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ブックマーク / kousyou.cc (283)

  • 歴史ブログ「Call of History ー歴史の呼び声ー」開設しました

    「Call of History ー歴史の呼び声ー」は、歴史に関する様々な情報を紹介することで、歴史への理解を深め、あるいは歴史への興味を広げるきっかけになることを目的としたウェブサイトです。 人が歴史に興味を持つきっかけはさまざまです。映画、大河ドラマ、時代劇、歴史小説ゲーム漫画、あるいは地元の史跡を歩いたり海外旅行したり、学校の授業だったりしたことからかもしれません。そんな、多種多様な、歴史への興味の入り口をできる限り網羅して歴史上の人や事件、参考になる書籍へとリンクしていけるサイトが欲しいとずっと思っていました。 世界史・日史に関する歴史記事カテゴリ、歴史に関する書籍、映画小説・アニメ等の歴史エンタメ情報、各地の史跡や展覧会・イベント情報を紹介する歴史散歩の四種類のコンテンツから構成されています。 個人で運営していたブログ「Kousyoublog」の中から歴史関連記事を転用し

    歴史ブログ「Call of History ー歴史の呼び声ー」開設しました
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    kousyou 2018/06/20
  • 積極的外交政策としての「鎖国」と鎖国史観についてのメモ | Kousyoublog

    最近「鎖国」について調べている。少し簡単に鎖国体制について、「鎖国」という言葉についてメモ的にまとめておきたい。 江戸時代の外交関係に関する一般的な常識は、対外貿易を長崎の出島に限り、外交関係を閉ざし、人の行き来を制限して日独自の社会を構築していく「鎖国」体制であったというものだ。これが幕末に「黒船」の登場によって「開国」し、明治維新を経て近代国家建設へと邁進する・・・しかし、このような「鎖国」観に代わって、現在では、国際関係の完全封鎖はなされず、貿易も長崎だけでなく薩摩、対馬、松前の四つの窓口を通じて積極的に貿易・外交が行われていたとする説が主流となっている。 「鎖国」は寛永一〇年(一六三三)から寛永一六年(一六三九)までに出された五つの禁令、通称「鎖国令」によって成立するが、キリスト教の布教禁止、日人の海外往来禁止、貿易を幕府の管理下に置くことなどを内容としているものであって、『

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    kousyou 2017/03/21
    最近話題のようなので過去記事をブクマ
  • 徳川吉宗の享保の改革と徳川宗春の尾張藩政改革 | Kousyoublog

    アベノミクスは、江戸時代に一度「大失敗」していた!(河合 敦) | 現代ビジネス | 講談社(1/2) こんな記事を読んだので、 以前書いた記事 から享保の改革と徳川宗春についての部分を切り取って再掲しておこうかなと。比較してお読みいただければ幸いです。まぁあちらは仮にも歴史の先生、こちらはただの素人が趣味で書いたブログ記事なので温い目線で軽い気持ちでお読みください。 享保元年(1716)、徳川吉宗が将軍に就いたときの日は転換点を迎えていた。十七世紀の大開発時代が終わり耕地面積は頭打ちとなり、人口も十七世紀の百年で二・五倍と急増したあと、十八世紀初頭から幕末までほぼ3200万人前後で横ばいに転じる。森林資源は枯渇して各地に禿山が見られ始め、元禄バブルを最後に経済成長の鈍化とともに幕府財政は急速に悪化し、「米価安の諸色高」とよばれる米の供給過剰と米以外の産品の供給不足による物価の乱高下で

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  • 近世身分制社会の社会的権力と身分的中間層 | Kousyoublog

    「重層と複合」、「分節構造」 江戸の身分制社会を解き明かす上で、その分析方法として注目されるのが身分的周縁論をリードする塚田孝氏の「重層と複合」論である。同氏は近世社会が「武士の家、百姓の村、町人の町、職人の共同組織、賤民の共同組織など」(吉田伸之2009 P12)の重層と複合から構成されているとする。「重層」とは「村々が組合村を形成したり、町々が組合町をつくったりという基礎的な社会集団が二次的三次的に集団を形成して行くような関係」であり、「複合」とは武士と町人、町人と賤民などの「異種の社会集団間の交流・関係」のことである。「近世の社会は、支配者から賤民までに及ぶ多数の社会集団が、相互に取り結ぶ無数の関係構造として全体の社会が形成される」(吉田伸之2009 P13) この塚田の「重層と複合」論を社会集団の関係構造を理解する基礎とし、吉田伸之はそこにもう一つの視点として権力秩序の「分節構造」

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  • 九井諒子作「ダンジョン飯」1~3巻感想 | Kousyoublog

    ダンジョン飯 1巻 (ビームコミックス(ハルタ)) ダンジョン飯 2巻 (ビームコミックス(ハルタ)) ファンタジー世界でおなじみの地下迷宮(ダンジョン)へと赴く命知らずの冒険者たち――ダンジョンの奥深くへと潜っていく彼らも人間(あるいは亜人間)であるから、当然ながらメシをう。では、その事とはどんなものなのだろう?そこに目をつけてモンスターを様々な手法で調理して、ってっていまくるアドベンチャーファンタジー×グルメ漫画に仕上げたアイデアが光る一作で、今大人気作品の一つになっている。 歩き茸と大サソリとスライムなどを使って水炊き作ったり、鶏と蛇が一体化した怪物バジリスクをローストチキン風の料理に仕上げたり、バジリスクの卵とマンドラゴラなどを使っていかにもヘルシーなオムレツにしてみたりと、幻想的な怪物が次々身近な料理になっていくのがとても面白い。正直、料理は現代風にきれいにアレンジさ

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  • 近世身分制社会の構造~武士、朝廷、寺社、町人、百姓 | Kousyoublog

    三つの支配者層 支配層として君臨するのが、 (1) 徳川将軍家を頂点として、独自の家政機構を備え封建領主として被支配層の統治を認められた大名と、幕府の行政機構において官僚としての職務を分担する旗・御家人、および各大名の家臣団からなる武士。 (2) 幕府の権威づけや元号宣下、官位叙任、祈祷や諸宗派の統制などの宗教的機能を持ち、幕藩体制を将軍家とともに支える役割を担わされつつも、制度上徳川将軍家に従属し、封建領主として大名と並列にあった天皇・公家。 (3) 近世身分制社会を成立せしめる宗旨改め制度の管理運用、キリシタン禁制のチェック機能、被支配身分の人身同定機能を担い、寺院末制度によって山・寺の地位を保障し各宗派の組織化を行って幕府の統制下で宗教社会を形成した寺社。 の三つである。公家貴族層と寺社領主層を長袖身分と呼んで区別する場合もあるが、公家貴族層は朝廷とその領地、後述する

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  • 近世身分制社会の成立 | Kousyoublog

    兵農分離~太閤検地と刀狩り 近世の身分制度は兵農分離を軸としている。その土台は豊臣秀吉による太閤検地と刀狩りによってつくられた。太閤検地によって統一基準で算定された石高に基づき、秀吉から大名へ、大名から家臣へと領地が石高で与えられ、その知行の大きさに見合う軍役奉仕が義務付けられる。また、太閤検地によって百姓の耕作権が公認されるのとひきかえに、領主に対する貢租の納入が義務付けられる。支配者としての武士と被支配者としての百姓という構造が確立されていく。 この兵農分離に基づく身分構造の制度化として実施されたのが「刀狩り」である。「刀狩り」も、農民の武装解除という通俗的な理解が根深いが、そうではない。刀狩りは刀・脇差の所持ではなく帯刀を禁じることでの帯刀の有無を表象とした身分統制、すなわち『武士に奉公する者と、奉公しない百姓、戦う奉公人(兵)と戦わない百姓(農)の差別化』(藤木正志 「刀狩り」20

    近世身分制社会の成立 | Kousyoublog
    kousyou
    kousyou 2016/08/06
    “江戸時代、将軍と大名によって構成された『公儀』のもとで、すべての人々が宗旨改帳という『戸籍制度』によって登録されていた近世的な身分制度とは、<武士―平人―賤民>という身分制度であった。”
  • 江戸の身分制度研究略史 | Kousyoublog

    【江戸時代の身分制度論】士農工商から身分的周縁へ 「士農工商」とは何だったのか 江戸の身分制度研究略史 近世身分制社会の成立 近世身分制社会の構造~武士、朝廷、寺社、町人、百姓 近世身分制社会の社会的権力と身分的中間層 賤民制と身分的周縁を構成する社会集団 柔らかい身分理解という日社会史の新視点 吉田勉「歴史/身分論から差別論・穢れ論・境界論・地域社会論へ―歴史学・民俗学・人類学・宗教学などの成果 前近代部落史研究の課題と展望」(2014)によれば戦後の賤民研究は次の四つの時期に分けられる。 (1)林屋辰三郎の散所論や、井上清・原田伴彦らがリードする近世政治起源説が主流だった時期(戦後~1970年代中頃) (2)卑賤観としての触穢論を軸として、林屋散所論に代わって、黒田俊雄・大山喬平・網野善彦らがリードする中世非人論が主流となり、また渡辺広・横井清らの問題提起を承けて、朝尾

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  • 「士農工商」とは何だったのか | Kousyoublog

    「士農工商」の由来と受容 「士農工商」という言葉と社会を構成する人々を四民に分ける分類は古代中国の古典に由来する。「春秋穀粱伝」に「古者有四民,有士民,有商民,有農民,有工民。」とあり、「漢書」には「士農工商,四民有業。學以居位曰士,闢土殖穀曰農,作巧成器曰工,通財鬻貨曰商。」、「管子」にも「士農工商四民者,國之石民也。」とある。いずれも士農工商に身分的序列の意味はなく、職能から社会を構成する人々を分類する意味でつかわれていた。 いつごろ士農工商の分類が日に伝わったかは定かではないが、「続日紀」の「霊亀元年(七一五)五月辛巳朔」に「四民之徒。各有其業」とあり、十四世紀に成立した「神皇正統記」にも「凡男夫は稼穡をつとめておのれもし、人にもあたへて、飢ざらしめ、女子は紡績をこととしてみづからもき、人をしてあたゝかにならしむ。賎に似たれども人倫の大也。天の時にしたがひ、地の利によれり。此

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    kousyou 2016/08/06
    “職能区分を示す「士農工商」が身分として捉えられるようになったのは十九世紀に入って、江戸時代後期から幕末のこと”
  • 「輪廻転生 <私>をつなぐ生まれ変わりの物語」竹倉 史人 著 | Kousyoublog

    死んだら魂は新たな肉体に宿る、という「生まれ変わり」を信じている人は多い。それもただ信じているだけでなく肯定的に、こう死後生まれ変わりたいという願いとして持っているし、さらに今の自分が生前他の人物であったという前世も信じていることが多い。以前知り合いに、前世は中世イタリアの踊り子だったと真面目に信じている人がいた。「やべーな中世イタリアとか戦争と略奪と破壊と飢饉と疫病の終わらないサイクルで庶民が生きていくのは地獄じゃねーか」と言いたくなるキモ歴オタ特有の意地悪な気持ちはぐっとどっかに追いやり、自由で夢と希望にあふれたその人の前世についてとても面白く話を聞いていて、ああなるほど「生まれ変わり」信仰が今を生きるその人の存在意義を形作っているのだな、と思ったものだ。 そして、これは現代日だけの傾向ではなく世界的な潮流である。様々な調査データが一様に「生まれ変わり」「輪廻転生」を信じている人の世

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  • 【江戸時代の身分制度論】士農工商から身分的周縁へ | Kousyoublog

    2016年五月の初頭ごろだったか、Twitterで士農工商という表記が教科書から無くなっているという話が話題になっていた。そう。もう江戸時代の身分制を「士農工商」として表記することは退けられて久しいのだ。少なくとも一九七〇年代初頭に疑問が呈され、九〇年代にほぼ否定され、その結果として二〇〇〇年代半ば以降、教科書から消えはじめた。 かねてから近世身分制社会について個人的にまとめたいと思っていたので、いい機会と思い改めて研究書籍や論文を読み直したり、新規に関連文献を読んだりして一気にブログ記事としてまとめてみようと思いたったのが運の尽き。なんだかんだで書き終えるまで三か月ほどかかってしまい、かつ三万三千文字オーバーの超長文記事となってしまった。誰が読むんだ。 というわけで、長文を読みたくない人のための簡単なまとめ ・士農工商は職能分担を表す言葉で、社会通念として身分体系を意味するようになるの

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  • 源頼朝の墓 | Kousyoublog

    建久九年(一一九八)一二月二七日、源頼朝は相模川で行われた橋供養からの帰りに体調を崩し、翌建久一〇年(一一九九)一月一三日、五三年の生涯を閉じた。一説には落馬とも呼ばれるが確かではなく、その死因は不明とされている。頼朝は彼が政務を執った大倉幕府の裏手にあたる高台に葬られ、その上に法華堂が建てられた。 白旗神社(旧法華堂) 頼朝の遺骨が埋葬された法華堂跡に建てられた神社。生前、頼朝が乳母からもらった観音像を祀った持仏堂が建てられ、死後はその遺骨が埋葬されて法華堂となった。頼朝の墓所ということで誰も手を出せないことから、頼朝死後の内紛に際してはたびたび一族の避難場所となったが、宝治元年(一二四七)、執権北条氏に対して反旗を翻した三浦一族が立て籠もり、一族と家臣ら五〇〇余名がここで自刃した。明治維新後の廃仏毀釈・神仏分離令によって法華堂は取り壊され、新たに源頼朝を祭神とする白旗神社が建立されて現

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  • 「会社の生命は永遠です。その永遠のために、私たちは奉仕すべきです」 | Kousyoublog

    「会社の生命は永遠です。その永遠のために、私たちは奉仕すべきです」 2012/5/15 2014/12/17 労働法・労働問題 社員の皆さま 日商岩井の皆さん。男は堂々とあるべき。会社の生命は永遠です。その永遠のために、私たちは奉仕すべきです。 私たちの勤務はわずか二十年か三十年でも、会社の生命は永遠です。それを守るために、男として堂々とあるべきです。今回の疑惑、会社のイメージダウン、当に申し訳なく思います。責任とります。 社員の皆さま と書かれていた遺書の全文 今日まで、気の張りつめでした。頑張る、頑張る、でやってきました。家族をギセイにし、家をギセイにして、そして、でも、日一の航空機部を作りました。誰が追随できるでせうか。 決して、決して、政治家の力を借りた訳ではないのです。つきあいはありました。でも、その力を借りるという事は、期待できますでせうか。それはない。自分の力、それ

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  • 七〇〇万年の地層を分ける境界「鐙摺の不整合を示す露頭」 | Kousyoublog

    先日紹介した 鐙摺城址 から渚橋交差点方向へ数百メートル、葉山町を抜けて逗子市に入った切通しの道の脇に天然記念物「鐙摺の不整合を示す露頭」がある。 地層は様々な堆積物が年代ごとに順に溜まっていくことで形成される。年代ごとに堆積物の成分から違いがみられるが、その堆積の仕方によって、重なる二つの地層間に著しい時間隙がなく概ね連続的な状態を「整合」、隆起して削られた上に新規に堆積するなど地層間に相当の時間間隙があるものを「不整合」と呼ぶ。通常、地層は水中にあるなど観察することは難しいが、それが観察できる場所を「露頭」と呼ぶ。 その不整合な地層を観察できる露頭として有名な個所の一つがこの逗子葉山間の境界付近にある「鐙摺の不整合を示す露頭」で、神奈川県指定の天然記念物になっている。 画像は逗子市指定天然記念物一覧より。 三浦半島の地層は古いものから順に鴨川層、葉山層・三浦層群、上総層群・相模層群に

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  • 平清盛曾孫最期の地「六代御前の墓」 | Kousyoublog

    逗子駅から海岸回りで十五分ほど歩いた田越川に面した高台、仙元山の麓付近に六代御前の墓がある。 六代とは、平維盛の嫡男、平清盛の曾孫にあたる人物で、平正盛、忠盛、清盛、重盛、維盛と続く伊勢平氏の直系の六代目に当たることから幼名として六代と名付けられた。承安三年(一一七三)生まれ。平高清とも呼ばれるが、高清を名乗ったかどうかは確かではない。 平家の栄華を支える後継者として成長するはずだったが、治承四年(一一八〇)、以仁王の挙兵に始まる怒涛の戦乱は平家の滅亡と鎌倉政権の樹立によって幕を閉じ、平家滅亡後の文治元年(一一八五)、母新大納言局(藤原成親の娘)とともに京都偏照寺の奥、大覚寺の北、菖蒲谷とよばれる一帯に潜んでいたところを北条時政によって捕縛される。時政によって殺害されるところだったが、頼朝の強い協力者で平家打倒に暗躍していた僧侶文覚が頼朝に六代は自分の弟子であるとして助命を嘆願、赦されて文

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  • 1994年、アメリカ合衆国議会中間選挙。民主党、歴史的大敗。 | Kousyoublog

    1994年、アメリカ合衆国議会中間選挙。民主党、歴史的大敗。 2010/11/5 2015/3/14 アメリカ政治 1994年、アメリカ中間選挙で上院下院とも共和党が過半数の議席を制し、40年もの間続いた民主党の下院支配は終わりを告げ、就任2年弱にしてクリントン民主党政権は苦しい政権運営を強いられることになった。 当時、クリントンブームの熱気が醒めやらぬ中で共和党の圧勝をもたらしたものはなんだったか。それはクリントンの大統領就任をまず振り返る必要がある。 ■クリントン大統領誕生 1991年、ジョージ・H・W・ブッシュ政権は米ソ冷戦の終結や湾岸戦争での勝利など対外的成功で90%近い支持率を誇っていた。まさか、そのわずか一年半後に大統領選に敗れるなど夢にも思わなかっただろう。 同年5月、無名の若い州知事だった ビル・クリントン は1989年に設立された民主党の改革を訴え、新しい政策を模索する

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  • 1590年当時の東京湾(江戸内海)原地形図と江戸湊について | Kousyoublog

    先日書いた 東京湾の範囲 問題などもろもろ調べている過程で見つけた、1590年当時の東京湾(江戸内海)を中心とした原地形図。鈴木 理生 編著「 図説 江戸・東京の川と水辺の事典 」より。江戸前島半島の左沿岸、日比谷入江という表記の「江」の字と丁度平行な位置あたりが今の新橋駅、その対岸の高台に愛宕神社がある感じの位置関係ですね。また、古川は現在の渋谷川。 色々説明し出すと非常に様々な点に触れることになることもあって、それも今の理解ではなかなか難しいところではあるのだが、図の引用だけで終わらせるのも適切ではないので、簡単に触れると、前回の記事でも説明したように、三浦半島の走水から房総半島の富津洲へと横断航路が古代から発達していたが、それと交差するように、太平洋から東京湾への銃弾航路と、武蔵野台地の各河口に登場した湊(ミナト)同士を繋ぐ航路、さらに湊から河口を上る輸送路が古くから発達していた。

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  • 鎌倉はどこまでが鎌倉か? | Kousyoublog

    鎌倉はどこまでが鎌倉か?以下松尾剛次著「 鎌倉 古寺を歩く―宗教都市の風景 (歴史文化ライブラリー) 」より。 鎌倉時代、首都的な機能を備えていた都市鎌倉には鎌倉とそれ以外とではっきりとした違いがあった。例えば平安京が洛中と呼ばれたように鎌倉とされる地域一帯は「鎌倉中」と呼ばれ、まず行政単位として鎌倉中は保、鎌倉外は里という制度が敷かれ、各保には保奉行人という責任者が置かれていた。 鎌倉中の内と外との明確な区切りは、中世の境界がグラデーション的な観念であったことを反映して、当然のことながら曖昧ではあるが、鎌倉中の境として、東は六浦(現在の横浜市金沢区六浦)、西は稲村ヶ崎(鎌倉市)、南は小坪(逗子市小坪、北は山内(鎌倉市山ノ内)、または稲村ケ崎に変えて片瀬川(藤沢市片瀬地区)であったとされる。鎌倉時代を通して定期的に鎌倉中と外とを聖別し、悪鬼を鎌倉の外に追い払う祭礼「四境祭」が執り行われてお

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  • 葉山の総鎮守、森戸神社と森戸海岸 | Kousyoublog

    三浦半島西岸、葉山町の相模湾に面する森戸崎に位置するおよそ八〇〇年余りの歴史を持つ古い神社。引っ越したわけだし葉山の総鎮守に参らないわけにはいかないだろうということで、ちょっとがっつり調べてみた。 森戸神社の歴史と源頼朝 由緒書きには伊豆に流された源頼朝が源氏再興を祈願していた三嶋大社の祭神三嶋明神(大山祗命)を治承四年(一一八〇)九月八日、この地に勧請して森戸明神としたのだという。それ以前には小さな山王社が祀られていたという。 以後、この神社の境内には源頼朝の別墅(別荘)が造られていた他、森戸海岸から神社脇へと流れる森戸川の河口部は七瀬禊という七つの海岸で行われる儀式の場所の一つとされ、歴代将軍もここによく訪れていたという。鎌倉歴代将軍や有力御家人からの信仰が強く、天正一九年(一五九一)には関東に移封となった徳川家康が社領地七万石を寄進したのをはじめ、徳川光圀もここを訪れたことがあると伝

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  • 「忠臣三浦胤義遺孤碑」~なぜ彼は承久の乱で鎌倉幕府を裏切ったのか? | Kousyoublog

    「忠臣三浦胤義遺孤碑」~なぜ彼は承久の乱で鎌倉幕府を裏切ったのか? 2013/1/5 2015/4/3 逗子・葉山・三浦半島散歩 忠臣三浦胤義遺孤碑 承久三年(一二二一)の 承久の乱 で、後鳥羽院方に付いて敗死した 三浦胤義 の遺児たちが田越川河畔で処刑されたとする故事に従って、大正二年(一九一三)に地元の有志によって建てられた三浦胤義の遺児たちを弔った慰霊碑。京浜急行新逗子駅裏、田越川のほとりの駐車場の一角にひっそりと佇んでいる。設置当時の皇国史観が広がっていた社会を反映して天皇についた忠臣とされている。 胤義は鎌倉政権で北条氏に次ぐ勢力を誇った三浦氏の一族で当主義村の弟にあたり、稀代の謀略家として知られた義村の右腕として畠山重忠の乱、牧氏の変、和田合戦など数々の合戦や政略に力を発揮した人物である。建保六年(一二一八)からは検非違使尉として京都の治安維持の責任者の地位にあった。かつて

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