タグ

2010年1月29日のブックマーク (9件)

  • 秀吉「中国大返し」の謎(その3) - 国家鮟鱇

    豊臣秀吉の伝記として最も有名な小瀬甫庵の『太閤記』は中国大返しについて、「史実」とは大きく異なることが書いてある。 それによると、 6月3日 京都の商人、長谷川宗仁の飛脚によって能寺の変報がもたらされる。 6月4日 秀吉は何事もなかったように陣廻りをしていたところ、「毛利側から」使者が訪れて降参を請うた(毛利は5月下旬より再三和睦を申し入れていた)。秀吉も変報を聞いていたので受け入れようとは思ったが、5日の朝に返事をすると、使者を帰らせた。 6月5日 毛利側の使者に、「信長が殺されたことを隠さずに告げて」、それでも和睦するのか相談せよと言って使者を帰らせた。毛利軍の評議で、「年が若く勇みがちな人」は天の与えるところだとして、(和睦を)破って帰陣して様子を見るべきだと主張する者も多かった。評議が決しなかったところで、小早川隆景が発言した。 「信長が死んだことは秀吉にとって一応不吉なことだけ

    秀吉「中国大返し」の謎(その3) - 国家鮟鱇
  • 秀吉「中国大返し」の謎(その2) - 国家鮟鱇

    高松城の清水宗治が切腹したのが6月4日の午前。毛利側との和睦が成立したのは、高柳光壽説によればそれ以前のこと、谷口克広説によればそれ以降。 俺は谷口説を支持するが、いずれにせよ、和睦の時点で毛利側が能寺の変報を知らなかったという点では一致している。毛利陣が信長の死を知るのは、4日午後あるいは5日のことであるらしい。 羽柴秀吉がいつ高松城を出たのかというと、『川角太閤記』という史料では、「講和が成るやさっさと高松の陣を払って上って行ってしまう」(谷口克広)、「すなわち翌五日の午前二時ごろ秀吉自ら退陣出発した」(高柳光壽)とあるけれども、両氏ともそれを否定している。実際は6日の午後2〜3時頃に出発したらしい。 俺はこの間の経緯には「謎」があると思う。それは何かというと、4日の講和成立から6日の秀吉出発までの間が「空白」になっていることだ。その間、秀吉と毛利の間で何の交渉もなかったのだろうか?

    秀吉「中国大返し」の謎(その2) - 国家鮟鱇
  • 秀吉「中国大返し」の謎 - 国家鮟鱇

    中国大返し」とは、 Wikipediaの説明によれば、 秀吉は清水宗治の篭る備中高松城を包囲して毛利氏と対陣していた。 早くも6月3日には信長横死の報を受け、急遽毛利との和平を取りまとめた。6日に毛利軍が引き払ったのを見て軍を帰し、12日には摂津まで進んだ。ここで摂津の武将中川清秀・高山右近・池田恒興を味方につけ、さらに四国出兵のため堺にいた織田信孝・丹羽長秀と合流した。これらの諸軍勢を率いて京都に向かい、13日の山崎の戦い(天王山の戦い)で光秀を破った。この非常に短い期間での中国からの移動を中国大返しと呼ぶ。 ⇒能寺の変 - Wikipedia 天正10年(1582年)6月2日、主君・織田信長が京都・能寺において明智光秀の謀反により殺された(能寺の変)。このとき、備中高松城を水攻めにしていた秀吉は事件を知ると、すぐさま高松城城主・清水宗治の切腹を条件にして毛利輝元と講和し、京都に

  • JDS | ロベルトノート

    18〜19歳の頃の話。 高校卒業した後、専門学校に行くまで、1年間ブラブラと何もせずに過ごしていた。 自分が何をやりたいのかよくわかってなかったし、親父は僕のことを色々と言うので、とりあえずバイトをはじめた。地元の電器屋で、中古のゲームとCDも扱っているところだった。 そこにMさん、という女の人がいた。 同じくバイトで、23歳くらいだったと思う。元ヤンっぽく、派手な顔立ちで、化粧が濃かった。いつもブリーチした髪をいじっているし、大口を開けてガハハと笑うので、当時の僕はいつも下品だな、と心の中でバカにしていた。だが、バイト先では一番「女」な人だった。ノースリーブの服をよく着ていて、脇の下から黒いブラジャーがチラッと見える。伝わるかわからないが、当時は「黒いブラジャー=淫乱」みたいなイメージがあったのだ。バイト仲間でコソコソ、「今日、何色?」と聞き合うのが習慣だった。 バイトをはじめて数ヶ月経

  • サリンジャーのこと

    今朝、目が覚めて、しばらくベッドのなかでアイフォンをさわっていたら、サリンジャー死去のニュースを知った。1919年生まれだから、かなりの高齢ではあったが、それにしても、サリンジャーが死んだというしらせはなんだかふしぎな感じがして、そのまますこしぼんやりとしてしまった。 数年前にヴォネガットが死んだけれど、そのときにわたしが感じた気持ちは、今回とはすこしちがっている。なぜなら、実人生においてヴォネガットは、すこやかに、とてもよく生きたが、サリンジャーは、ごく控えめにいっても、彼の人生をじゅうぶんに享受し、よく生きたとはおもえなかったからだ。彼は作品を発表せず、人目を避け、森の奥にひっそりと暮らしていた。家のまわりには高さ2mの塀をめぐらせていたという。 だからこそ、わたしにとって、サリンジャーがまだ生きているというのは、とても意味のあることだった。彼の机の上には、十数作におよぶ長編小説の完成

  • 小沢氏、日米合意直後に沖縄で土地購入 普天間移設予定地から9キロ  (1/2ページ) - MSN産経ニュース

    民主党の小沢一郎幹事長が平成17年11月、沖縄県宜野座(ぎのざ)村で約5200平方メートルの土地を購入していたことが28日、登記簿や衆院の資産等報告書で分かった。建物もない「原野」で、使途は分かっていない。土地は米軍普天間飛行場の移設予定地に近く、購入直前に移設を盛り込んだ在日米軍再編の中間報告に合意していることから、投機目的の不動産取得と受け取られかねず、小沢氏の政治家としてのモラルが問われそうだ。 登記簿によると、小沢氏は17年11月28日、宜野座村漢那明記原(かんなみーきばる)にある1593平方メートルと、3601平方メートルの土地を購入した。 海岸に臨む土地で、用途区分は「原野」となっている。所有者は「小澤一郎」で、小沢氏の岩手県の自宅住所が記されている。土地には、抵当権は設定されておらず、現金で購入したとみられる。小沢氏の資産等報告書にもこの土地は記載されている。 小沢氏はこの土

  • 映画会社ミラマックスが廃業決定 『恋に落ちたシェイクスピア』などのオスカー受賞作手掛けた大手|シネマトゥデイ

    映画ファンにはおなじみのMIRAMAX FILMS 『イングリッシュ・ペイシェント』や『恋におちたシェイクスピア』など数多くのオスカー受賞作品を配給してきた映画会社ミラマックス・フィルムズが閉鎖され、ニューヨークとロサンゼルスのオフィスで働く80名の会社員は仕事を失うことになった。 1979年にハーヴェイとボブ・ワインスタインの兄弟によって設立されたこの会社は、独立系映画を専門にして配給を展開していたが、1993年にウォルト・ディズニー・カンパニーに7,000万ドルで買収された。 その後、クエンティン・タランティーノなどの気鋭の監督達と手を組み、一躍アメリカを代表する配給会社にのし上がっていった。 ADVERTISEMENT だが、次第に独立系映画作品から、オスカーなどの賞狙いのあからさまな大作を手掛けるようになったり、さらにアカデミー会員にも政治的影響力が行使されているなどの批判的な声が

    映画会社ミラマックスが廃業決定 『恋に落ちたシェイクスピア』などのオスカー受賞作手掛けた大手|シネマトゥデイ
  • 47NEWS(よんななニュース)

    上信越道で20~30台絡む事故 1人死亡、4人重傷、8人軽傷 警察官1人も巻き込まれけが(午後1時時点)

    47NEWS(よんななニュース)
  • 官報検索!

    2024年09月02日の官報の主なトピック ※マウスカーソルを充てると省略されている全文が表示されます。

    kousyou
    kousyou 2010/01/29
    こういうの欲しいと思ってた。すごい。