政治に関するkoitigarbhaのブックマーク (7)

  • なぜ右翼には低学歴と低所得が多いのか[改題:プロレタリア型右翼]

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  • 言論・表現への法規制に抗するために - 地下生活者の手遊び

    差別問題を考えるうえでの前提 ここ数年の日のレイプ事件の認知件数は、だいたい二千件をこえたあたりで推移しているようですにゃ。しかし、実際におきているレイプの件数は少なくとも数倍はあると考えられていますにゃ。警察へ届け出にゃー被害者がいるからにゃんね。こういう、実際には起こっているけれど、届出がにゃーので認知されにゃー数を「暗数」というようですにゃ。 ♀が被害者となる性犯罪において、社会が性差別的であるほど性犯罪被害者の♀は届出することのハードルが高くなり、暗数が増えることになりますにゃ。今の日においても、法廷におけるセカンドレイプやら、被害者に対する有形無形の嫌がらせやらを考えると、性犯罪被害者として名乗り出ることのハードルは高いでしょうにゃ。強姦魔にとってはウハウハの世の中にゃんね。 性犯罪被害♀を中傷したり、レイパー♂を「元気な人」と評価するような社会においては、ますます♀は性犯罪

    言論・表現への法規制に抗するために - 地下生活者の手遊び
  • 福島みずほさんと会う - 内田樹の研究室

    福島みずほさんと対談したはずなのだが、ブログに何も書いていないのは「何か」あったのでしょうか、というお訊ねメールが届いた。 このメールの背後には「事変」を望む無意識的欲望が何となく感じられるのであるが、福島さんとの対談はたいへん愉快なものでありました。 昨日のブログは小田嶋さんの話だけで長くなりすぎたので、「続きは明日」だったのである。 それにしても、赤プリで小田嶋さんと会ったあとに、永田町で福島さんと会うというのは、かなりストレンジな取り合わせではある。 ともあれ、私のふだん出入りするところではない参院議員会館に行って、「月刊社会民主」というコアな(と申し上げてよろしいであろう)刊行物のために社民党党首と対談をすることになった。 ご存じの通り、私は「異業種の人」と話をするのが大好きである。 その話のコンテンツよりは、その「語り口」から学ぶところが多いからである。 ウィキペディアの福島さん

  • リスクと不確実性について - on the ground

    少し前の話になるが、kaikajiさんとBaatarismさんの以下のやりとりに触発されて考えたことをまとめておく。 経済学的思考のすすめ@梶ピエールの備忘録。 テポドンの経済学@Baatarismの溜息通信 BMDを棄つるの覚悟@梶ピエールの備忘録。 国際関係における「真の不確実性」@Baatarismの溜息通信 論点となっているのはリスク管理とコスト&ベネフィットの考慮である。話題自体は(政治経済学的な色彩が強いけれども、リスク概念は分野によって意味合いがそれぞれ異なるので、まず用語の整理から始めよう。 社会学では、危険dangerとリスクriskを区別することが多い*1。危険が人に危害を及ぼす可能性のあるもの全般、あるいはその可能性そのものを指すとすれば、社会学的概念としてのリスクは、人が行った何らかの選択や決定に伴う不確実性から生じる不安を意味している。天災など自らの選択の帰結で

    リスクと不確実性について - on the ground
  • 今こそアーレントを読み直す - 池田信夫 blog

    著者がハンナ・アーレントについて書こうと思ったきっかけは、秋葉原事件だという。あれを「新自由主義が生み出した派遣労働者の悲劇」といった物語に仕立て、かわいそうな人々を救済する「派遣村」のような温情主義をたたえる言説が流行した。派遣村を批判した総務政務官を更迭しろ、と国会の代表質問で追及したのは民主党の鳩山由紀夫幹事長(当時)である。 アーレントは、このような「共感の政治」を批判する。彼女は『革命について』でフランス革命を否定し、アメリカ独立革命を肯定した。彼女はlibertyとfreedomとを区別し、前者をフランス革命の、後者をアメリカ独立革命の理念とした。Libertyは抑圧された状態から人間を解放した結果として実現する絶対的な自然権だが、freedomは法的に構成(constitute)される人為的な概念で、いかなる意味でも自然な権利ではない。 「人間が生まれながらに等しく人権を

  • 利害対立と民主主義モデル - on the ground

    吉原直毅「最近思う事:湯浅誠・堤未果『正社員が没落する--貧困スパイラルを止めろ!』(角川新書)を読んで」を読んで、「分断統治」という観点は確かに重要であるとしても、正規・非正規ないし中間層・低所得層という対立軸だけでなく、世代間の対立についての目配りを盛り込んだ議論構成にしなくては、いわゆるロストジェネレーション層への応答なり批判なりにはならないだろうと、若干の違和と物足りなさを覚えた*1。その方面について私には何の専門的知見も無いが、世代の軸を加えるなら、単なる情緒的認識の問題には尽くすことのできない程度の敵対性は存在するのではないか。 無用な対立を煽ることは避けるべきだが、分断統治を目論む上位のプレーヤーが無条件に存在すると前提した上で誰だって仲良くできると考えるのは妄想である。「少なくとも民主主義的政治システムの存在する現代においては」*2、そのような上位のプレーヤーは居ない。「支

    利害対立と民主主義モデル - on the ground
  • 投票自由論――選挙など行っても行かなくてもいい - on the ground

    昔、「選挙へのエゴイズムの見解(試論)」というものを書いた。次の衆議院議員選挙がいつになるのか分からないが、選挙における有権者の行為/不行為に伴う責任について、改めてまとめた確定版を書いておきたい。 デモクラシーの精神に忠実であることを自負する人々は、有権者がその権利を行使することは議論の余地無き「善きこと」であるかのように、投票を勧める。他方、アナーキストの多くは、投票行為そのものが現行の政治体制と国家権力を承認し、生き長らえさせるものであるとして、選挙への不参加を呼び掛ける。 しかしながら、選挙に行こうが行くまいが、それは自由である。ここで自由であると言うのは他者から責めを受けるいわれは無いということであり、それは現在の行動についても、その将来に生ずる帰結についても同様である。そしてこれは、民主政を支持するか否か、民主主義を支持するか否か、どのような民主主義を支持するか否か、などの問題

    投票自由論――選挙など行っても行かなくてもいい - on the ground
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