本書を書き出してから、自分は寝食を忘れて兼行し、三カ月にして脱稿した。しかしこの思想をまとめる為には、それよりもずっと永い間、殆(ほとん)ど約十年間を要した。健脳な読者の中には、ずっと昔、自分と室生犀星(むろうさいせい)等が結束した詩の雑誌「感情」の予告に於(おい)て、本書の近刊広告が出ていたことを知ってるだろう。実にその頃からして、自分はこの本を書き出したのだ。しかも中途にして思考が蹉跌(さてつ)し、前に進むことができなくなった。なぜならそこには、どうしても認識の解明し得ない、困難の岩が出て来たから。 いかに永い間、自分はこの思考を持てあまし、荷物の重圧に苦しんでいたことだろう。考えれば考える程、書けば書くほど、後から後からと厄介な問題が起ってきた。折角一つの岩を切りぬいても、すぐまた次に、別の新しい岩が出て来て、思考の前進を障害した。すくなくとも過去に於て、自分は二千枚近くの原稿を書き
恋をしたのだ。そんなことは、全くはじめてであった。それより以前には、私の左の横顔だけを見せつけ、私のおとこを売ろうとあせり、相手が一分間でもためらったが最後、たちまち私はきりきり舞いをはじめて、疾風のごとく逃げ失せる。けれども私は、そのころすべてにだらしなくなっていて、ほとんど私の身にくっついてしまったかのようにも思われていたその賢明な、怪我の少い身構えの法をさえ持ち堪(こた)えることができず、謂(い)わば手放しで、節度のない恋をした。好きなのだから仕様がないという嗄(しわが)れた呟(つぶや)きが、私の思想の全部であった。二十五歳。私はいま生れた。生きている。生き、切る。私はほんとうだ。好きなのだから仕様がない。しかしながら私は、はじめから歓迎されなかったようである。無理心中という古くさい概念を、そろそろとからだで了解しかけて来た矢先、私は手ひどくはねつけられ、そうしてそれっきりであった。
わが愛する者よ請(こ)う急ぎはしれ 香(かぐ)わしき山々の上にありて(のろ)の ごとく小鹿のごとくあれ 私は街に出て花を買うと、妻の墓を訪れようと思った。ポケットには仏壇からとり出した線香が一束あった。八月十五日は妻にとって初盆(にいぼん)にあたるのだが、それまでこのふるさとの街が無事かどうかは疑わしかった。恰度(ちょうど)、休電日ではあったが、朝から花をもって街を歩いている男は、私のほかに見あたらなかった。その花は何という名称なのか知らないが、黄色の小瓣の可憐(かれん)な野趣を帯び、いかにも夏の花らしかった。 炎天に曝(さら)されている墓石に水を打ち、その花を二つに分けて左右の花たてに差すと、墓のおもてが何となく清々(すがすが)しくなったようで、私はしばらく花と石に視入(みい)った。この墓の下には妻ばかりか、父母の骨も納っているのだった。持って来た線香にマッチをつけ、黙礼を済ますと私はか
きょうの日記は特別に、ていねいに書いて置きましょう。昭和十六年の十二月八日には日本のまずしい家庭の主婦は、どんな一日を送ったか、ちょっと書いて置きましょう。もう百年ほど経(た)って日本が紀元二千七百年の美しいお祝いをしている頃に、私の此(こ)の日記帳が、どこかの土蔵の隅から発見せられて、百年前の大事な日に、わが日本の主婦が、こんな生活をしていたという事がわかったら、すこしは歴史の参考になるかも知れない。だから文章はたいへん下手(へた)でも、嘘だけは書かないように気を附ける事だ。なにせ紀元二千七百年を考慮にいれて書かなければならぬのだから、たいへんだ。でも、あんまり固くならない事にしよう。主人の批評に依(よ)れば、私の手紙やら日記やらの文章は、ただ真面目(まじめ)なばかりで、そうして感覚はひどく鈍いそうだ。センチメントというものが、まるで無いので、文章がちっとも美しくないそうだ。本当に私は、
萩原朔太郎 散文詩について 序に代へて 散文詩とは何だらうか。西洋近代に於けるその文學の創見者は、普通にボードレエルだと言はれてゐるが、彼によれば、一定の韻律法則を無視し、自由の散文形式で書きながら、しかも全體に音樂的節奏が高く、且つ藝術美の香氣が高い文章を、散文詩と言ふことになるのである。そこでこの觀念からすると、今日我が國で普通に自由詩と呼んでる文學中での、特に秀れてやや上乘のもの――不出來のものは純粹の散文で、節奏もなければ藝術美もない――は、西洋詩家の所謂散文詩に該當するわけである。しかし普通に散文詩と呼んでるものは、さうした文學の形態以外に、どこか文學の内容上でも、普通の詩と異なる點があるやうに思はれる。ツルゲネフの散文詩でも、ボードレエルのそれでも、すべて散文詩と呼ばれるものは、一般に他の純正詩(抒情詩など)に比較して、内容上に觀念的、思想的の要素が多く、イマヂスチツクであるよ
萩原朔太郎 老いて生きるということは醜いことだ。自分は少年の時、二十七、八歳まで生きていて、三十歳になったら死のうと思った。だがいよいよ三十歳になったら、せめて四十歳までは生きたいと思った。それが既に四十歳を過ぎた今となっても、いまだ死なずにいる自分を見ると、我ながら浅ましい思いがすると、堀口大学(ほりぐちだいがく)君がその随筆集『季節と詩心』の中で書いているが、僕も全く同じことを考えながら、今日の日まで生き延びて来た。三十歳になった時に、僕はこれでもう青春の日が終った思い、取り返しのつかない人生を浪費したという悔恨から、泣いても泣ききれない断腸悲嘆の思いをしたが、それでもさすがに、自殺するほどの気は起らなかった。その時は四十歳まで生きていて、中年者と呼ばれるような年になったら、潔よく自決してしまおうと思った。それが既に四十歳を過ぎ、今では五十歳の坂を越えた老年になってるのである。五十歳な
毎度、酒のお話で申訳ないが、今思い出しても腹の皮がピクピクして来る左党の傑作として記録して置く必要があると思う。 九州福岡の民政系新聞、九州日報社が政友会万能時代で経営難に陥っていた或る夏の最中の話……玄洋社張りの酒豪や仙骨がズラリと揃っている同社の編集部員一同、月給がキチンキチンと貰えないので酒が飲めない。皆、仕事をする元気もなく机の周囲(まわり)に青褪めた豪傑面を陳列して、アフリアフリと死にかかった川魚みたいな欠伸をリレーしいしい涙ぐんでいる光景は、さながらに飢饉年の村会をそのままである。どうかして存分に美味(うま)い酒を飲む知恵はないかと言うので、出る話はその事バッカリ。そのうちに窮すれば通ずるとでも言うものか、一等呑助の警察廻り君が名案を出した。 今でも福岡に支社を持っている××麦酒(ビール)会社は当時、九州でも一流の庭球の大選手を網羅していた。九州の実業庭球界でも××麦酒の向う処
公開中の作品 怪奇小説の執筆についての覚書 (新字新仮名、作品ID:57859) →The Creative CAT (翻訳者) 狂気の山脈にて (新字新仮名、作品ID:57858) →The Creative CAT (翻訳者) 時間からの影 (新字新仮名、作品ID:57342) →The Creative CAT (翻訳者) ダゴン (新字新仮名、作品ID:57443) →大堀 竜太郎(翻訳者) 断章 アザトース (新字新仮名、作品ID:62061) →Morishous T.H.E creative (翻訳者) チャールズ・デクスター・ウォードの事件 (新字新仮名、作品ID:57254) →The Creative CAT (翻訳者) 天涯から来たる色 (新字新仮名、作品ID:58044) →枯葉 (翻訳者) ニャルラトホテプ
むかし、むかし、大むかし、ある深い山の奥に大きい桃(もも)の木が一本あった。大きいとだけではいい足りないかも知れない。この桃の枝は雲の上にひろがり、この桃の根は大地(だいち)の底の黄泉(よみ)の国にさえ及んでいた。何でも天地開闢(かいびゃく)の頃(ころ)おい、伊弉諾(いざなぎ)の尊(みこと)は黄最津平阪(よもつひらさか)に八(やっ)つの雷(いかずち)を却(しりぞ)けるため、桃の実(み)を礫(つぶて)に打ったという、――その神代(かみよ)の桃の実はこの木の枝になっていたのである。 この木は世界の夜明以来、一万年に一度花を開き、一万年に一度実をつけていた。花は真紅(しんく)の衣蓋(きぬがさ)に黄金(おうごん)の流蘇(ふさ)を垂らしたようである。実は――実もまた大きいのはいうを待たない。が、それよりも不思議なのはその実は核(さね)のあるところに美しい赤児(あかご)を一人ずつ、おのずから孕(はら)
最近、自由映画人連盟の人たちが映画界の戦争責任者を指摘し、その追放を主張しており、主唱者の中には私の名前もまじつているということを聞いた。それがいつどのような形で発表されたのか、くわしいことはまだ聞いていないが、それを見た人たちが私のところに来て、あれはほんとうに君の意見かときくようになつた。 そこでこの機会に、この問題に対する私のほんとうの意見を述べて立場を明らかにしておきたいと思うのであるが、実のところ、私にとつて、近ごろこの問題ほどわかりにくい問題はない。考えれば考えるほどわからなくなる。そこで、わからないというのはどうわからないのか、それを述べて意見のかわりにしたいと思う。 さて、多くの人が、今度の戦争でだまされていたという。みながみな口を揃えてだまされていたという。私の知つている範囲ではおれがだましたのだといつた人間はまだ一人もいない。ここらあたりから、もうぼつぼつわからなくなつ
カテゴリー:本,電子書籍,青空文庫 | 投稿者:OKUBO YuAuthor: OKUBO Yu About: 青空文庫には高校生のとき参加して、今や翻訳家・翻訳研究者。しばらく青空文庫をお休みするつもりだったのにそうも言ってられなくなってしまっててんてこまいの日々。ここでは電子本のことをしゃべったり、物語を書き散らしたり、はたまた青空文庫批判をしてみたり、自由にやっていくつもり。See Authors Posts (55) | 投稿日:2014年5月22日 | 本が青空の棚から消えてなくなる、という事態は、単に図書が閉架になることでも、禁帯出になることでもない。 著作権法上、データベース上にアップロードしてアクセスだけ禁じる、という形で残すこともできない。また青空であることは館内がないということだから、まさに本を棚から消すことしかできないわけだ。 それは青空の棚の実務に携わる者からすれば
みなさん、あたらしい憲法ができました。そうして昭和二十二年五月三日から、私たち日本國民は、この憲法を守ってゆくことになりました。このあたらしい憲法をこしらえるために、たくさんの人々が、たいへん苦心をなさいました。ところでみなさんは、憲法というものはどんなものかごぞんじですか。じぶんの身にかゝわりのないことのようにおもっている人はないでしょうか。もしそうならば、それは大きなまちがいです。 國の仕事は、一日も休むことはできません。また、國を治めてゆく仕事のやりかたは、はっきりときめておかなければなりません。そのためには、いろ/\規則がいるのです。この規則はたくさんありますが、そのうちで、いちばん大事な規則が憲法です。 國をどういうふうに治め、國の仕事をどういうふうにやってゆくかということをきめた、いちばん根本になっている規則が憲法です。もしみなさんの家の柱がなくなったとしたらどうでしょう。家は
今年も青空文庫の誕生日である7月7日がやってきました。 今日までその活動を27年間地道に続けて来られたのは、実作業で支えてくださった多くのボランティアのみなさんと、収録された作品をさまざまに楽しみ、その可能性を広げてきてくださったユーザのみなさんのおかげです。 あらためて御礼申し上げます。ありがとうございます。 さて、2023年1月1日から継続して進めて参りました「式年遷宮」ですが、ようやく新規データベースサーバの引っ越しの目処がつきました。 元旦でお知らせしていた本日7月7日からの本運用には間に合いませんでしたが、この8月から実データを構築中の新データベースに移し、そして運用を試験して大きな問題がなければ、この秋には引っ越しを完遂したいと考えています。 (もちろん試用しながら都度バグフィックスを行う必要が生じますので、夏のあいだにタイミングを慎重に見極めなければなりません) ともあれ、お
私は知己を百代の後に待たうとしてゐるものではない。 公衆の批判は、常に正鵠を失しやすいものである。現在の公衆は元より云ふを待たない。歴史は既にペリクレス時代のアゼンスの市民や文芸復興期のフロレンスの市民でさへ、如何に理想の公衆とは縁が遠かつたかを教へてゐる。既に今日及び昨日の公衆にして斯(か)くの如くんば、明日の公衆の批判と雖も、亦推して知るべきものがありはしないだらうか。彼等が百代の後よく砂と金とを弁じ得るかどうか、私は遺憾ながら疑ひなきを得ないのである。 よし又理想的な公衆があり得るにした所で、果して絶対美なるものが芸術の世界にあり得るであらうか。今日の私の眼は、唯今日の私の眼であつて、決して明日の私の眼ではない。と同時に又私の眼が、結局日本人の眼であつて、西洋人の眼でない事も確である。それならどうして私に、時と処とを超越した美の存在などが信じられやう。成程ダンテの地獄の火は、今も猶東
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