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ブックマーク / thir.hatenadiary.org (9)

  • ドワンゴの悲哀的なものが好きなのであって。 - Thirのノート

    ドワンゴは、東証一部に上場しているのにも関わらず、そう、我々が「東証一部」と聞いたときに持つ「ザ・サラリーマン」というイメージに反して、どこか抜けていて、それでいて目指している方向性には非常に卓越した視線が含まれている企業であった。彼らがベンチャー企業からスタートしたのは今や有名な事実であるが、外から見るに現在においてもその精神を失っているわけではなく、また、良い意味での「頭の悪さ」も兼ね備えている。多くのインターネットユーザーは、「某音頭」がテレビCMで放映されたときに「大丈夫なのかこいつら」という感覚を覚えたはずだし、最近では「ニコニコ動画」の運営に当時2ちゃんねるの管理人であったひろゆきを大々的に起用したことが記憶に新しい。このような経緯もあって、ドワンゴは企業イメージとしては非常に稀有な、「ドワンゴならやりかねない」「ドワンゴなら何をやっても許される」というイメージを素直に獲得した

    ドワンゴの悲哀的なものが好きなのであって。 - Thirのノート
  • 「いじめ」と「いじり」の違いは何か - Thirのノート

    「「いじめ」っつーか「いじり」だろ - ニート☆ポップ教NEO」を発端に、「ニコニコ大会議」で起こった事は「いじめ」なのか「いじり」なのか、という事が、問題からスピンアウトして一つの論争となっている。実際問題客観的に見て「いじり」と「いじめ」は区別がつかないことが多く、またいじめの当事者達が彼らの行動を自己弁護するために「今のはいじりだった」と言うことは非常に良くあることであるし、その逆ももちろんある。 「当事者が了解していたら、それはいじりだ」という言い方も出来るが、id:hokusyu氏が「いじめ/ファシズム/引きつった笑い - 過ぎ去ろうとしない過去」で述べているとおり、当事者(つまり「いじられ」「いじめられ」側)の意見が場の雰囲気によって歪曲されている場合も多く、その判定は難しいのが実情である。 なのでここでひとつ、僕が大いに同意する「いじり」と「いじめ」の決定的な違いについて、声

    「いじめ」と「いじり」の違いは何か - Thirのノート
  • あのー、それ、普通にいじめなんですけど - Thirのノート

    ニコニコ大会議であった例の件について。例の件について存じない方は、とりあえず「2008-07-04」を読んでくださいな。 いじめの構造 いじめというのは、ある一人の人物を他の大多数の人間が「見下す」ことで、虐める側の人間が「虐める側」としての共通意識・仲間意識を持つものである。つまり、虐める側は虐められる一人の人間を「外部」として定義することで初めて集団性・内部性を保つことに成功するのである。 ここで出てくるのが、「生け贄にされた一人」の問題である。いじめの構造上、彼は彼が有している感情の如何に問わずその集団の外にはじき出されている。いじめについては他にも様々な問題があるが、ひとまず「集団の内部と外部」という構造が見て取れる点だけを、今回は問題としてみる*1。 さて、ここで件のエントリに戻る。 ニコニコ大会議の場合 衝撃を受けた。すごい。すごいことだ。 あまりにも斬新すぎるコミュニケーショ

    あのー、それ、普通にいじめなんですけど - Thirのノート
  • ニコニコ動画に二次創作が再び戻る日 - Thirのノート

    ニコニコ動画においてMADや二次創作作品*1が削除されはじめた、というニュースが話題を呼んでいる。「パロディ封じに対するニコ動のしたたかな戦略 - プログラマーの脳みそ」のような肯定的な意見から「ニコ厨の脳内がお花畑すぎる件について」のような否定的な意見まで論調は様々ある。 けれどもとりあえず、ここでは「犯人捜し」だの「ニコ動はこれからどうなってしまうのか」だのを論じるのはやめよう。だって、みんなニコニコ動画から二次創作やMADが消えるのは嫌なんでしょ?それなら、今考えるべきなのは「どうやったらニコニコ動画に再び二次創作が戻ってくるのか」ということであって、「権利者はニコ動が申請者を表示する機能を実装することで消費者の制裁を受けるだろう」とかそういうじゃないのは一目瞭然。権利者の意識改革が必要なのは分かるけれど、それは消費者からの脅迫によって成り立つものじゃないでしょうに。現時点で権利者が

    ニコニコ動画に二次創作が再び戻る日 - Thirのノート
  • いい加減、インターネットという共同幻想から目を醒ましたらどうですか - Thirのノート

    未だに、インターネットは現実とは全く違う理念で動き、そして独自の世界を築き上げていると思っている人がいる。そういう人は、例えば「インターネットでは簡単に儲かるらしい」と豪語してしまったり、「インターネットでは全てのものが『無料』であることが理念として存在するから、なんでもタダで入手してOK」とか、「インターネットでは加藤が神扱いされている。気持ち悪い物だ」等と言ってしまったりする。あるいは、最近見られた「ニコ動でアニメの編が削除されるのはおかしい。だって宣伝効果があるんだもん。インターネットならではのそういう新たな面を認めようよ」なんていうのもそれに含めてしまっていいかもしれない。実際当にそうであるのかは全く確認されていないのにもかかわらず、「インターネットだから」という理由だけで、現実とは違う<何か>が存在するような錯覚を持ってしまう。 錯覚を錯覚と認めよう。もう、インターネットの独

    いい加減、インターネットという共同幻想から目を醒ましたらどうですか - Thirのノート
    koizuka
    koizuka 2008/06/21
  • 学校裏サイトの舞台は「ケータイ」文化なんですけど - Thirのはてな日記

    以前、「学校裏サイト問題の質は「いじめ」問題であることを、ほとんどの人が認識していない - Thirのノート」という記事を書いたあと学校裏サイト問題についてはほとんど言及してこなかったのだが、最近また写真が怖いのにブログのタイトルは可愛いことで有名な吉田氏が「けんじろう と コラボろう!:オルタナティブ・ブログ」で言及されたり、"ミルクカフェ・2ch2管理者が現状について述べた記事"が話題になっているので、このタイミングでまた学校裏サイト問題についてコメントをしてみる。とりあえず、僕の学校裏サイトに関する見解は前回の記事でかなりまとめているので、そちらを参照あれ。 学校裏サイトの舞台は「ケータイ」 ITMediaの記事で一つ引っかかったのは、2ch2及びミルクカフェの管理者を「学校裏サイト管理人」の代表格として登場させている点。僕がいろいろと聞いて回った感覚*1や、自分が高校に在籍してい

    学校裏サイトの舞台は「ケータイ」文化なんですけど - Thirのはてな日記
  • 「テレビが面白くない」なんてことはない - Thirのノート

    モヤモヤしているものを書き出してみる。でも基的にモヤモヤしているので、書き出してもやっぱりモヤモヤしている。 最近やたらと「俺はもうテレビを見なくなった」「テレビなんてつまらん。ニコニコで十分」という主張が見受けられる。けれども個人的には、それは一般的にはいえないと思う。現時点では、作り手自身やその周りの満足を重視したCGMコンテンツが大衆を意識しているテレビ番組に敵っているとは思えない状況にある。例えばその辺で放送されているUustreamの番組やニコニコ動画にあるオリジナルコンテンツをテレビで放送したらどうなるか、考えてみて欲しい。多分、「面白い」と思うのはごく限られた層だけで、視聴者の大半は「つまらない」と感じると思う。何が言いたいかというと、「どのような番組を作れば皆を満足させられるか」という視点があまり重視されていないところに現状のCGMコンテンツの限界があり、動画コンテンツが

    「テレビが面白くない」なんてことはない - Thirのノート
  • 何がサービスを閉鎖的にするのか - Thirのノート

    はてなは閉鎖的だといわれる。同様にmixiも2ちゃんねるもニコニコ動画も閉鎖的だといわれる。では閉鎖的に見える原因はどこにあるのだろうか? ...簡単な話である。そこにコミュニティ的な要素が存在する限り、外部から見たそれは閉鎖的なものに映る。別に真にコミュニティが存在する必要はない。つまり内部の人が「俺、このコミュニティに属しているから」と自覚している必要はない。外部からみてそこにコミュニティがあるように見えれば、直ちにそれは閉鎖的であると判断される。 もちろん、コミュニティの形成要因はサービスによって様々である。代表的な事例は「会員登録制度によるコミュニティ化」と「共通の話題に伴うコミュニティ化」だろう。個人的には前者を「上からの閉鎖性」、後者を「下からの閉鎖性」と呼んで、同じ閉鎖性でも性質が全く異なることを常に意識するようにしている。*1もちろん、はてな2ちゃんねる等の事例もあるので

    何がサービスを閉鎖的にするのか - Thirのノート
  • インターネット上で欲するのは、議論ではなくつながり - Thirのはてな日記

    http://d.hatena.ne.jp/amourix/20080307/1204868889 僕らはインターネットで議論をしている。けれども、僕らはインターネット上で当に議論を求めているのだろうか? 当に欲しいものは、他者と繋がっている感覚ではないだろうか。 人はまず言葉を発明した。次に電話を発明し、そしてインターネットを発明した。人と人とのコミュニケーションはこの流れを通じてどんどんと簡単になっていった。 しかしその中では、先にあげたリンクに書かれているように、人間が議論をする上で無意識に汲み取る諸動作が一切省略された。電話においては声のトーンのみ、インターネットでは軽い「テキスト遊び」しか、非言語的なコミュニケーションシステムが存在しない。そういった環境下においては、意見の表明は出来ても議論は出来ない。そこで起こるのは、互いの意見が暴力性を伴う文字情報としてぶつかり合うことだ

    インターネット上で欲するのは、議論ではなくつながり - Thirのはてな日記
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