仕事の帰りに立ち寄った、どこかの湖畔の古い旅館。 厨房らしきところの 少しだけ開けられた窓から 白い蒸気がゆらゆらと立ち上っている。 まだ営業しているんだ。 そう思って 正面玄関からホールに入ると、 コックさんの白い制服を着たAさんが笑顔で迎えてくれた。 おまえ、よく来たな。 親族以外で、私のことを下の名前で呼んだり、 おまえ呼ばわりするのは、 この街に来てからは二人しかいない。 Aさんはその一人で、工務店の社長さんだった。 亡くなる1カ月前にいきなり 事務所を訪ねてきて 「ここ落ち着くなあ」といって おまえ、悪いけど、 10人分の感謝状を書いてくれと、頭を下げた。 「俺、文章なんか書けないの、知ってるよな」 末期のがんだった。 時間はないけど、 しゃべる時間は必ずつくるといって その日は帰っていった。 が、その時間がつくられることはなかった。 詳細な検査をする前の旅立ちだった。 おまえは