青い塗料で×印が書き込まれた。三崎港の岸壁に水揚げされた一本一本に。3カ月ぶりに戻ったマグロの街は一変していた。 マグロ漁船「第八全功丸」の乗組員で当時28歳だった石井富蔵(88)=三浦市白石町=はじっと見ていた。目の前では、検査官が放射線量測定器をマグロにかざしていた。「魚はもう駄目ですよ、という印。普段の入札は赤を使っていた。その時は、青だった」 第八全功丸が1954年5月ごろ、グアム周辺海域から三崎へ戻ると、港は大騒ぎになっていた。米国がマーシャル諸島・ビキニ環礁で行った水爆実験で、マグロ漁船「第五福竜丸」が被ばく。国は南洋漁場から入港した漁船に放射能検査を実施していた。 帰港して初めて、石井はその騒ぎを知る。 ■■■ 「家族のために働いてるんだって頭があれば、何事も腹が立たない」。石井はそう思い、厳しい仕事を耐え抜いていた。サバ漁からより収入のよい遠洋のマグロ漁師に切り替
東京から南東方向へ約4千キロ。太平洋のほぼ真ん中、見渡す限り真っ青な海が広がる眼下に、ビキニ環礁が姿を現した。 サンゴが隆起しててできた23の島が首飾りのように連なる。島々はヤシの木々の緑に覆われている。 その環礁の北西角に、ぽっかりと開いたくぼみが見えた。周りの明るい色と違い、海の青さは濃く深い。 通称「ブラボー・クレーター」。1954年3月1日、米国の水爆「ブラボー」の実験でできた。直径約2キロ、深さ約80メートル。海底にはすり鉢のように筋状の模様があり、中心に向かって深くなる。常夏の海に刻まれた「核の傷痕」だ。 広島原爆の1千倍の威力といわれたこの爆発で、周囲にあった三つの島が吹き飛び、放射性物質が広範囲にまき散らされた。事前に避難しなかった危険区域外の環礁の住民や、日本のマグロ漁船「第五福竜丸」など周辺で操業中だった船舶が「死の灰」を浴びた。 ビキニ環礁の地方政府によると、核実験前
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