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ブックマーク / note.com/sensou188 (50)

  • 戦時下でもないのにあらゆるものが値上がりする昨今に鑑み、戦時下の値上げ資料をご紹介|信州戦争資料センター(まだ施設は無い…)

    2024(令和6)年6月18日にこの記事を書いておりますが、既にさまざまな料品などの7月引き上げが予定されているほか、クッキーやお菓子など、いろんなものが小さくなる「ステルス値上げ」にもさらされてきました。円安誘導を10年以上続けてきた平時の政策の影響だけでもこの有様ですから、戦時下にはもっとすごいことになったのではないかーということで、以前、たばこの値上げを取り上げました。今回は、日中戦争初頭の値上げ資料をご紹介します。 まず、1937(昭和12)年7月に日中戦争格化して、軍需物資の輸入や運搬のため民間の船舶使用量が少なくなる中、影響が大きかったものとしてパルプがあります。パルプは紙の生産に不可欠ですが、かさばることから輸入量が減少したのと、綿糸の代用品として化学繊維のステープルファイバー(スフ)の材料にもとられていったため、たちまち紙の値段に響いてきます。大阪名刺用紙協会は、19

    戦時下でもないのにあらゆるものが値上がりする昨今に鑑み、戦時下の値上げ資料をご紹介|信州戦争資料センター(まだ施設は無い…)
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    kiku72 2024/06/19
    “経済事犯の増大という中で、何も持たない庶民が振り回されていく”
  • 太平洋戦争開戦1周年記念の「大東亜戦争大展観」、どんな雰囲気だったか、様子が分かる絵葉書セットでどうぞ|信州戦争資料センター(まだ施設は無い…)

    太平洋戦争開戦1周年記念の「大東亜戦争大展観」、どんな雰囲気だったか、様子が分かる絵葉書セットでどうぞ 太平洋戦争開戦一周年を記念したイベント「大東亜戦争大展観」が1942(昭和17)年12月8日から翌年1月8日まで、熱田神宮外苑で開かれました。主催は愛知県、名古屋市、大日飛行協会、それに朝日新聞社でした。絵葉書セットの袋だけ入手していて妄想を膨らませていましたが、やっと5枚の絵葉書が入ったセットを入手したので、当時の雰囲気を感じてみたいと思います。 袋の絵には空母、潜水艦、戦車、飛行機が 会場全体の鳥観図から。「マレー沖海戦パノラマ」など、戦闘を伝える大型展示物に加え、「総力戦必勝態勢パノラマ」といった宣伝物、兵器展や戦利品、潜水艦の気分を味わえる潜望鏡などなど。潜水艦の絵が入っているはずです。 会場全体の鳥観図 さて、陸海軍とも見せ場を出しています。マライ半島席巻の看板が入って戦車や

    太平洋戦争開戦1周年記念の「大東亜戦争大展観」、どんな雰囲気だったか、様子が分かる絵葉書セットでどうぞ|信州戦争資料センター(まだ施設は無い…)
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    kiku72 2024/06/09
  • 子どもの時から飛行士を育成せよ|信州戦争資料センター(まだ施設は無い…)

    第一次世界大戦後、飛行機の発展から、これからは飛行機の時代として、各刻とも飛行士の養成が急務となりました。日では1937(昭和12)年ごろから中等学校に対して滑空機の訓練が奨励されるようになりました。表題写真は1942(昭和17)年12月、長野県南安曇農学校(現・南安曇農業高校=安曇野市)にグライダーが到着し、学生が組み立てている場面です。 長野県内では八ケ岳山麓の霧ケ峰高原が全国でも有名な滑空場となっており、1936(昭和11)年9月には第1回全日グライダー大会も開くほどの人気でした。こうしたグライダーの訓練が、短期間での飛行士養成につながると考えられていたのです。長野県学務課は太平洋戦争開戦後の1942(昭和17)年6月、男子中等学校すべてに対し、滑空団を編成し教練の時間に滑空訓練を行うよう指示しました。 霧ケ峰高原でのグライダーの飛行 南安曇農学校にも、そんな経緯でグライダーが入

    子どもの時から飛行士を育成せよ|信州戦争資料センター(まだ施設は無い…)
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    kiku72 2024/06/06
  • 断末魔にも似たチラシ「義勇隊員に告ぐ」は「今こそ血と団結で戦へ」と絶叫|信州戦争資料センター(まだ施設は無い…)

    いよいよ戦争の行く手がきつくなってきた1945(昭和20)年、日国内では最後のあがきのようなさまざまな手が打たれます。その一つが、大政翼賛会などせっかく戦争遂行のためにつくった各種団体を解散させて、新たに結成した「国民義勇隊」です。市町村や職場、学校ごとに隊を編成し、特に土決戦準備と番で効率よく軍を支援する狙いで、指揮系統を統一しました。下写真は、帝国生命横浜支店の国民義勇隊であることの証明書です。こうした証明を役場に提出することで、だぶって隊員になることを避けました。戦争末期とあって、紙もばらばらです。 国民義勇隊員の証明書 そして、義勇隊員として活動するときのために、サイズや書式が決められた名札もそれぞれで作られました。下写真は、長野県の諏訪地方の会社の義勇隊員がつくったものです。 義勇隊員の名札 長野県丸子町(現・上田市)役場では、1945年7月の常会徹底事項で「義勇隊について

    断末魔にも似たチラシ「義勇隊員に告ぐ」は「今こそ血と団結で戦へ」と絶叫|信州戦争資料センター(まだ施設は無い…)
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    kiku72 2024/05/29
  • 木曽町に残る赤黒迷彩の土蔵ーなぜ赤と黒か|信州戦争資料センター(まだ施設は無い…)

    表題写真と下写真は以前、長野県木曽町に行って撮影してきた、戦時中に迷彩をほどこしたという土蔵です。写真の解像度が低いのは申し訳ないですが、いずれ撮り直しに行きたいと思って居ます。 赤と黒の迷彩が入った土蔵 太平洋戦争も末期になり、日への空襲の危機が叫ばれるようになると、土蔵の白壁が夜目に目立つとして、すすなどを塗って迷彩することが盛んに行なわれました。たいていは、白壁の上にすすで黒く塗ったものですが、木曽町の土蔵はなんと、黒と赤の迷彩です。まず見たことがありませんし、迷彩効果からいっても(もちろん、白壁を塗るのもたいしたことではありませんが)、不思議です。 扉にもしっかり塗装 とびらにも、丁寧に色が塗ってあります。基的にこの状態で土蔵を物置に使っていますので、影になる部分が多く雨にも当たりにくいため、戦後半世紀以上を経ても、これだけの色が残ってくれたといえます。 土蔵正面の迷彩はほとん

    木曽町に残る赤黒迷彩の土蔵ーなぜ赤と黒か|信州戦争資料センター(まだ施設は無い…)
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    kiku72 2024/05/24
  • <戦時下の一品> 黒い牛乳瓶|信州戦争資料センター(まだ施設は無い…)

    来、透明な牛乳瓶が、透明なガラスをつくる材料不足から、さまざまな色のガラスくずで作られた、黒い牛乳瓶が太平洋戦争末期には登場しています。 光の具合で濃い緑や茶色にも見える「黒い牛乳瓶」 実際に牛乳を入れるのは気が引けたので、白い紙を入れてみました。 口から見た雰囲気横からだとこんな感じ 牛乳瓶が透明のものになったのは、腐敗事件などをきっかけに1927(昭和2)年「牛乳営業取締規則」が改正され翌年から施行されたことに始まります。殺菌の義務付け、着色瓶の禁止、無色透明の広口瓶で紙栓をすることとされました。そして牛乳を飲む習慣も、1935(昭和10)年前後に大手メーカーが出そろい、一般に浸透していくようになったということです。 一方、生産量の低下を受けてか軍需転換のためかは分かりませんが、1940(昭和15)年10月公布の「牛乳及び乳製品配給統制規則」で、牛乳は母乳が足りない満一歳以下の乳児や

    <戦時下の一品> 黒い牛乳瓶|信州戦争資料センター(まだ施設は無い…)
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    kiku72 2024/05/15
    “明なガラスをつくる材料不足から、さまざまな色のガラスくずで作られた、黒い牛乳瓶”
  • 長野県出身の軍人 一木清直大佐…盧溝橋事件とガダルカナルの落差はなぜか|信州戦争資料センター(まだ施設は無い…)

    1942(昭和17)年8月、米軍の上陸したガダルカナル島へ反撃のため上陸した一木支隊の戦い。待ち受ける米軍に突撃して壊滅したその戦いに違和感を感じたのは、1937(昭和12)年7月の、盧溝橋事件における一木清直少佐=長野県高森町出身=の対応を知ったときでした。以下、当時の新聞や元防衛大学校准教授・関口高史さんの著書「誰が一木支隊を全滅させたのか」より、一木清直大佐の事をご紹介します。 「誰が一木支隊を全滅させたのか」関口高史著 一木少佐は1936(昭和11)年5月、支那駐屯軍歩兵第一連隊第三大隊長に任命されて、北京の豊台へ赴任しています。書によりますと、その翌年の1937年7月7日、北京郊外で夜間演習を終了したところ、演習終了を知らなかった兵が空砲を発射、「それに応じるかのように別の方向から銃声が響いた。第八中隊長清水節郎大尉は、銃声が実弾のものと知り、直ちに呼集ラッパを鳴らし、兵隊を集

    長野県出身の軍人 一木清直大佐…盧溝橋事件とガダルカナルの落差はなぜか|信州戦争資料センター(まだ施設は無い…)
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    kiku72 2024/05/11
  • 太平洋戦争末期、いよいよ空襲が本格化するというところで建物の強制疎開が行われましたー防空法に基づいて|信州戦争資料センター(まだ施設は無い…)

    密集した市街地に空地を設けたり、広い道路で防火帯をつくったりするのは、火災に対する基であり、空襲の被害を最小限にするため、「逃げるな!火を消せ!」で悪名名高い防空法によって、有無を言わさず進められます。こちら、1944(昭和19)年5月、東京都防衛局建物疎開課が作成した蒲田区全図の取り壊し建物の予定個所などを示した建物疎開地区図です。 強制疎開の広い「疎開空地帯」で区切られているのがよくわかる緑が「疎開空地帯」、黄色が「疎開空地」、赤が「疎開小空地」 蒲田区の指定は1944年3月から5月に行われています。こうした強制疎開の指定は東京以外にもあちこちで行われています。下写真は、岩手県が出した「建物疎開の指針」で、特に盛岡市を対象として、建物疎開の意義などを説明しています。7月22日から始めるとしていますが、1944年か1945年かは不明ですが、東京都でも5月で計画が出来た程度ですから、おそ

    太平洋戦争末期、いよいよ空襲が本格化するというところで建物の強制疎開が行われましたー防空法に基づいて|信州戦争資料センター(まだ施設は無い…)
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    kiku72 2024/05/02
  • 大政翼賛会ではフリーキャラクター「大和一家」で啓発。子供たちにも浸透したもようです。|信州戦争資料センター(まだ施設は無い…)

    1940(昭和15)年秋に発足した大政翼賛会ですが、まず必要なのは「何のために戦っているか分からない」日中戦争が長期化して終わりが見えない中、何とか臣民の意識を戦争に向けさせることでした。そこで重視されたのが宣伝。しかもこのころには珍しく、大政翼賛会と日漫画協会の手で、フリーキャラクターを使って自由に使わせることで国策に意識を集中させようとしたことです。下写真が、そのキャラクター「大和一家」を紹介した1940(昭和15)年12月7日の信濃毎日新聞のコピーです。 大家族です。子供7人の11人です。隣組の設定もちゃんとされています。米と炭は配給になっています。 収蔵品には、いくつか大和一家が登場するものがあります。例えばこちら、浪費を戒め国債などの購入や貯蓄を奨める国策紙芝居「拾円札の喜び」(1941年7月15日発行)には、135億円の貯蓄目標を達成するため、大和一家全員が350円をしょって

    大政翼賛会ではフリーキャラクター「大和一家」で啓発。子供たちにも浸透したもようです。|信州戦争資料センター(まだ施設は無い…)
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    kiku72 2024/04/17
  • 「パーマネントはやめましょう」って言い続けたけど、押さえ切るのは無理なことでした。新聞投稿で論争も。|信州戦争資料センター(まだ施設は無い…)

    「パーマネントはやめましょう」という標語というかスローガンというか運動というか、そういった言葉が登場したのは意外に早く、日中戦争が始まった1937(昭和12)年ごろからでした。贅沢を排撃する風潮の高まりに合わせて、婦人団体やら生活改善やらで活動したようです。しかし、効果はどうだったか。それは、パーマをかけることが、なぜ贅沢なのかー既に一般に広がっていたーを誰も説明できなかったからでしょう。国民精神総動員運動の手持の資料を調べましたが、なかなか見つけられませんでした。 次にパーマネントをやめさせようという機運が盛り上がるのが、1939(昭和14)年の電力不足のころで、同年6月16日の国民精神総動員委員会では、学生の長髪、ネオンの禁止と並んでパーマネントの禁止も決定します。 節電のため、寝る時の電気消灯を呼びかける長野県松警察署などのチラシ1939年9月のもので「電気を消して銃後報国」と。 

    「パーマネントはやめましょう」って言い続けたけど、押さえ切るのは無理なことでした。新聞投稿で論争も。|信州戦争資料センター(まだ施設は無い…)
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    kiku72 2024/04/03
  • 1941年春に発足した東京市大久保国民学校1年生の戦時下の足跡を成績表と身体測定に見るー疎開で食糧事情激悪か|信州戦争資料センター(まだ施設は無い…)

    大日帝国は日中戦争中の1941年4月から、それまでの尋常小学校・尋常高等小学校をそれぞれ国民学校初等科、国民学校高等科に改めます。その国民学校に最初に入学した少年の成績表・身体測定結果を1945(昭和20)年分までまとめて入手しましたので、そこから当時の子どもの姿を追ってみました。 国民学校初等科3年当時の内田君の通信簿通信簿の内側。このころは東京都立になっています。身体検査票 1943年当時の身長118.4センチ、体重19キロは、1939(昭和14)年の全国平均に比べて身長は0.9センチ低いだけですが、体重は平均に比べ3.5キロ少なく、BMIでみると内田君は13.55、1933年の全国平均15.81に比べ、少しやせ型だったようです。1941年当時からこの傾向なので、やせ型のまま推移し、特に病気とかしていない、普通の少年だったようです。成績はまずまずだった様子です。 ◇ 1944(昭和1

    1941年春に発足した東京市大久保国民学校1年生の戦時下の足跡を成績表と身体測定に見るー疎開で食糧事情激悪か|信州戦争資料センター(まだ施設は無い…)
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    kiku72 2024/04/01
    “全国的に子どもの体格は成長が止まったようになりました。栄養不足や慣れない集団生活”
  • 徴兵制下の戦前日本では、軍隊への入営、入団、出征に合わせて幟で鼓舞しましたーリサイクルや華美にしない工夫も|信州戦争資料センター(まだ施設は無い…)

    徴兵制下の戦前日では、軍隊への入営、入団、出征に合わせて幟で鼓舞しましたーリサイクルや華美にしない工夫も 太平洋戦争や日中戦争を扱ったドラマなどで、出征する兵士を見送る場面などに、「祝 出征〇〇君」などとした幟を見ることはございませんでしょうか。徴兵制と言っても、徴兵検査で合格し籤で入営を決められて兵営で2年間生活する「現役兵」が一部であることは以前ご説明したことがありますが、このため一つの村から入営するのはわずかな人数であり、地域の代表として幟を贈り、盛大に見送りをしました。また、赤紙などで出征する兵士らにも同様にしていました。 表題写真と下写真は、長野県川中島村(現・長野市)の丸田治雄さんが出征するにあたって贈られた幟で、勤め先や親せきなどから合わせて21も贈られています。まだ物資が豊富で勢いもあった、日中戦争初期のころのものでしょうか。 書家に依頼したり、自分で書いたり、いずれも

    徴兵制下の戦前日本では、軍隊への入営、入団、出征に合わせて幟で鼓舞しましたーリサイクルや華美にしない工夫も|信州戦争資料センター(まだ施設は無い…)
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    kiku72 2024/03/25
  • 初の国産量産戦車に乗った新聞記者の感想や、いかに。山岳県の長野では、最新兵器の試験も度々ありました。(軍事)|信州戦争資料センター(まだ施設は無い…)

    初の国産量産戦車に乗った新聞記者の感想や、いかに。山岳県の長野では、最新兵器の試験も度々ありました。(軍事) 1935(昭和10)年、長野県松市の歩兵第50連隊に、千葉県から戦車隊が訪れました。歩兵との共同行動を訓練し、一般にもその様子を公開しています。下写真は、フランスから1925(大正14)年に13両を輸入し、日最初の戦車隊を編成したルノーFT軽戦車と歩兵の連携写真です。遠景には、国産戦車の製造の遅れから1930(昭和5年)に10両輸入したルノーNC軽戦車も見えます。 第一次世界大戦末期に量産後、各国に売られたルノーFT軽戦車 こちらは、手前がルノーNC、奥がルノーFT。それぞれ10両、13両しか輸入されておらず、しかも既に1932(昭和7)年の第一次上海事変などで消耗した後に、初期の日軍の装備した戦車がこうして地方で活動している鮮明な写真は貴重ではないでしょうか。 ルノーNC(

    初の国産量産戦車に乗った新聞記者の感想や、いかに。山岳県の長野では、最新兵器の試験も度々ありました。(軍事)|信州戦争資料センター(まだ施設は無い…)
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    kiku72 2024/02/28
    “一方で、世界の戦車の進歩のほうが早く”
  • 「小林多喜二の拷問死は嘘」ーそこまで権力無謬性を妄信するのか。ならば、その時代背景の一端を伝えよう。|信州戦争資料センター(まだ施設は無い…)

    2024年からみて91年前の1933(昭和8)年2月20日正午ごろ、プロレタリア作家の小林多喜二が築地署の特高課員に逮捕されます。そしてその日、午後7時45分に死亡し、その夜のうちに遺体は自宅に戻されました。「内出血で紫褐色に膨れ上がった両方の股(もも)、これもで蹴り上げられた痣のある睾丸、焼き火箸を突き刺したらしい二の腕とこめかみの赤茶けた凹み。ー警察は心臓麻痺だといいはり、あらゆる手を使って司法解剖を妨害した」(講談社・昭和2万日の記録、千田是也「もうひとつの新劇史ー千田是也自伝」より)とあります。 逮捕から半日で突然心臓麻痺になったことを警察側で検視し、遺族はそれを受け取ったのだから拷問死ではないーという発想の幼稚さにも、執拗にそうした発言を繰り返す権力に対する絶対の信頼性と何かへの憎悪にも似た発言に驚くほかなく、つぶやいたのが、表題写真のX(旧ツイッター)です。 「お前が小林多喜

    「小林多喜二の拷問死は嘘」ーそこまで権力無謬性を妄信するのか。ならば、その時代背景の一端を伝えよう。|信州戦争資料センター(まだ施設は無い…)
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    kiku72 2024/02/24
  • 戦時下で人を有効に使うには、まず個人登録ー生まれた時からも管理へ|信州戦争資料センター(まだ施設は無い…)

    1937(昭和12)年の日中戦争開始から間もなく、日では「国民精神総動員」というスローガンの下、国民を戦争に協力させるための態勢づくりが進められます。特に、翌1938(昭和13)年、国が必要とするならば、人もモノもなんでも自由に使えるようにするための「国家総動員法案」が成立し4月1日から施行され、太平洋戦争終結まで威力を発揮することになります。 この法律は、議会で議決する法律と同様の効力を持つ「勅令」を、政府がいくらでも出せる内容のもので、次々と新たな勅令が発せられていきます。 そしてそれ以外にも、さまざまな法で「人」を国が管理してすべてを戦争に向けるように仕掛けていきます。 ◇ 職業能力の申告を呼びかけるポスター まず、国家総動員法を受けて1939(昭和14)年1月に公布されたのが「国民職業能力申告令」で、職業能力の登録が図られました。上写真のようなポスターでの呼び掛けは登録開始の告知

    戦時下で人を有効に使うには、まず個人登録ー生まれた時からも管理へ|信州戦争資料センター(まだ施設は無い…)
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    kiku72 2024/02/20
  • 日本では国債購入より貯蓄に熱心、という特性を戦費調達にも活用ー金融機関が国債を買い入れて有利な貯金で資金回収|信州戦争資料センター(まだ施設は無い…)

    では国債購入より貯蓄に熱心、という特性を戦費調達にも活用ー金融機関が国債を買い入れて有利な貯金で資金回収 戦費を調達するために発行される国債ですが、元金の償還が10年以上先になるという性格上、日々のやりくりを常に気にしなければならない庶民にとっては、貯蓄のほうが手軽であったというのは、間違いないところです。 そこで、各金融機関が国債を買い入れ、その分、できるだけ長期の貯蓄商品を発案して貯蓄受入額を伸ばす形で、間接的に国債を消化することも盛んに行われました。政府も貯蓄目標額を掲げて後押しをします。 長野県も日中戦争が始まった翌年の1938(昭和13)年には、80億円という国の貯蓄目標額を掲げ、戦費確保のため「貯蓄報国」「実行は貯蓄組合で」「貯蓄は身のため国のため」などとしたチラシを作って貯蓄を呼びかけています。 貯蓄報国を呼びかける長野県のチラシ 下写真は、1939(昭和14)年度の新た

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    kiku72 2024/02/07
  • 「逃げるな、火を消せ」と、盧溝橋事件から間もない1937年8月、長野県全域の初の防空演習が行われていました。|信州戦争資料センター(まだ施設は無い…)

    「逃げるな、火を消せ」と、盧溝橋事件から間もない1937年8月、長野県全域の初の防空演習が行われていました。 北京郊外の盧溝橋での日中両軍の衝突から交渉がこじれて日中戦争がはじまった1937(昭和12)年7月に先立つ4月5日、「防空法」と呼ばれる法律が公布され、10月1日から施行されます。まるで準備万端、日中戦争に備えていたような絶妙のタイミングです。 防空法は、空襲があったときに民間人もこれに対応するため、組織や装備、備え、行動などを決めたものです。防空壕は敵が通り過ぎるのを待つまでの避難所ではなく、敵の爆弾が落ちたら飛び出して消火に当たれという一時的な待避所といった位置づけで、隣組単位での「民間防空」を強制しました。「逃げるな、火を消せ!」ということです。 ◇ 長野県では、防空法の公布から施行の間に当たる1937(昭和12)年8月に県内全域での防空演習を行いました。事前にチラシを作って

    「逃げるな、火を消せ」と、盧溝橋事件から間もない1937年8月、長野県全域の初の防空演習が行われていました。|信州戦争資料センター(まだ施設は無い…)
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    kiku72 2024/02/03
  • 軍事教練必須の戦時下中等学校の運動会で、呼び物は大模擬戦ー日中戦争下の諏訪中学校は「漢口最後の総攻撃」|信州戦争資料センター(まだ施設は無い…)

    軍事教練必須の戦時下中等学校の運動会で、呼び物は大模擬戦ー日中戦争下の諏訪中学校は「漢口最後の総攻撃」 第一次世界大戦後、近代的な戦争は国を挙げての総力戦となることが自明となりました。少なくとも、戦争はより規模が大きくなっていくとされる中、大日帝国では、潜在的な国防能力増進のため、各種の学校に現役の陸軍将校を配属させ、学生に基礎的な軍事教練を施す体制が1925(大正14)年の勅令「陸軍現役将校学校配属令」によって固まりました。背景には、宇垣軍縮に伴う将校の就職先という観点と、学内での教育の監視という側面もありました。 長野県内でも、各種中等学校や師範学校などで教練が行われています。卒業アルバムには、教練に使う射的用小銃や空砲の軽機関銃などがそろった「銃器室」や、教練中の様子、実際に軍隊の兵営に出向いて軍隊生活を体験する「兵営宿泊」などが載るのが普通でした。表題写真と下写真はいずれも諏訪中

    軍事教練必須の戦時下中等学校の運動会で、呼び物は大模擬戦ー日中戦争下の諏訪中学校は「漢口最後の総攻撃」|信州戦争資料センター(まだ施設は無い…)
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    kiku72 2024/01/30
  • 対米戦争、もしやるならばーと政治家の覚悟を問うた山本五十六の手紙、真意理解せず学校に送った国会議員|信州戦争資料センター(まだ施設は無い…)

    1943(昭和18)年7月、国粋同盟総裁で衆議院議員の笹川良一は、1941(昭和16)年1月24日に自分あてに届いた山五十六連合艦隊司令長官の手紙を複製した掛け軸を作り、全国の学校に贈ったようです。表題写真と下写真は、このうち長野県の赤穂農商学校(現・赤穂高校=駒ケ根市)に届いたものです。 笹川良一が赤穂農商学校に送った掛け軸学校名は学校側で判を押し、保管してあった様子 そえてあった説明書きによりますと、掛け軸の中央の手紙文の複製は、1941(昭和16)年1月6日に山五十六と笹川良一が一緒に南洋を視察した際、「山長官がおられるなら大丈夫」といった意味のことを笹川良一が言ったことに対する山五十六からの返信ということです。 この手紙は前段で謝礼や日々訓練している将兵こそが主役とした意味のことを書き、いわば謙遜しているのですが、重要な点は、下写真に示した手紙の後半の文にあります(適宜漢字

    対米戦争、もしやるならばーと政治家の覚悟を問うた山本五十六の手紙、真意理解せず学校に送った国会議員|信州戦争資料センター(まだ施設は無い…)
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    kiku72 2024/01/30
  • 休みに何か理由を付けないと安心できない、戦前の観光ー現代も同じか|信州戦争資料センター(まだ施設は無い…)

    日中戦争中の1939(昭和14)年3月ごろ発行された、琵琶湖の観光船案内パンフレットを入手しました。 日中戦争下ではありますが、観光案内は健在だった様子 いきなり表紙に「明日の勤労のために」と明記してあります。 働くための休養だと? パンフレットでは、「偉大なる復興国」「盟邦ナチス独逸」と最大の形容詞でドイツの労働と休養の徹底をほめそやしています。 ドイツの休養戦などの紹介 そして日も「働きに徹底し休養に徹底しよう!」として「明日への活動に備えよう」ーと続け、日を代表する琵琶湖で祖国愛を深めてほしいとします。 さらに、五ケ条の御誓文を刻んである「誓の御柱」が聖島、多景島にそびえたっているので「ああ、この御柱こそ新日興隆の基であり、日国民精神の礎である」とし、「日国民はこぞって奉拝せねばならない」と強要し、びわこ休養船こそ銃後国民の最も良き心身の鍛錬道場である」と締めくくります。休

    休みに何か理由を付けないと安心できない、戦前の観光ー現代も同じか|信州戦争資料センター(まだ施設は無い…)
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    kiku72 2024/01/04