早いものでもう5月です。 先日は、一般ボランティア7名を含む20名により糸瓜棚の架替え作業が終わり、糸瓜の苗植えを待つばかりとなりました。 昨年は暑さで花が咲かず、9月に糸瓜がぶら下がっていない糸瓜忌を迎えることとなりました。今年こそ、子規の見ていた風景を皆さんで共有したいと思っています。 子規庵の小園も、ボケの花や山吹も終わり、射干(シャガ)と野ばらが小園を彩っています。雑草の花にも毎日アゲハ蝶が訪れています。 5月公開日 1日(水)、3日(金・祝)、4日(土・祝)、 5日(日・祝)、6日(月・振替)、 8日(水)、11日(土)、12日(日)、15日(水)、 18日(土)、19日(日)、22日(水)、25日(土)、 26日(日)、29日(水) 今月は連休も有り、15日間の公開となります。 折角の連休ですからご旅行も良いですが、子規庵のゆったりした時間の中でリフレッシュされるのは如何でしょ
日本の徴兵制… 成立時の明治政府は十分な直属軍事力をもたなかったため、常備軍の拡充がいそがれた。そこで、旧来の武士団を基盤にした職業兵制度をおす意見をおさえ、フランスにならった徴兵制が採用された。ただし73年の布告では、家の存続をはかるため広範囲の兵役免除規定があり、金銭による代人制もみとめられた。 全国で徴兵反対一揆がおき、廃家を再興するという名目で戸主となる兵役のがれも おきたため、1879年と83年に一部を改正し、89年(明治22)に大改正された。 大改正では、それまでの免役規定と代人制をやめて国民皆兵が実現し、満17〜40歳の男子に兵役が義務づけられた。同年に発布された大日本帝国憲法では、兵役は臣民の義務と されている。その後も戦争のたびに改定され、1927年(昭和2)には徴兵令から兵役法にあらためられた。45年、第二次世界大戦の敗戦によって廃止された。 愛身、愛郷:「筆まかせ」
フロントページに戻る タカさんの読書日記索引に戻る 子規三大随筆 正岡子規 講談社 子規が没したのは明治35年というから今からもう百年以上前のことだ。子規は死病となった脊髄カリエスのために長く病牀にあった。死の直前の2年余りは根岸の自宅の床に寝たきりとなり、寝返りさえ打てない中で、日々襲い来る激痛に泣き叫ぶというような生活を余儀なくされたのだ。 子規はこの病床にありながら、「墨汁一滴」「病牀六尺」「仰臥漫録」の三つの珠玉の随筆を著した。 本書はその三大随筆を集め、中でも公表を意図していなかったと思われる「仰臥漫録」では、そこにのこされた草花などのスケッチも掲載されている。 日本の近代詩歌に革命的といえる影響を及ぼした子規の真髄を知るためには必読の書ともいうべきものだ。正直言って、この三大随筆の評判は随分昔から聞いてはいたが、断片的には読んだことがあったものの通読したのは
2006/11/05 現代のブロガーは正岡子規の随筆に学べ----子規庵訪問記 カテゴリ:カテゴリ未分類 子規庵は総坪数55坪、建坪24坪の一軒家である。南向きの庭があり、子規の天地であったこの庭には子規の愛した様々な木や花が咲いている。座敷として使っていた8畳間から病間としていた奥の6畳間が続き、その6畳間のガラス戸の先は、糸瓜(へちま)棚になっている。このガラス戸は、陽がさし、外が見えるという当時としては珍しいもので、高浜虚子が子規のためフランスから輸入したものである。子規は肺結核だったのだが、この菌が脊髄に入りカリエスという難病になる。 子規の座机が6畳間にある。子規の左脚は曲がったままで伸びなかったので、立て膝を入れる部分がくり抜かれていた。代表作の一つである「柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺」を見ることができる。この庵に子規は、母八重と妹律と住んだ。八重は83歳まで、律は73歳まで
2004年02月05日00:05 カテゴリMy Book My Life 「Blog」の原点! 正岡子規が提唱した写生文日記 4日夜放送されたNHKテレビ「その時、歴史は動いた」は、「そして近代ニッポン人が誕生した〜明治の文豪たちの『生き方』革命〜」というタイトルで、正岡子規・夏目漱石・与謝野晶子の3人を取り上げ、明治という時代にあって新しい生き方を求めた文豪たちの苦闘ぶりを描いていました このうち、子規が雑誌「ホトトギス」で、写生文で綴った日記を提唱、広く募集していたことが紹介されていました その日記を見て驚きました どれも自分の言葉で、自分の世界を書いています これって、今、このLivedoor Blog で展開されている「Blog」と同じじゃないですか まさに原点だ、と思わずつぶやきました なにか新しい発見をしたみたいで、久しぶりにエキサイトしました (写真は子規の自画像:正岡子規の
自然描写における社会性について 宮本百合子 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)気質《テムペラメント》 ------------------------------------------------------- 「見る人のこころごころの秋の月」という文句がある。天にはただ一つしかない秋の月ではあるが、その月を眺めるひとの心のありようによって、清明な快い月であると思われるであろうし、月のさやけさに又かえって恨が深まるようなこともあろう。自然と人間との感情の交錯を、人間の主観の立場に立って観察したわかり易い一例であると思う。 古人がすでにその風流の途上で看破している自然と人間の主観との以上のような交流は、特に日本古典文学の領域の中でおびただしい表現をもっているの
<解説> 文学部教授 藤澤秀幸 夏目漱石の最初の小説『吾輩は猫である』は雑誌「ホトトギス」に、第八巻第四号(明治三十八年一月一日)から第九巻第十一号(明治三十九年八月一日)まで、断続的に十回にわけて発表された。 「ホトトギス」は正岡子規が俳句改革新運動の拠点とした俳句雑誌であり、「ホトトギス派」という近代俳句で最も有力にして重要な流派の名称の由来となった雑誌である。 そもそも夏目漱石と正岡子規は第一高等中学校・帝国大学文科大学の同級生であり、卒業後も俳句などを通じてさらに 親交を深めていった。 たとえば漱石が愛媛県尋常中学校の英語教師として子規の故郷である松山に赴任した時には、病気療養で帰郷していた子規と生活を共にしたほどであった。 そして子規を通じて高浜虚子・河東碧梧桐をはじめとする「ホトトギス」同人たちと親交を結ぶようになった。明治三十五年に子規は病死するが、「ホトトギス」
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