アブダビ滞在9日目。FIFAクラブワールドカップ(W杯)2009は、16日も前日に続いて準決勝が、ここザイード・スポーツシティで行われる。この日のカードは、北中米カリブ王者のアトランテと、欧州王者FCバルセロナの顔合わせ――というよりも、大会の真打であるバルセロナの登場、といったほうがすっきりだろう。 準決勝に先立ち、17時からはオセアニア王者オークランド・シティとアフリカ王者マゼンベによる5位決定戦が同会場で行われた。バルセロナの前座試合に組み込むというアイデア自体は決して悪くはない。が、その開催日時については、いささかの疑問符が付く。何と、水曜日の17時キックオフ。いくら当地の人々が暇そうにしているとはいえ(この国では面倒な労働のほとんどは出稼ぎ外国人がやってくれる)、平日の夕方からサッカー観戦する人は極めてまれである。実際、試合直前になっても、スタンドのほとんどが空席のまま。その後
12月9日、ストーブリーグに衝撃が走った。阪神・赤星憲広の電撃引退である。 正直、僕はいまだにこの事実を受け入れることができない。中心性脊髄(せきずい)損傷という生命にかかわる大怪我により、33歳の若さで甲子園を去ることになったレッドスター。報道によると、赤星は阪神球団に対し「1年間、様子を見させてください」と懇願したものの、球団は苦渋の思いで引退を勧告したという。 最初その話を聞いたとき、球団はちょっと冷たいんじゃないかと思ってしまった。阪神の屋台骨を10年近くも支えた功労者である。同僚の下柳剛も自身のブログに「少しの猶予もなかったのか」と書いていたが、僕も同感だ。たとえ1年間リハビリに専念したとしても、赤星には高い年俸を払うだけの価値があると思うのだ。 引退を告白した12月9日の赤星ブログは衝撃的だった。 「今の現状でプロスポーツに復帰するのは無理、というより次やってしまったら
2005年から続く最終節までもつれたJ1優勝争いを制した鹿島アントラーズが史上初の3連覇を達成した。 最終盤の第33節に05年チャンピオンであるガンバ大阪、第34節に06年チャンピオンの浦和レッズから勝利しての偉業達成は、単に勝ち点を一番多く獲得したチームというだけでなく、誰もが納得する形でのタイトル獲得と言えるだろう。勢いで獲得した07年や安定感のあった08年とはまた違い、3連覇の重みをあらためて強く感じさせる優勝だった。 連覇したチームの定めとはいえ、今季の鹿島に対するマークはとても厳しいものだった。前半戦こそ、昨季からほとんどメンバー変更がない強みと、けがで戦列を離れていた小笠原満男が序盤に復帰したことで快調に飛ばしたものの、夏場から後半戦に入ると急激に失速。どの対戦チームも試合に挑むモチベーションは高く、さらにサイドのスペースで起点を作ろうとする鹿島に対し、サイドバックの攻め上
2人が退場した柏レイソルに追い上げられ、苦しみながら勝利したにもかかわらず、喜びの輪が広がることはなかった。勝利チームが落ち込み、涙を流す場面に居合わせるのは、浦和レッズが降格した1999年11月のサンフレッチェ広島戦以来かもしれない。氷点下どころか、絶対零度と形容したくなるような冷たさがピッチ上に漂っていた。タイトル奪取を目標に掲げた川崎フロンターレの34試合の戦いは、2年連続での準優勝という結末に終わった。 初戴冠を目標に掲げてから3年目となる今季は、AFCチャンピオンズリーグ(ACL)の出場権を手にしていたこともあり、過密日程との戦いでもあった。これに対応するために、普通であれば登録選手を増やすのだろうが、川崎はそうはしなかった。 初めてACLに参戦した2007年は32選手を保有。それに対し今季は28人でチームを編成した。シーズン中に同志社大学在学中の楠神順平を特別指定選手として
サッカーの2010年ワールドカップ(W杯)・南アフリカ大会の組み合わせ抽選会が4日(現地時間)、南アフリカのケープタウンで行われ、4大会連続出場の日本はオランダ、カメルーン、デンマークと同じグループEに入ることになった。 日本は6月14日、カメルーンとの初戦に臨み、19日にオランダ、24日にデンマークと対戦する。上位2チームが決勝トーナメントに進む。 これを受けて、元日本代表監督のイビチャ・オシム氏が組み合わせ結果についての印象を語った。 ■日本サッカーが進むべき道を示す大会になるかもしれない ――組み合わせ結果を受けての印象は? 3戦全勝を希望しているが、確信することは難しい。楽ではないグループに入ったと率直に感じている。(日本代表は)自分自身をいかにだまして、勝つんだというムードを作らなければならない。ある意味、今回の対戦国に勝利しただけでもサプライズと言えるだろう。 オランダ
試合当日。ポート・エリザベスは時ならぬ暴風にさらされていた。ホテルを出る前、買い物ついでに散策をしてみたのだが、さながら台風上陸前のような強風で、大げさでなく歩くのにも難儀するほどであった。空は抜けるような晴天なので、雨の心配はなさそうだが、それにしてもインド洋から吹き付ける風の強さは尋常ではない。ゲームにはどれだけ影響するのだろうか。街中では早くも、黄色いレプリカを見にまとったバファナ・バファナ(南アフリカ代表の愛称)のサポーターたちが、はちきれんばかりの笑顔を振りまきながら闊歩(かっぽ)していた。 今回の南アフリカ対日本の親善試合は、われわれ日本から来たジャーナリストにとっても、7カ月後に迫ったワールドカップ(W杯)本大会に向けたシミュレーションの意味合いを持っている。移動、宿泊、セキュリティー、そしてスタジアムにおける運営、などなど。このうち運営については、いかにも「南アらしさ」と
先にカフェに着いていたのは、マリナーズの左腕投手、ライアン・ローランド-スミス。待ち合わせは午後2時15分だったが、手元の携帯電話の受信記録を見ると、午後2時2分には、“I am here(もう着いたよ)”とある。 メール受信のおよそ5分後、車を止めて慌ててカフェに飛び込めば、彼はすでにコーヒーをすすりながら、店内中央の席から手を振った。 持って来た新聞――城島健司の退団を伝える『シアトル・タイムズ』紙のスポーツセクションを手渡せば、筆者がカフェラテを買っている間、彼は熱心に読んでいた。 やがて、テーブルに戻り、向かいの席に腰掛けながら「もちろん知っていたよね? 今日はそのことを聞きたくて」と切り出せば、「先週末から、何か動きがあると感じていた」とローランド-スミスは軽くあごを引いてうなずく。 ここ3年で、平凡な中継ぎ投手から来季は先発の2番手、3番手を期待されるまでの投手に成長し
日本代表がスコットランド代表と対戦するのは、今回が3回目である。 最初の対戦は今から14年前の1995年5月21日、広島ビッグアーチで行われたキリンカップで、結果は0−0の引き分け。当時のスコットランドのメンバーには、ジム・レイトン、コリン・カルダーウッド、ポール・ランバート、ジョン・スペンサーなど、その後もユーロ(欧州選手権)96やワールドカップ(W杯)フランス大会にも出場したメンバーが多数含まれており、当時としてはベストに近いメンバーだったことが分かる。 2度目の対戦は、それから11年後の06年5月13日に行われたキリンカップ(W杯ドイツ大会の壮行試合でもあった)。やはり0−0の引き分けに終わったこの試合でも、ダレン・フレッチャーをはじめ、ガリー・コルドウェル、ジェームズ・マクファデンといった有名どころが顔をそろえている。当時のスコットランドが、すでにW杯出場権を逃しており、ユーロ
後半に3点を奪われオランダに完敗。日本のハイプレスは70分前後が限界だった【Photo:YUTAKA/アフロスポーツ】 試合開始前の2時間半前、午前11時30分にオランダ戦が行われるアルケ・スタディオンに到着。すでに会場の周りはオレンジ色のレプリカユニホームを着たオランダサポーターが続々と集結していた。さっそく手当たり次第に、今日の予想スコアを聞いてみる。10人に聞いた結果は「3−0」と「2−1」が3人ずつ、あとは「4−0」「3−1」「2−0」「1−0」が1人ずつ。もちろん全員が自国の勝利を予想していた。オランダの得点が意外と少ないことについては「やっぱりフレンドリーマッチだから」。では日本の得点者は誰かと聞くと全員が「本田(圭佑)」と答えていた。 「間違いなくウチが勝つけど、日本が点を決めるとしたら本田だろうね」というのが、どうやらこの国における模範解答らしい。もっとも、得点者として本
レイソエスの攻撃の要ウェスレイ(右)。その活躍に各クラブも注目している(写真は05−06シーズンのアラベス時代のもの)【Getty Images】 何やらロマンチックな小見出しをつけてしまったが、今季ポルトガルリーグ序盤を振り返る時、どことなくフレッシュな気持ちに浸れるのである。理由は、リーグ順位表を見ていただければすぐに分かってもらえるはず。驚いたことに、聞きなれないチームが首位の座についているではないか。 その名はレイソエス。ポルトからさらに北へ4キロほど行ったところに位置する町マトジーニョスのスポーツクラブである。人口は4万5000人余りの小さな町。このマトジーニョスにある港がレイソエス港。ポルトガル北部を、いやポルトガルを代表する港の1つである。 町の名前ではなく港の名前を冠するクラブ、レイソエス。海の香りがプンプンである。そんなクラブの健闘ぶりが、今季リーグ序盤、海風に乗って
2006年にイタリアサッカー界を揺るがした「カルチョーポリ」または、中心人物のモッジから「モッジョーポリ」と呼ばれる審判買収スキャンダル。その中心的クラブだった責任を取らされてセリエBに降格したユベントスがセリエAに復帰し、早くも2シーズン目を迎えている。 新生ユベントスを一言で言い表すとしたら、「挑戦者」という言葉がまず浮かんでくる。スキャンダル以降のユベントスは、まさに怒りを胸に秘めた挑戦者だ。以前のユベントスは、イタリア経済界を牛耳ってきたフィアット社の創業者一族アニエリ家をバックに、「スティーレ・ユーベ(ユーベ・スタイル)」と呼ばれている特権意識がちょっとした言動からも感じられ、どうもそれが鼻に付いてしまっていた。 しかし、スキャンダルで首脳陣も新しく入れ替わり、セリエBから再スタートを切ったユベントスからは、これまでの上から見下すようなエリートではなく、何か挑戦者としてのひた
12月、世界最高の選手の1人としてキャリアの絶頂期を迎えようとしているクリスティアーノ・ロナウドが、クラブワールドカップ(W杯)でマンチェスター・ユナイテッド(マンU)をクラブ世界一へ導くために来日する。 昨シーズンのC・ロナウドは、まさに獅子奮迅(ししふんじん)の活躍で最高のシーズンを送った。イングランド・プレミアリーグでは31ゴールで得点王に輝き、チームの連覇に大きく貢献。UEFA(欧州サッカー連盟)チャンピオンズリーグでも得点王の活躍で、自身初となる欧州王者の称号を手に入れた。さらにゴールデンブーツ賞(欧州得点王)も獲得し、今年のバロンドール(世界最優秀選手賞)の最有力候補でもある。 “赤い悪魔”(マンUの愛称)の背番号7を背負う男は、日本でどのような“芸術”を披露してくれるのだろうか。C・ロナウドが世界一への熱い胸の内を明かした。 ――自分のことをどういった選手だと思いますか?
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