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ブックマーク / noon.serio.jp (5)

  • 新しい日本人という嘘八百を演出するマックとパソコンのCM (セックスなんてくそくらえ)

    最近よく目にする広告だが、これは一種の詐術ではないのか。 アップル - Macをはじめよう - TV CM すでに見た人も多いと思うが、「パソコン」というスーツを着た小男が、「マック」というカジュアルな格好の優男に、さまざまなシーンでからかわれ、馬鹿にされ、面目を失わされつつも、それに一切気がつかない鈍感ぶりを発揮し、結果として視聴者の失笑を誘うという、アップルがここしばらくネットやテレビで放映し続けている、あの趣味の悪いCMのことである。 もちろんここでいう「パソコン」という名前の小男は、ウィンドウズOSがインストールされているパーソナル・コンピューターであり、後者はマックの暗喩である。見る人が見ればわかりますよねという押しつけがましい制作側の姿勢がありありと見える、いわば「ほのめかしメソッド」の悪意ある変種であり、煽りとして実に巧妙な作品である。おそらくはなかなか効果を上げているのでは

    kohedonian
    kohedonian 2007/06/21
    各国語版のほぼ同等な翻案をやってるんで日本人論に結びつけるのは些か強引かと。
  • パリス・ヒルトンに関する雑感 (セックスなんてくそくらえ)

    飲酒運転をして免停となり、執行猶予中の身分にもかかわらず運転をし、「免停が終わっていないことを知らなかった」という間の抜けた弁明をしたが、当然のごとく起訴されていた米国モデルのパリス・ヒルトンが、つい先日とうとう監獄に行くことになった。 日ではファッションブランドのサマンサ・タバサのイメージガールを務めていたり、日でモトローラのRAZOR携帯が販売されたときそのプロモーションで来日していたりもしたが、今回の事件があるまでは比較的知られてない芸能人だったのではないか。むろんアメリカではお騒がせセレブリティとして有名なモデルである。 プライベートなセックスビデオ流出など、毎回メディアを賑わせる奇矯な言動からついたあだ名が「エアヘッド」。つまり空っぽ頭である。ヒルトン・ホテルの創業者一家のヒルトン家の令嬢でもあるパリスは、後継者を意味する「エア」とシャレをかけてエアヘッド、つまりカネだけは持

    kohedonian
    kohedonian 2007/06/07
    パリヒルの件
  • 即興・レイプ・エイプリル (セックスなんてくそくらえ)

    時には雪が四月に プリンス noon75 詩訳 長く続いた内乱の後トレーシーは死んでしまったのさ 僕がその最後の涙を拭きとった直後のことだった きっとトレーシーの人生は昔よりはマシだったんだろう 少なくとも残された愚か者どもの人生よりはずっと よく泣いたのさトレーシーのため僕のただ一人の友人だったから あんなクルマは毎日見かけるもんじゃない よく泣いたのさトレーシーのためだってまた会いたかったから でもいつだって人生はそううまく行かないものなのさ…… 時には雪が四月に降って 時にはひどくどうしようもない気分になるのさ 時には人生に終わりがなければいいのにと思う 皆がこういうんだ好い事は続くわけがないって いつだって僕は春という季節が好きだった 四人の恋人たちが雨の中手をつないでいたよ でも今となっては春はトレーシーの涙でしかない 愛がほしくて涙を流したんだ痛みの

  • アメリカの夢、アンナ・ニコル・スミスの死 (セックスなんてくそくらえ)

    アンナ・ニコル・スミスが死んだ。 アンナ・ニコルはフロリダ州にあるホテルの一室で、2月8日原因不明の急死をした。アンナ・ニコルはホテルでおそらくは大量の飲酒のあと突然気を失い、ボディガードと看護員が懸命の蘇生措置を試みたが意識が回復せず、30分後に救急車で病院に運ばれたが、すでに死亡しており、病院では何もできなかったそうである。死亡の原因はいまだ不明だが、普段から飲んでいた処方薬の致命的な組み合わせが原因ではないかと噂されている。 アンナ・ニコル・スミスは39歳の元プレイメイトで、プレイボーイの表紙を飾ったこともあるモデルだった。最近は「トリムスパ」というダイエット薬のイメージガールとして有名だったが、どちらかというとテキサスの石油王J・ハワード・マーシャルという老人と結婚し、玉の輿に乗ったアイドルというイメージが強いのではないかと思う。なにしろ相手は89歳、しかも結婚して14ヵ月後には亡

  • アジア、暴力、喪失に関する記憶 (セックスなんてくそくらえ)

    自分というものがどこにもいないというように思い始めたのは、日のバブルが惨めな終末を迎えてさほどたっていなかった頃、東京に帰国して住み始めた1994年頃のことだった。個人的な感傷を語ることにさほど意味はないし、そういった飽きもせず繰り返される定型をなぞり、読者と悲しみを共有する退屈で見え透いた仕組みが文学であるということが可能であれば、匿名ブロガーである私は別の方法を選択しなければならないだろう。すなわち個人的な痛みを語ることはそれがどれほど人にとって切実な意味を持とうが無意味であり無価値であり、個人の出来事や感情を語りながらかつそこに留まらないという、知的で運動的なアプローチが必要なわけである。 さて話を戻す。子供時代を元イギリスの植民地で過ごした私は、日国民として当然与えられるはずの義務教育を満足に受ける機会を奪われ、当然のことだが日語を正しく話し、書く能力というものを大きく損ね

    kohedonian
    kohedonian 2007/02/19
    ありがとうございます。
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