ブックマーク / iincho.hatenablog.com (8)

  • 愛の告白は必然的に時期尚早である - いいんちょさんのありゃあブログ

    岡村隆史「キスしていい?」問題 最近、初主演映画のPR活動で、ナイナイの岡村隆史がいろんなバラエティ番組に出まくっている。 昨日もくりぃむしちゅー上田晋也がMCをつとめる「おしゃれイズム」に出演していた。 その中で、岡村の恋愛経験についての話になった。なかでも盛り上がったのは、彼の「キスするときは必ず『キスしていい?』と訊く」というポリシー(?)についてだ。 以前(といってもだいぶ前)、彼がまだつきあっていない一人暮らしの女性の家に夜、あがらせてもらった際のことだ。テレビを見るなどして部屋でまったり過ごした後に、さあそろそろそういう頃合いなのかなと思った彼は、おもむろにその女の子に「キスしていい?」と聞いたというのだ。この「問いかけ」に相手の女の子は、「そんなことする人だとは思ってませんでしたっ!」と断固拒否。その後、30分テレビを見ながら待って(なぜ待てば次はOKされると思ったかはわから

    愛の告白は必然的に時期尚早である - いいんちょさんのありゃあブログ
    kodaif
    kodaif 2010/06/26
    "忌避の身振りなのだ。言わずもがな、今から告白する相手とは、自分がこれから愛し守っていこうとしている相手である。なぜその相手に、暴力的な介入をしなければならないのか。そこで告白をする側の意志は揺らぐ。"
  • バラエティ番組がのこす最後のフロンティア〜きらっといきるの偉大なる冒険〜 - いいんちょさんのありゃあブログ

    教育テレビで毎週金曜日に放送している『きらっといきる』。障害者の活動をとりあげているこの番組の先々週の放送では新企画(? 番組内の一企画なのか、編とは別のスピンオフというあつかいなのかはまだよくわからない)がスタートしていた。それを先週の金曜日、たまたま再放送で見た。 その名もバリアフリー・バラエティ、略してバリバラ。以前からの番組MCの一人で、自身も脳性麻痺を患っている玉木幸則はこれを立ち上げた目的を ぼくらも自分たちの障害をネタにして笑ったり、おもろいことをやったりしている。でも人によっては、「ここ笑っていいところなんかな・・?」と。その壁をとっぱらっていこう、ということ。 http://www.nhk.or.jp/kira/program/past/details/435_rb.html と説明している。いわば「障害者のでるバラエティ番組」だ。 僕が見たのは「バリバラ」の一回目だっ

    バラエティ番組がのこす最後のフロンティア〜きらっといきるの偉大なる冒険〜 - いいんちょさんのありゃあブログ
    kodaif
    kodaif 2010/06/26
    "それは「笑い」のはらむ権力性の問題だ。権力を皮肉る「笑い」は、ときとして弱者にとっての強力な武器となり得るが、事態がその逆であった場合ももちろん、強力な武器となり、「笑い」は権力性の誇示に荷担する。"
  • 沢尻エリカが高城氏に抱いた「かけがえのないキモさ」について - いいんちょさんのありゃあブログ

    おそらく日人で最も悲惨なゴールデンウィークをすごした一人は沢尻エリカの夫、いや、もはやこの「夫」の前にもうっすら「元」という字が浮かび上がりつつあるのかもしれない。ハイパーメディアクリエイターの高城剛だろう。 実際にエリカ様が高城氏のことを「キモい」と言ったり思ったりしているのかはわからないけれど、一応ここでは彼女は実際にそう言っていて、彼女がそう思ったことが彼との離別の原因の少なくとも一つである、ということが事実であるとして書くと、これって一般市民にとっても他人事ではすませられない問題なんじゃないかと、僕は思う。 ◆ 先々週の「5時に夢中!」木曜日のレギュラー美保純が、この件についてのコメントで彼のことを「キモいよ、私は前から思ってた」と豪語していた。どうもネットを見ていても、「彼のことを前から実はキモいと思っていた」という見解は少なからず拾える。 この場合、ほとんど高城さんと接したこ

    沢尻エリカが高城氏に抱いた「かけがえのないキモさ」について - いいんちょさんのありゃあブログ
    kodaif
    kodaif 2010/06/26
    "どうしようもなくキモくなり、突然ある特定の相手のことをどうしようもなくキモいと感じてしまうような生き物なのである。そしてこの一線を越えたら二度とは戻れない。もう二人の関係の修復は不可能だ。"
  • “視線のすれ違い”があるところにこそ相思相愛があるじゃないだろか仮説 - いいんちょさんのありゃあブログ

    好きな人を“見る男性”と“見ない女性” 職場や学校など、ある特定の共同体内で男が片思いをしている場合、たいていそれは視線の方向によってわかる。要はその対象となる人を穴があくほど、とことん見るのである。相手の子の一挙手一投足を、ああかわゆいな、きれいだな好きだなと、目で見て愛でて楽しむのだ。 キモイと罵るな、たぶんみんなそれをやってるんだから。 しかしこの習性みたいなものが、女の子に対してもそのまま適応するのかというと、そうではない。それを最近女の子から聞いて思った。 女の子に片思いの相手がいる場合、それは相手を「見ない」という行動で表れる。もちろん見たくないことはないだろうけれど、ジロジロ相手を見てしまうと下手すれば自分が好きなことを相手にバレてしまうかもしれない。そういった恐れから、逆に相手のことを不自然なほど見ないという習性になって具現化するというのだ。 ここらへん、もちろん男にも自分

    “視線のすれ違い”があるところにこそ相思相愛があるじゃないだろか仮説 - いいんちょさんのありゃあブログ
    kodaif
    kodaif 2010/06/26
    "たいていそれは視線の方向によってわかる。要はその対象となる人を穴があくほど、とことん見るのである。相手の子の一挙手一投足を、ああかわゆいな、きれいだな好きだなと、目で見て愛でて楽しむのだ。"
  • クリエイターだって「ファンのツボ」だけ圧しつづけてはいられないっ! - いいんちょさんのありゃあブログ

    最近ドラマ「古畑任三郎」のシリーズを見かえしている。いや、見返しているというのは不適切で、机に向かって書き物をしながらBGMとして録画した古畑を「聴く」のである。子どもの頃からこの番組をテープがすり切れるほど見たおしたぼくは、情景を瞳に映さずとも今どういうロケーションで、どういうカット割りで誰と誰が話しているかなんて、手に取るようにわかるのだ。 そんな誰も得しない自慢話はともかく、このシリーズ、現時点で連ドラ版がシーズン3までと、スペシャル版の数作があるんだけれど、それを順に追って見ていくと、作り手(このドラマの場合、なんとなく脚の三谷幸喜の作品という印象が強いのでここでは彼のことを指すが)の作っていた当時の心情が分かるような気がしてくるわけだ。 古畑シリーズにおける「ファンのツボ」 少し説明しておくとこの刑事ドラマ、あの「刑事コロンボ」と同様に推理小説の「倒叙もの」というスタイルでなり

    クリエイターだって「ファンのツボ」だけ圧しつづけてはいられないっ! - いいんちょさんのありゃあブログ
    kodaif
    kodaif 2010/06/26
    "繰り返しのそれの、どこが「クリエイティブ」なんだよ、と。おそらくそういった「飽き」の倦怠感からくる苦痛によって、あるときクリエイターたちは「ファンのツボ」から逸れたくなってくるんじゃないだろうか。"
  • 人はいつ「終わる」のか - いいんちょさんのありゃあブログ

    最近、あるの中である意味すごく「怖い」箇所を読んだ。 それは、西武百貨店の元経営者でパルコやセゾングループも創設した辻井喬(=堤清二)と、社会学者でフェミニストの上野千鶴子の対談、『ポスト消費社会のゆくえ』にてだ。 それは今では考えられないくらい、百貨店が消費者だけでなく大衆文化を牽引しようという気概があった時代、渋谷に西武百貨店やパルコが建ち例の糸井重里らが手がけたコピーで行け行けどんどんだった時代の話だ。 日の百貨店では今でも美術展というのを開催されているみたいだけれど、あれは百貨店発祥の地の欧州ではあり得ない話で、これもモノを売るだけでなく消費者マインドを文化的に啓蒙していこうとした辻井さんの発案だったという。そんな美術展を百貨店内で始めたころについての対話の箇所。 上野 (中略)ベンチャービジネスのなかには当たりハズレがあって、現代美術ははずれるとただのガラクタですね。 辻井

    人はいつ「終わる」のか - いいんちょさんのありゃあブログ
    kodaif
    kodaif 2010/06/26
    "ある人があるときを境に、決定的に時代の潮流や、その道の最先端からズレていってしまう。そしてそれは不思議と一人でなくおそらくみんながみんな感づいてしまうのだ。その時、ある人は「終わった」とささやかれる"
  • そりゃブスの中にも「階級」があるだろさ - いいんちょさんのありゃあブログ

    ohnosakikoさんの記事経由で読んだ北原みのりさんの記事。 よしもとばなな話で盛り上がっていた筆者とBさんに、猛然とってかかるCさんという図。 「いいですか、Cさん、世の中にブス自認のない女なんて、いなんですよ。それが女の病であるということが前提ではないんですか!?」 http://www.lovepiececlub.com/kitahara/2009/12/post-188.html まさしくこれが前提になっているのだけれど、このことを共有しているかどうかでこの話はまたちがった様相を呈してくる。これがないままだと、北原さんが単によしもとばななの言動を「ブスのくせに」と非難しているようにしか読めない。Cさんのように憤慨するのも、無理からぬ話である。 しかし、北原さんが相手と共有していると思ってたけれど実はしていなかったのは、「私だって同じブスだ、という意識はある」という前提。これが

    そりゃブスの中にも「階級」があるだろさ - いいんちょさんのありゃあブログ
    kodaif
    kodaif 2010/01/02
    "つい最近まで「女は男に比べて異性の外見を気にしない」という巷に流布する「都市伝説」を真に受けた上、そこから勝手に演算して「同性にもたぶんそうなんじゃね?」という根拠なき妄想にとりつかれていたのだ。"
  • 化粧とは自我にほどこされるものなのである - いいんちょさんのありゃあブログ

    世の中には「醜形恐怖」という名の精神疾患に苦しんでいる人がいるという。自分の顔や身体が、極度に醜くて他の人からも実はそういう風に奇異な視線を注がれているのではないか、と考えてしまう、一種の強迫性障害だ。 そんな障害を患ったある若い女性についての短い特集を昨年末、フジテレビのスーパーニュースでみた。再現映像なんかでなく実際に闘病中の人が出てきたので、その分よほどに生々しかったのだけれど、おそらくテレビの前にいた人そのほとんどが、カメラが玄関を開けて出てきた彼女を初めてとらえたとき、瞬間的に思ったはずだ。 「全然かわゆいし(ブスじゃねーし)!!」 絶世の美女とはいえない。しかし分類するとすれば彼女は間違いなく「ブス」の棚ではないし、「ふつう」のタグをつけるべきかもしれないが、かといってその中でいえば比較的かわいいほうに分類されるだろう。 重要なのはこの疾患が、「ブス」が自己の「ブス」さに悲観し

    化粧とは自我にほどこされるものなのである - いいんちょさんのありゃあブログ
    kodaif
    kodaif 2010/01/02
    "聞かせても彼女が手術に踏み切ったのと同じように、どんなに周囲の人間が「そんな厚化粧しなくてもかわゆいのに」と思ったところで、ある種の女の子のメイクの仕方は、おそらく濃くはなろうと薄くはならないのだ。"
  • 1