タグ

古墳時代と古墳に関するkukurukakaraのブックマーク (24)

  • 弥生時代人の古代ゲノム解析から渡来人のルーツを探る - 東京大学 大学院理学系研究科・理学部

    DATE2024.10.15 #Press Releases 弥生時代人の古代ゲノム解析から渡来人のルーツを探る 発表のポイント 土井ヶ浜遺跡から出土した弥生時代人骨からDNAを抽出し、全ゲノム解析を行った。 弥生時代に朝鮮半島から来た渡来人が縄文人と混血し、現代日人に至る祖先集団が誕生したことがわかった。 渡来人の主要なルーツが解明されたことで、日人集団の形成過程に対する理解が深まることが期待される。 DNAを抽出した約2,300年前の弥生時代人骨 発表概要 東京大学大学院理学系研究科生物科学専攻のキム・ジョンヒョン大学院生(博士課程1年生)と大橋順教授の研究グループは、東邦大学医学部の水野文月講師、土井ヶ浜遺跡・人類学ミュージアムの松下孝幸館長らと共同で、山口県の土井ヶ浜遺跡(注1)でみつかった弥生時代人(図1)の全ゲノム配列解析を行い、弥生時代にユーラシア大陸東部から日列島に渡

    弥生時代人の古代ゲノム解析から渡来人のルーツを探る - 東京大学 大学院理学系研究科・理学部
    kukurukakara
    kukurukakara 2024/10/23
    “渡来人は東アジア起源であり埴原の二重構造モデルにおける主な渡来人のルーツを限定””Cookeらの三重構造モデルは支持されない”あくまでも二重構造だぞという学説.保留.
  • 発見90年の古墳はやはり鎌足の墓? 棺内に二つの冠、研究者が究明:朝日新聞デジタル

    90年前、大阪府の阿武山古墳で出土した棺に「大化改新」の際に定められた2種類の冠が副葬されていたことを、牟田口章人・帝塚山大学客員教授が明らかにした。被葬者は改新の功労者・藤原鎌足(614~669)…

    発見90年の古墳はやはり鎌足の墓? 棺内に二つの冠、研究者が究明:朝日新聞デジタル
    kukurukakara
    kukurukakara 2024/10/22
    鎌足の墓 阿武山古墳 雲
  • 古墳築造と埴輪製作のプロ集団でもある日本最古のスーパーゼネコン「土師氏」とは?|@DIME アットダイム

    古墳王子の早口コラム こんにちは、小学生の頃から古墳の魅力に目覚め、訪ねた古墳は3000基以上の高校生、古墳王子です。 このコラムでは皆さんにディープでマニアックな古墳の魅力が伝わるよう、僕が感じた感動や発見をオタク特有の早口でお伝えしていきます。 さて今回は、古墳時代のヤマト王権下で古墳の築造から葬送儀礼を一手に引き受けていたと考えられている、古代氏族・土師氏(はじし)について迫っていきたいと思います! 巨大古墳築造プロジェクトで大活躍!日最古のスーパーゼネコンの手腕はいかに!? 土師氏が手がけたであろう一番大きなプロジェクトは、日一巨大で世界遺産にも登録された大阪府の大仙古墳。宮内庁さんは地域の伝承などを元に仁徳天皇陵と治定してしまっているけど、実際のところは別の天皇陵かもしれない、未だ論争が絶えない古墳で、治定された明治時代以降立入厳禁となっていますが、近年周堤部の発掘調査が行わ

    古墳築造と埴輪製作のプロ集団でもある日本最古のスーパーゼネコン「土師氏」とは?|@DIME アットダイム
    kukurukakara
    kukurukakara 2024/10/22
    土師氏 野見宿禰 埴輪 渡来人 道教思想
  • 【太田茶臼山古墳】大和から山背へ、鴨(賀茂氏)のこん跡を追う【阿武山と阿部氏】 - ものづくりとことだまの国

    現在の大阪府茨木市〜高槻市(淀川の北岸エリア)は、古代に #三島 と呼ばれ、弥生出雲の有力な都市国家のひとつがあったと伝承されます。そのこん跡を探しに #太田神社 と #太田茶臼山古墳 をぐるりと回ってきました。#阿武山 #阿部氏 目次 太田神社(大阪府茨木市太田) 太田茶臼山古墳(宮内庁治定 継体天皇 三島藍野陵) 太田茶臼山古墳の真の被葬者とは? 賀茂氏の信仰の景観(原景) 文 太田神社(大阪府茨木市太田) 太田神社と太田茶臼山古墳 (34.8438304, 135.5768731)/大阪府茨木市太田3丁目15−1/阪急京都線・茨木市駅から近鉄バス(50301系統)太田バス停下車徒歩10分。JR京都線・総持寺駅北へ徒歩20分 太田神社(おおだじんじゃ、大阪府茨木市) 御祭神は、伊勢の内宮・外宮の女神様に、スサノオノミコトの三柱。 社格は高く延喜式の式外社(案内板参照) 御祭神:天照皇

    【太田茶臼山古墳】大和から山背へ、鴨(賀茂氏)のこん跡を追う【阿武山と阿部氏】 - ものづくりとことだまの国
  • 工事中に発見された高尾山古墳の謎 東西最古級の古墳から考える“東海勢力”が存在した可能性 | 歴史人

    列島に広く王権を広げて、やがて飛鳥時代・奈良時代へと発展していく大和王権に私たちは目が行きがちですが、古墳を造り始める3世紀の東日にも注目するべき遺跡があります。 ■道路工事現場から発見された高尾山古墳が示す古代史解明の可能性 日列島に国を開いた大和王権の履歴は、『古事記・日書紀』の主役ですから、わが国の古代史を研究するとき、どうしても近畿地方から西の地域が主体になる傾向にあります。 それは致し方ないことですしその研究は道ともいえますが、四国や北陸、東海・関東から東日の研究は、それぞれの地域では進んでいても体系的全国的にはあまり勢いを感じないような気がします。 しかしながら開発が進むと、どこにでも思いもしない大発見があるのが考古学の醍醐味です。最近の調査研究で、静岡県沼津市の道路工事現場から発見された全長約62mの高尾山(たかおさん)古墳に私は注目しています。 慢性的な渋滞解

    工事中に発見された高尾山古墳の謎 東西最古級の古墳から考える“東海勢力”が存在した可能性 | 歴史人
    kukurukakara
    kukurukakara 2024/08/03
    “前方後方墳の発祥地域が、東海西部地域だと考えられている点”前方後円墳は上円下方墳と同じく道教思想由来だと思うが.前方後方墳は本当に独自っぽく感じる.
  • 【纏向】吉備と大和の繋がりを考えるツーピース【孤文】【桃太郎伝説】 - ものづくりとことだまの国

    ホケノ山古墳展(終了)の関連展示で見た #纏向石塚古墳 出土の #孤文円板(複元)。展示会場の #橿原考古学研究所付属博物館(常設)に展示されていた #特殊器台 紋様とそっくり。共通するデザインから吉備と大和(纏向)の関係を考察 #桃太郎伝説 #吉備津彦 目次 見事なデザイン。纏向石塚古墳の孤文円板 吉備と大和を繫ぐ桃太郎伝説 記紀ベースで日の古代史を考える限界 文 見事なデザイン。纏向石塚古墳の孤文円板 先日、ホケノ山古墳展(橿原考古学研究所付属博物館、終了)で展示されていた纏向石塚古墳の孤文円板(復元)の美しい造作に、思わず見とれてしまいました。 纏向石塚古墳から出土した木片から複製した孤文円板 石塚古墳は円部:方部の長さが2:1くらいの纒向型前方後円墳というカタチで、いわゆる弥生時代末期の墳墓に属します。(そういう意味で古墳とは言いません) 石塚古墳を含む纏向型墳墓群と纏向遺跡と

    【纏向】吉備と大和の繋がりを考えるツーピース【孤文】【桃太郎伝説】 - ものづくりとことだまの国
  • 【昔ばなしの作られ方】田原本町の桃太郎伝説から読み解く古代史【川を流れてくる神酒(みわ)】 - ものづくりとことだまの国

    前回 #吉備と大和 について紹介しましたが、今回は #桃太郎伝説 を少し詳しく考察。#唐古鍵遺跡 と #纏向遺跡、大和川(初瀬川)を流れてきた甕の伝説、#吉備津彦 伝承を繋いでみました 目次 弥生期ヤマトのマツリゴトの中心地 「川を流れてきた甕」の伝承 吉備津彦と倭国大乱の時代 文 【前回記事】 www.zero-position.com 弥生期ヤマトのマツリゴトの中心地 奈良盆地の中央部をふるい奈良の人は 国中(くんなか)と言います。 弥生時代の国中は、弥生期に存在した大和湖(奈良湖)の水域〜湿地帯で、現在の田原町(唐古・鍵)一帯は、稲作弥生時代の水辺(神浅茅原、かむあさじはら)でした。 唐古・鍵の復元パノラマ(唐古・鍵ミュージアム) 唐古・鍵は、紀元前200年〜西暦200年頃の、弥生時代の「稲作経済」と「マツリゴト」の中心地で、木製農工具、絵画土器のほか、神殿を含む建物跡、銅鐸工房

    【昔ばなしの作られ方】田原本町の桃太郎伝説から読み解く古代史【川を流れてくる神酒(みわ)】 - ものづくりとことだまの国
  • 河原で拾った古墳時代の遺物は実は半世紀前の木更津高校で作られたレプリカ(模造品)だったことが分かった🏞️

    酸で溶かすなとかウエメセで言われてたりもしてたけど、よくよく考えてみれば千年以上前の鉄製品が河原の水に晒されて原型を留めることなんて有り得ないと思うよね(尤も発掘した時の原型を留めたままにさせるのは間違いではないが)。 勇み足だったSNSの考古学者達も少なからずいたと思うけど、社会学のように主観の集合体みたいなものなので上高森遺蹟のように見抜けなかったってことがここでまた明るみになってしまったな…。 また100年後か200年後か先に千葉県の佐倉辺りで埴輪が見つかったと大騒ぎしたら実は国立歴史民俗博物館で売られていた土産物でしたってことにもなりゃせんよね?(それはそれで貴重かも知れんけど) 江戸時代の茶碗🍚かと思ったら平成の廃屋🏚️の茶碗でしたってオチもありそうだよね。

    河原で拾った古墳時代の遺物は実は半世紀前の木更津高校で作られたレプリカ(模造品)だったことが分かった🏞️
  • 川で見つけた鉄の塊を酸で溶かしたら簡易な装飾が出てきた、なんでしょうね? →古墳時代の貴重な品だった

    山田邦和 @fzk06736 @fuuraibooo 古墳時代の双龍文環頭大刀です。非常に重要な文化財ですので、採集地点の役所の文化財保護課に連絡して指示を受けていただくことが肝要です。酸につけたのでしたら、これから内部に腐が進む可能性があり、せっかくの文化財が毀損いたしますので、一刻も早く専門の部局にご連絡をお願いします。

    川で見つけた鉄の塊を酸で溶かしたら簡易な装飾が出てきた、なんでしょうね? →古墳時代の貴重な品だった
    kukurukakara
    kukurukakara 2024/07/01
    “古墳時代の双龍文環頭大刀です。非常に重要な文化財ですので、採集地点の役所の文化財保護課に連絡して指示を受けていただくことが肝要”
  • 鮮やかなベンガラ色の○△『虎塚古墳』|茨城県ひたちなか市|のんてり

    東日を代表する「装飾古墳」と言われる『虎塚古墳とらづかこふん』。 その石室にはベンガラという赤い顔料で、丸や三角などの幾何学文様が描かれています。 普段は見ることのできない石室ですが、年2回の「壁画公開日」に先日行ってきました。 『虎塚古墳とらづかこふん』とは日全国で見られる古墳。その数は大小合わせ約16万基にも及ぶといいます。その中で「装飾古墳」と呼ばれるものが約700基ほど確認されています。 「装飾古墳」は、埋葬された人が眠る石棺や石室等に、線刻や彩色により文様や絵画などを施したものです。 その多くが九州にあり東日ではあまり見ることができません。 今回訪れた『虎塚古墳とらづかこふん』は7世紀前半頃に造られた「装飾古墳」の1つで、鮮やかな彩色壁画は東日では貴重な古墳として知られています。 『虎塚古墳とらづかこふん』のある一帯は、ほとんど起伏のない台地。近くには古墳時代末期~奈良時

    鮮やかなベンガラ色の○△『虎塚古墳』|茨城県ひたちなか市|のんてり
  • 装飾古墳の魅力!東日本珍しい前方後円墳 #古墳 - うめじろうのええじゃないか!

    記事はアフィリエイト広告を利用しています 記事内に商品プロモーションを含む場合があります こんばんわー さあ、良い子のみんなー!久しぶりに 古墳 de Go!のお時間だお~! 今回訪れたのはこちら! 茨城県はひたちなか市【虎塚古墳】desu!! 国指定史跡【虎塚古墳】! こちらの古墳は色鮮やかな壁画が遺されている「装飾古墳」(゜゜)wao! 装飾古墳といえば九州地域に多く分布しており、東日では珍しい!! 合わせて東日では珍しい「前方後円墳」で、しかも装飾古墳! 既にもう・・コーフンMAXですっ!!(゚∀゚)☆ クラブツーリズム テーマ旅行 おおお~・・・・ こんもりと盛り上がった不自然な膨らみ・・!! 丸く見えますが・・こちらは「前方」部分! 奥の方に見えるのが「後円」部分です・・! うわあ・・・なんか綺麗なカタチしてますねえ・・・!! ていうか・・こ・・コイツ・・・ デカいぞ・・(

    装飾古墳の魅力!東日本珍しい前方後円墳 #古墳 - うめじろうのええじゃないか!
  • 田中王塚古墳(田中古墳群1号墳) 滋賀県高島市安曇川町田中 - 墳丘からの眺め

    前回の田中36号墳ですが検索すると下記の”現説公開サイト”にて、動画も含め詳細な情報に接することができました。 田中古墳群(36号墳)現地説明会(2007/9/17)配布資料 田中王塚古墳への入口は、そこから80mほど先。 広範囲のマップで見ると、安曇川が平地に出ようとする、右岸の丘陵先端部に立地していることがわかります。 下記のサイトも今回知りました。地形が非常にわかり易い! 日の地形千景 滋賀県:安曇川の扇状地状三角州(デルタ) こちらが田中王塚への入口。 入口右側にあった安曇川町による解説板。 安曇陵墓参考地 当初は帆立貝式古墳で、周辺にある高塚4基の陪塚と共に宮内庁の所管となっております。「王塚」または「ウシ塚」と呼ばれ、地元では応神天皇の皇玄孫彦主人王の墳墓と伝承しています。 伝承では、彦主人王は近江国、北越五ヵ国を刺史として治めておられました。越前国坂中井の里より妃として迎え

    田中王塚古墳(田中古墳群1号墳) 滋賀県高島市安曇川町田中 - 墳丘からの眺め
  • 9.京都盆地と奈良盆地は湖だったのか? |関西高低差大学

    京都の古い資料を見ていると京都盆地はかつて湖だったといいう文言をよく目にします。奈良盆地に関しても、以前の関西高低差大学の講義終了後の質疑応答で、「奈良盆地には、万葉集が詠まれた時代に湖があったのですか?」という質問があり、「湖と呼べる規模のものがあったかは懐疑的だが、今度調べてみますね」とお答えし、私・新之介の宿題になっていました。地形のなりたちを遡っていくと京都や奈良にも海水が侵入した時期がありましたが、それらは何十万年も前の話で、インターネット上にはその痕跡として湖が残っていたというような記事が存在しているようです。今回は、学校では教えてくれなかった京都盆地や奈良盆地の湖のお話です。 まずは大阪層群の変遷のはなし大阪平野や京都盆地、奈良盆地などの地下には、「大阪層群」と呼ばれる地層が存在しています。礫・砂・粘土を主とする厚い地層で、その中に「海成粘土層」と呼ばれる地層が複数存在し、そ

    9.京都盆地と奈良盆地は湖だったのか? |関西高低差大学
    kukurukakara
    kukurukakara 2024/06/14
    “飛鳥時代の奈良盆地に湖があったとは考えにくいです。インターネット上には大和湖という説が散見されますが、そのようなものはなかった考えるのが一般的です。”
  • 田中36号墳(田中古墳群) 滋賀県高島市安曇川町田中 - 墳丘からの眺め

    胞衣塚を見た後は安曇川駅へ戻るつもりでしたが、大津京方面への電車まで40分ほどあったので、駅の北西方向にある田中王塚古墳へも行ってみることにしました。 古墳群のある丘裾までは水田の間をサイクリング。 youtube.com 坂道になってからは押して歩くことに。 カーブの内側に、かろうじて残った墳丘がありました。 道路脇に、田中36号墳という説明板。 田中三十六号墳(高島市安曇川町田中)) 田中古墳群は、泰山寺野台地の東端に位置し、これまでの調査で43基以上の古墳が確認されています。 古墳群の中心には、継体天皇の父である「彦主人王:ひこうしおう」が被葬者とされる田中王塚古墳があります。 36号墳(6世紀後半)は、古墳群でも最も平野部側に位置する古墳で、近年の発掘調査では、九州地域の影響を受けた横穴式石室が発見され、武器・馬具・須恵器・ガラス玉、耳環などの副葬品が出土しました。特に金銅で装飾さ

    田中36号墳(田中古墳群) 滋賀県高島市安曇川町田中 - 墳丘からの眺め
    kukurukakara
    kukurukakara 2024/06/14
    “壁面には赤色顔料 (ベンガラ)が塗布されていました。横穴式石室は、玄室を仕切り石で区切るなどの構造や形態から、九州地方に類例が認められる「石屋形」”海人集団の存在.
  • 歴史探訪 継体天皇出生の地 ~近江高島~ 前編

    (原文) 男大迹天皇(更名彦太尊)、誉田天皇五世孫、彦主人王之子也。母曰振媛。振媛、活目天皇七世之孫也。天皇父聞振媛顏容姝妙甚有媺色、自近江國高嶋郡三尾之別業、遣使聘于三國坂中井(中、此云那)納以爲妃、遂産天皇。 天皇幼年、父王薨。振媛廼歎曰「妾、今遠離桑梓、安能得膝養。余歸寧高向(高向者、越前國邑名)奉養天皇。」 (現代語訳) 継体天皇(別名は彦太尊(ひこふとのみこと))は応神天皇五世の御孫で、彦主人王の御子である。母は振媛(ふるひめ)という。振媛は垂仁天皇七世の御孫である。天皇の父(彦主人王)は、振媛が容姿端麗で大層美しいという噂を聞いて、近江国高嶋郡の三尾の別業(なりどころ)から使者を遣して、三国の坂中井(さかない=現在の福井県坂井市三国町) から(振媛を)迎え妃とされた。そして継体天皇がお生まれになられた。 継体天皇が幼年のうちに父彦主人王が薨去された。振媛は嘆いて、「私は今、遠く

    歴史探訪 継体天皇出生の地 ~近江高島~ 前編
  • 鴨稲荷山古墳 滋賀県高島市鴨 - 墳丘からの眺め

    今回からは滋賀県(琵琶湖西岸)の古墳旅になります。 大津市の百穴古墳を訪ねるツアーに午後から参加しましたが、午前は少し足を延ばして高島市の鴨稲荷山(かもいなりやま)古墳へ行ってきました。 湖西線の車窓から。琵琶湖大橋から北は湖面が広大ですね。 古墳巡りを始めた頃に、湖上から古墳を遠望するツアーに参加しましたが、もう10年も前になってしまいました… massneko.hatenablog.com 安曇川(あどがわ)駅で降りて徒歩だと20分の距離ですが、駅構内の観光案内所にレンタサイクル(一日500円)があったので利用しました。ママチャリですが3段変速で楽ちん! 鴨川を渡ったところに標識が。 道路脇の畑の向こうに展示施設。 墳丘はほとんど残っていませんが、明治期の道路工事で、未盗掘の副葬品が納められた家形石棺が”発見”されています。 滋賀県指定史跡 鴨稲荷山古墳 鴨稲荷山古墳は、安曇川と鴨川が

    鴨稲荷山古墳 滋賀県高島市鴨 - 墳丘からの眺め
    kukurukakara
    kukurukakara 2024/06/13
    “6世紀に擁立された継体大王に深く関わった三尾氏関連の古墳と考えられています”
  • 五色塚古墳 - 厚狭吉亭日乗・神戸残日録

    住んでいる神戸市垂水区にある五色塚古墳は、築造時に近い形で復元された古墳として聞いており、いつか行ってみなければと思いつつ月日が過ぎていたが、ここに来て二つのことで背中を押されようやく昨日腰をあげて訪れた。 ・俳句会でこの古墳のことを詠んだ句に出会った。 ・故郷の厚狭にある二基の古墳をきっかけにして少しづつ古代の事にも関心が向くようになった。 垂水駅から15分程度歩けば良いと思って海岸通りを西へ歩いたところ、近くまで来ても電車の線路を渡る道が無く、倍くらい歩いて次の駅まで来たところで線路を渡りその後大きく迂回して引き返す羽目になってしまった。 汗を拭きつつ管理事務所の方に聞くと北側に住宅街を抜ける道があるとの事で帰りはほぼ半分の行程で助かった。 五色塚古墳は4世紀の終り頃の築造とされ全長194m(墳丘高約19m)の前方後円墳、兵庫県では最も大きい古墳と言われる。以下の写真の通り明石海峡、淡

    五色塚古墳 - 厚狭吉亭日乗・神戸残日録
    kukurukakara
    kukurukakara 2024/06/10
    “全体を覆う葺石(ふきいし)はその一部が淡路島東海岸産ということがわかっている。また全体の葺石の量は計算上2784トンにも達するらしい”
  • とうとう見つかった古墳期の秋田市の片鱗…この意味が持つ意味とは? - 北海道~東北関係史検討グループ報告書

    https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/01/193325 「古代,中世北海道に文字は…必ずある」… これを前項としよう。 2024.5.31、秋田さきがけ新聞紙上で結構センセーショナルな秋田の考古学上の記事が載る。 引用してみよう。 「秋田市文化振興課は昨年実施した秋田市山王の遺跡「鋳砲所跡」の調査で、古墳時代 (3~7世紀)の5世紀後半のものとみられる竪穴建物跡や土器などを確認した。同市で 同時代の遺構や遺物が見つかったのは初めて。同課によると、大和政権の影響を受けた地域で波及した古墳文化の遺跡という。同課を所管する市観光文化スポーツ部の納谷信広部長は「古墳文化が県内に浸透していたこと が一層明確になった。古墳時代の秋田を明らかにする上で大きな手掛かり」としている。」 遺跡は秋田市山王で、 久保田藩が「鋳砲所」を設けた場所。 立

    とうとう見つかった古墳期の秋田市の片鱗…この意味が持つ意味とは? - 北海道~東北関係史検討グループ報告書
    kukurukakara
    kukurukakara 2024/06/04
    “古墳期と言えば「前方後円墳」だが、その北限は出羽側は山形、陸奥側で最北が岩手県奥州市の「角塚古墳」、今のところ秋田には無い”
  • 『古墳・モニュメントと歴史考古学』(雄山閣) - 著者:春成秀爾 - 磯田 道史による書評 | 好きな書評家、読ませる書評。ALL REVIEWS

    著者:春成秀爾出版社:雄山閣装丁:単行(328ページ)発売日:2023-12-27 ISBN-10:463902956X ISBN-13:978-4639029564 内容紹介: 歴史に関する知見はどこまで進歩したのか。最前線に立つ研究者が集結し、考古学の視点から歴史の真実に迫るシリーズ「何が歴史を動かしたか」第1巻「自然史と旧石器・縄文の考古学」以下、第2巻「弥生文化と世界の考古学」第3巻「古墳・モニュメントと歴史考古学」の全3巻。 卑弥呼など、実証の上に立つ推理考古学者は慎重居士だがこの論文集は違う。「真の考古学は実証の上に立つ推理の学であるべき」と、大胆に「推理」に踏み込んでいる。編者の春成秀爾(はるなりひでじ)氏は重鎮だが、なんと巻頭論文で、箸墓古墳は卑弥呼の墓であると推理。そればかりか、卑弥呼の出身地や女王に「共立」された詳細まで、最新考古学の「物証」から言える「卑弥呼」像を率

    『古墳・モニュメントと歴史考古学』(雄山閣) - 著者:春成秀爾 - 磯田 道史による書評 | 好きな書評家、読ませる書評。ALL REVIEWS
    kukurukakara
    kukurukakara 2024/06/04
    卑弥呼共立だけでなく,縄文、弥生についても.歴史考古学.2023/12
  • 奈良 斑鳩町 藤ノ木古墳で石室公開|NHK 関西のニュース

    kukurukakara
    kukurukakara 2024/05/27
    “石室の中に入り長さ2メートル30センチほどのところどころに朱色が残る大きな石のひつぎを、間近で興味深そうに見学していました”