非常に極端な話をすれば、ゲームにおけるキャラクターとは、ブラックコーヒーに入れる砂糖のようなものである。 砂糖を入れることによって確実にコーヒーという飲み物の間口は広くなるし、そこから別の可能性が開けることだってある、だが、どこかで純粋なコーヒーに対してノイズとして機能してしまう。 ゲームは動詞によって出来ていると言ったのは田尻智だが、この言葉は、同じ動詞さえ行使できるのであらば、ゲームキャラクターはどのようなものでも入れ替え可能であるということも示している。スーパーマリオブラザーズにおいてマリオとルイージがまったく同じ軌跡でジャンプすることが可能なことからもそれは明らかだ。 ゲームキャラクターはゲームにとってなんのために存在するのか?どこまでいってもゲームにとってキャラクターとは客寄せパンダの域を出ないのだろうか? 僕がゴーストトリックというゲームを評価するのは、そのような問いに一つの解