日本と鉄道との出会いは嘉永六年(一八五三)七月一八日、ロシアのプチャーチン中将が長崎に来航したときに遡る。このときプチャーチンは上陸出来ず追い払われることになるが、軍艦上で長崎奉行所の役人であった佐賀藩士たちと面会した際、士官室のテーブルをぐるぐるとまわる蒸気機関車の模型を見せている。これを目にした佐賀藩士たちはよほど驚いたらしく、この蒸気機関車の模型を記憶だけを頼りに見よう見まねで一年がかりで作ってしまった。きちんとアルコール燃料を蒸気で吐き貨車を引いて走ったらしい。この模型は藩主鍋島候の御前で披露され、藩校弘道館の若き学生たちにも見学が許された。その学生の中に、当時一六歳になったばかりの大隈重信がいた。後に彼は明治新政府で鉄道の採用を強力に推し進めることになる。 嘉永七年(一八五四)、プチャーチン中将と入れ替わりで、一年ぶりに日本に再訪したペリー提督も、鉄道模型をもっていた。同年二月十