野球 高校野球 「練習1日50分、月曜日は完休、部員は全員元投手」…で甲子園って行ける? 人気漫画家が取材で感じた「高校野球、練習“量”と“質”どっちが大事か」問題
野球 高校野球 「練習1日50分、月曜日は完休、部員は全員元投手」…で甲子園って行ける? 人気漫画家が取材で感じた「高校野球、練習“量”と“質”どっちが大事か」問題
プロ野球出身者として初めて“公認会計士”に転身した奥村武博(43歳)は、引退後しばらく「阪神タイガース」の選手だったことを隠したという。どん底にいたバイト生活、葛藤の末にようやくたどり着いた第二の人生。自らを見つめ直すきっかけを与えくれたチームメイトや恩師の存在を振り返る。【全2回の1回目/#2へ】 東京・日本橋は、弁護士や税理士、会計士といったいわゆる“士業“が密集するエリアだ。その中心地にあるビルの一室を訪れると、そこには名だたるオリンピアンやW杯出場選手、MLBのワールドシリーズ制覇のユニホームが華々しく飾られていた。 元プロ野球選手としては初の公認会計士である奥村武博(43歳)が所属する事務所である。現在は一流アスリートたちをクライアントに持ち、公認会計士としてアスリートの確定申告やスポーツクラブの財政面を支える傍ら、社団法人としてセカンドキャリアの支援を行う代表も兼任している。
日本ダービー2着、宝塚記念2着、ジャパンカップ2着……GI勝利を稀代の名馬に阻まれ続けた“シルバーコレクター”は、当時同じく惜敗が続いていたJRA重賞未勝利のC・ルメールとコンビを組み、有馬記念の大本命にして無敗の三冠馬ディープインパクトに挑んだ――。 Number917・918号掲載『<番狂わせの真実>ハーツクライvs.ディープインパクト「日本近代競馬の結晶を倒せ」』(2016年12月15日発売)を特別に無料公開します。※肩書は当時のまま、取材は2016年に行いました。 大きなレースでは2着ばかり 2005年12月25日、クリスマス当日に行われた第50回有馬記念は、無傷のグランプリ制覇に挑むディープインパクトが断然の主役と目されたレースである。しかし爆発的な末脚を武器に連勝街道を歩んできた三冠馬の前には、意表を突く先行策に打って出たハーツクライが立ちはだかった。 ディープインパクトに初め
全米でトルネード旋風を巻き起こし、日本人メジャーリーガーのパイオニアとなった野茂英雄。その実績から考えれば「引退劇」は超異例だったといえる。特別な引退試合も、会見も行われず、ひっそりと去ったからだ。一体なぜ――。野茂英雄の現役晩年を追った記者が綴る「本当のノモ論」。〈全2回の#1/#2へ〉 ◆◆◆ アメリカで旋風…NOMOの衝撃 野茂英雄26歳はアメリカで野球人気復活の立役者になった。 選手が前代未聞の長期ストライキを起こした直後の米球界で、トルネード投法から次から次へと三振を奪う豪快な投球でファンを魅了した。1年目の1995年に新人王のタイトルを獲得。サイ・ヤング賞の投票では1年目に4位、翌96年にも4位の得票と先発投手としてたちまちメジャートップクラスに躍り出た。96年9月17日には打者有利で知られるコロラド州デンバーのクアーズフィールドで1度目のノーヒットノーランを達成。レッドソック
海外FA権を行使してソフトバンクに移籍した近藤健介の人的補償として、日本ハムが指名したのは“未完の大器”田中正義だった。 1月11日、ソフトバンクが正式に球団発表を行い、「ホークスの皆さんには、なかなか結果が出ない僕をこれまで支えて頂き、本当に感謝しています」という田中のコメントも合わせて紹介された。 同発表を待たずに日本ハムの新庄剛志監督が「(いい選手が)俺の中では4人くらいいました。めっちゃ迷いましたよ。ビデオすり切れたもん」「大学時代から見ていたから、大学時代のように復活できるかどうか」「最初の文字が“タ”かな?」(いずれも1月10日付、スポーツニッポンより)などと語ったことで、田中が日本ハムへ移籍することは発表以前から確実視されていた。 現行のFA制度において、ソフトバンクが作成した28名のプロテクトのリストが外部に漏れることは原則あり得ない。 とはいえ“球界人事”は常にファンの興
田原成貴氏は、騎手時代、1983年にリードホーユー、1993年にトウカイテイオー、そして1995年にマヤノトップガンで有馬記念を制している。 リードホーユーは当時3歳。前走の菊花賞では兄弟子の田島良保騎手(当時)が乗ってミスターシービーの4着。田原氏にとって、この有馬記念はテン乗りだった。8枠15番という外枠からじわっと前に行って2番手で折り合い、勝負所で早めに先頭に立って押し切った。 「春まで乗っていた河内(洋)さんが乗る予定だったんだけど、落馬で負傷したので、代打で乗ることになったんです。切れる脚はなかったけど、迫力のある走りをする馬で、冬の中山芝2500mというタフな舞台でこそ持ち味の生きるタイプだった。早めに先頭に立ったので横綱相撲に見えたかもしれないけど、あの馬の粘っこい脚を生かす競馬をしたらああなった、ということなんです」 「おれの乗った馬で、トウカイテイオーが一番強かった」
「○○は追える」「○○は追えない」――競馬好きが騎手を評価する際にしばしば使われる、この「追える」の意味を、果たして私たちは正確に理解しているだろうか。「本当に上手い騎手」とは、いったいどんな騎手なのか。現役時代、印象的な名騎乗の数々を披露してきた田原成貴氏が、自身の騎乗論と理想のジョッキー像を語った。(全3回の3回目/#1、#2へ) 「騎乗論に関しては、今は俯瞰して見ているから、現役時代は言葉にできなかったことを表現できるようになったり、乗らなくなって逆に気がつくことがあったりもしますよ」 そう話す田原成貴氏が騎手としてデビューしたのは、1978年3月のことだった。所属したのは栗東の谷八郎厩舎。初騎乗・初勝利で華々しいスタートを切った。 2年目の1979年に63勝を挙げて関西リーディングに。リードホーユーで八大競走初制覇を果たした1983年には104勝をマークし、初の全国リーディングを獲
Jリーグ通算227試合出場を果たした“ミカ”ことミハエル・ミキッチ氏。スロベニアのマリボルでアシスタントコーチを務める同氏は、現在も熱心にJリーグをチェックし、日本で監督業をスタートすることを夢見ている。そんなクロアチア随一の“日本通”が絶賛する選手とは? インタビュー後編では、現日本代表の獲得をディナモ・ザグレブに推薦したエピソードや、カタールW杯のラウンド16で母国クロアチアと対戦する可能性について語ってもらった。(全2回の2回目/前編へ) 「サガン鳥栖時代の鎌田大地もディナモに推薦したよ」 ――第3戦のスペイン戦で日本はどう戦うべきですか? うむ……。スペインは非常に難しい相手だね(苦笑)。ドイツ対スペインの試合を見たけど、彼らはとてもうまくボールを保持し、とても見事なコンビネーションを繰り出して、とても簡単にボールを前へと運ぶ。何かしらの弱点を見つけるのは不可能だ。私自身、弱点を見
中澤の代表復帰は、監督を務めるイビチャ・オシムたっての希望だった。通訳を務めた千田善が指揮官の様子を振り返る。 「06年10月か11月のスタッフミーティングで、オシムさんが『中澤はもう代表に呼んではいけないのか』と言って。あるスタッフが『いけないことはないんですけど、本人は代表は引退と言っているようです』と答えると、オシムさんが『そうか、もったいないな』と。それで『じゃあ、私が話を聞いてきますよ。代表引退なんて100年早いと伝えてきましょうか』という話になったんです。年が明けて、『呼んだら来てくれるか』と再度打診したら、『もう喜んで』といい返事がもらえて」 W杯が終わって半年が経ち、中澤自身のコンディションとメンタルも回復したのだろう。こうして中澤は再びW杯を目指すことになる。 「なんだ、あの態度は」別人に変貌した中澤 1999年に代表初キャップを刻み、06年ドイツW杯のピッチに立ったとは
空白の9カ月「嫌われているのかな」 初めて日本代表に選出されたのは、プロ2年目となる1998年2月のオーストラリア合宿だった。フランスW杯本大会を前に、新戦力の発掘を目論む岡田武史監督から声がかかったのだ。 フィリップ・トルシエ監督時代に日本代表に定着し、続くジーコ監督からは10番を託され、2006年ドイツW杯に出場。自身2度目のW杯となった10年南アフリカ大会を最後に、青のユニフォームを脱いだ。 こうして日本代表の成長期を主軸として駆け抜けた俊輔には、一時的に代表メンバーから外れた時期がある。 空白の期間とも言うべき9カ月――。 ドイツW杯グループステージ最終戦のブラジル戦から、07年3月のペルーとの親善試合までの期間である。 俊輔だけではない。ドイツW杯終了後に日本代表監督に就任したイビチャ・オシムはその間、欧州組を一切招集しなかった。 「なんで呼ばれないんだろうな、っていうことは考え
神宮球場の一塁側・内野席で日本シリーズ第2戦を見つめていた相原正美(元岩出山野球部監督)は、教え子である今野龍太の出番を待っていた。「8回に登板しそうだ」。席がちょうどブルペンの前だったため、慌ただしく準備するヤクルト中継ぎ陣の様子がよく見えるのだ。 恩師を招待した日本シリーズで… 4番手でマウンドに向かう今野に心の中でエールを送ると、祈るような気持ちで戦況を見守った。3点ビハインドの8回表から9回表。今野は回またぎで打者6人を無安打無失点無四死球と完ぺきに抑えて仕事を果たした。この流れに乗ってか、ヤクルトは9回裏の土壇場で内山壮真に同点3ランが出て、試合は延長12回3-3でゲームセット。5回から投手7人を繋いだ継投策。相原監督はその一翼を担った今野に感動していた。今野が相原のためにと用意してくれた「特等席」で。 「神宮で本人を見たのは今日が2回目。今野の好投を見られたのも良かったですが、
昨年10月27日、山本高広さんは自身のインスタグラムにこう書き込んだ。 「室井さん!!どうして芸人辞めなきゃいけないんだ!」 それまで所属していたワタナベエンターテインメントを退所し、山寺宏一さんら多くの人気声優が所属するアクロスエンタテインメントに移籍したことで、「モノマネ芸人を辞めて、声優に転身する」と報じられたことへの反論メッセージだった。 現在はモノマネ芸人と声優業、どちらにも力を注いでいる。なぜ、織田裕二モノマネで一世を風靡した芸人が“二刀流”にチャレンジするようになったのか。(全3回の3回目/#1、#2へ) 卒業後、全く声がかからずそのままフリーターに ――近年は声優としても活躍し、昨年にはアクロスエンタテインメントへ移籍しました。声優の仕事を増やそうと思ったきっかけは? 山本 2009年にゲスト声優として出演させてもらった映画『クレヨンしんちゃん』の仕事が楽しくて。キャラクタ
今年のパ・リーグは、史上空前の「大混戦」になっている。9月5日月曜日の時点で、首位・ソフトバンク、2位・西武、3位・オリックスがゲーム差「0」、勝率2厘差の中に上位3チームがひしめく状況だった。 熱戦が続いた“首位攻防戦” 9月2日~4日には、福岡PayPayドームでソフトバンク対西武の首位攻防3連戦が行われた。 初戦はソフトバンクが5回裏、今宮健太が4号ソロを放って先制。チーム31イニングぶりの得点で勢いを取り戻すと、一昨年から6連敗を喫していた西武先発の松本航を攻略して4-0と完勝した。2戦目の9月3日は「ホームラン記念日」(1977年の同日、王貞治が通算ホームラン数・世界新記録となる756本目を放った日)らしく一発の応酬だ。先行したのは西武で初回に森友哉が7号ソロ。だが、ソフトバンクが2回裏に今宮の2戦連発5号ソロですぐさま追いつく。さらに3回裏に飛び出したデスパイネの8号2ランが決
コートジボワール、日本に続き、モロッコでもW杯本大会前に代表監督の職を追われたヴァイッド・ハリルホジッチ。異なる4カ国でW杯予選を突破しながら、そのうちの3カ国で大会前に解任されるという事態は異例中の異例だ。いまだ傷心の彼が、旧知のクロアチア人記者に語った「日本とモロッコの違い」とは。母国ボスニア・ヘルツェゴビナでも激しい毀誉褒貶に晒される同監督の素顔と、今後の可能性を探った。(全2回の2回目/前編へ) ◆◆◆ 一切の妥協を許さない強情さが再び仇になったわけだが、今回はハリルホジッチにも思い当たる節があるようだ。クロアチアのサッカーメディア『Germanijak』のインタビューでは少しだけ弱音を吐いている。 「自分にも明らかに罪があることは認識していて、責任の一部は背負うつもりだ。三度も解任が起きたのならば、自問自答を繰り返さなければならない。しかし、どうすればいいのかね。ずっとこのように
8月15日にモロッコの首都ラバトからパリに向かう直行便で目撃されたという情報以外、まったく動向がつかめなかったハリルホジッチだが、解任発表から8日後、旧知のクロアチア人記者に初めて重たい口を開いた。4年前の日本代表監督解任の際も酷く落ち込み、取材電話に初めて応対したのが発表4日後だったことを振り返れば、改めてショックの大きさが窺える。 サッカー人生の総決算になるはずだったカタールW杯 フランス語圏で監督キャリアを築き上げたボスニア・ヘルツェゴビナ出身のハリルホジッチだが、ディナモ・ザグレブを指揮した頃に深く接してきたクロアチア記者陣に彼はもっぱら心を開く。このほどクロアチアのサッカーメディア『Germanijak』に掲載された独占インタビューで、彼はカタールW杯をサッカー人生の総決算に考えていたことを初めて明かした。 「私がW杯で指揮したのはたった一度、アルジェリア代表だけ。ブラジル大会の
筑波大MF川勝翔太(3年)。医学群に在籍する選手としてサッカー部史上初となるトップチームの公式戦出場を果たした 関東の強豪大学が総理大臣杯の出場権を懸けて戦う「アミノバイタルカップ」。その1回戦、作新学院大学に4−2と大きくリードした筑波大学は、試合終盤の87分にある一人の選手を投入した。 背番号は29。メンバー表を見ると、MF川勝翔太(3年)とある。プロフィールによれば「医学群医学類」に在籍する選手のようだ。 筑波大蹴球部はかつて中山雅史、井原正巳ら歴代のW杯日本代表を輩出し、最近では大ブレイク中の三笘薫も在籍した大学サッカー界の超名門。現在、チームには医学群の選手が14名在籍しているが(2年生/1名、3年生/3名、4年生/4名、5年生/4名、6年生/2名)、トップチームでプレーするのは川勝ただ一人。過去にもトップチームに帯同した例はあったが、長い歴史を誇るに筑波大においても、医学群の選
J2アルビレックス新潟MF本間至恩(21歳)が欧州クラブへ完全移籍することついて、クラブ間の基本合意したことを発表した。 このニュースは新潟のみならず、多くのサッカーファンに大きな衝撃を与えた。 その理由の1つに、本間はまだ一度もJ1でのプレー経験がないことにある。日本代表はおろか、昨年の東京五輪代表の選出歴がない21歳の若手選手だけに、マーケットが拡大していることを改めて実感する移籍だった。 さらに驚きなのは「完全移籍」という点だ。 移籍金は推定120万ユーロ(約1億6500万円)と報道されている。これまで海外移籍を果たした若手選手の多くが買取オプション付きのレンタル移籍で、いわゆる“様子見”のニュアンスを含んだものだった。契約年数が切れるタイミングを狙った「ゼロ円移籍」のケースも少なくなく、今回は極めて珍しいパターンだといえる。 移籍先とされるクラブ・ブルージュはベルギーリーグで現在3
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く