肥沃のでしょうか野菜類が、多く提供されていました。 道の駅ちくらで紹介した、クジラのコロッケがこちらの道の駅でも提供されていました。多くの有名人が美味しそうにクジラコロッケをべる姿の写真が、掲げられていました。 レストランでは、和田港から水揚げされた新鮮な魚介類を使用した、浜料理などが提供されていました。 利用回数と利用形態 昼間の利用で、複数回利用しました。 案内地図 施設情報

    道の駅和田WA・O!利用記録情報「千葉」
  • 駒止め天満宮「栃木県芳賀町」

    芳賀町中心街の西側に流れる五行側その川を挟んで、道の駅はが、があります。道の駅から南に数百メートルの田んぼの中に鎮座しています。 由緒 地元地区では、上延生の天神延生(てんじんのぶ)に鎮座する天満宮を、通称駒止め天神と呼んで親しんでます。 古くからの言い伝えによると、第105代後奈良天皇の西暦1532~55年、(天文元年~弘治元年)に上延生、塩ノ目村の人たちが合同で、菅原道真の徳をしたって両村の守護神としたそうです。 その後、笠間藩主浅野長政の信仰篤く受け、徳行天神と称したことがあるといわれています。 復古文武の神として崇敬され、近郷近在郷土の鎮守として祀られてきました。 西暦1927年(昭和2年)、上延生の氏子一同は村社に昇格を申請し、同年1月、村社天満宮に県指定され、現在に至っています。 西暦1844年(弘化元年)宇都宮二荒山神社の神馬が奔走してきて、天神延生天満宮境内の大杉につながれ

    駒止め天満宮「栃木県芳賀町」
  • 道の駅鴨川オーシャンパーク利用記録情報「千葉」

    鴨川市は、房総半島の南東部にあり、外房と山間部にまたがる場所に立地しまます。 道の駅鴨川オーシャンパークは、外房の国道128号線沿いの海岸に面する場所に立地します。

    道の駅鴨川オーシャンパーク利用記録情報「千葉」
  • アコードハイブリッドと冬タイヤ

    アコードハイブリッド納車されました。息子のですが、僕が買うわけいや買えるわけありません。 息子は納車後、海外に1ヶ月ほど出張していたので、放置しておりましたが、日試乗しました。 静かでトルクフルなハイブリッド まず、当然ですが、静かですね。スタートボタンをプッシュして、Dレンジに入れる、フットブレーキを離して、アクセルペダルをゆっくりと踏み込む、実に静かです。 道路方式を検知 道路標識を検知して、制限速度やはみ出し禁止のなどをメーターパネルに表示しますね。 車線ずれ検知 長い直線などの走行して、車線を内側か外側にややずれると、ステアリングに若干の振動を与えて、警告する中々ハイテクやるじゃないですか。 ストレス無く合流可能 誰もいない農免道路で、少々の直線で軽く踏み込むと三桁(時速)にあっという間に到達しました。素晴らしい追い越し加速(誰も追い越していません)ですね。 ストレス無く、高速道

    アコードハイブリッドと冬タイヤ
  • 姥が池(うばがいけ)「栃木県芳賀町」

    芳賀郡芳賀町の中心街祖母井(うばがい)に鎮座する祖母井神社の東方向に数百メートルに立地します。 現在は、姥が池ロマン公園として、整備され夏場は涼を求める付近住民が、散歩などを楽しんでいます。 祖母井(うばがい)の由来 芳賀町祖母井の東台地の麓に位置するこの地一帯は、4000~5000年前(縄文時代中期~主体に後期まで)弁天池(現在の姥が池)遺跡地であり、産土の森であり、そして泉がありました。 この姥が池は清水が年中かれることなく、またその水量も一定して増減がない安定しています。 この清水は、室の八州をかたどった堀筋によって流出し、近隣住民の貴重な灌漑用水として利用されてきた。 そのため、古くから尊崇の聖地とされ、祖母井神社もこの地より遷宮されたものであって、「下宮姥が池霊地」となっています。 また、言い伝えによれば、日光開山の名僧勝道上人の姥がこの地に往し、上人誕生の際の産湯にこの霊水が使

    姥が池(うばがいけ)「栃木県芳賀町」
  • 道の駅ちくら・潮風王国利用記録情報「千葉」

    南房総市は、房総半島の南部にあり、内房から外房まで広い地域にまたがる自治体です。 道の駅ちくら・潮風王国は、外房に位置し国道410号と海岸の間に立地します。 海産物直売所では、地元の漁港で水揚げされた鮮魚や活アワビ、サザエ、伊勢海老が店頭に並びます。また、干物や各種海産物、加工品など、そして鯨の肉の干しものが販売されていました。 レストランでは、地魚のあら煮や金目鯛一匹まるごと煮、千倉にぎり寿司膳(いせえび丸ごと味噌汁付)、あわびやクジラ料理などの新鮮な海の幸料理が提供されていました。 しおかぜコロッケハウスでは、サザエコロッケやひじきコロッケ、そしてクジラコロッケが、販売されていました。

    道の駅ちくら・潮風王国利用記録情報「千葉」
  • 祖母井城跡(うばがい)「栃木県芳賀町」

    芳賀郡芳賀町の中心市街地で、元芳賀町役場の跡地を公園化して町民の憩いの場となっています。その元役場は、かつての祖母井城でした。 小峯神社という小さな神社が公園内に有ります。 西暦1532~54年(天文年間)宇都宮氏の家臣、祖母井信濃守吉胤が築城したと伝えられています。 西暦1572年(元亀3年)北條氏政が多古城を攻撃すると祖母井高貞がこれを撃破しました。後に西暦1585年(天正13年)に北條氏が多気山城を攻撃したときは、祖母井定久がこれを撃退しました。 西暦1592年(文禄元年)文禄の役では祖母井定久が戦功を立てました。 祖母井氏は武略に優れた一族でしたが、宇都宮氏が改易されると連座して城を追われました。 その後、この地は浅野長政が、次いで蒲生氏郷が領地として、西暦1615年(元和元年)大田原政清の領地となりましたが、このころ廃城になったと言われています。 城郭は、水田や湿地帯の微高地に築

    祖母井城跡(うばがい)「栃木県芳賀町」
  • 道の駅白浜野島崎利用記録情報「千葉」

    地元農家の野菜を中心に販売提供されていましたが、極小のスペースに少量が並べられていました。(やや寂しい感じがしました。 農園ハウスを覗きました、季節はすれなのか何も生産はされていませんでした。 利用回数と利用形態 昼間の利用で、初めて利用しました。 案内地図 施設情報

    道の駅白浜野島崎利用記録情報「千葉」