ブックマーク / pikarrr.hatenadiary.org (11)

  • なぜマクドナルドはくつろげるのか マクドナルド型規律訓練権力 その1 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    マクドナルド化」はフォーディズムか ジョージ・リッツアは著書「マクドナルド化する社会」(ISBN:4657994131)において、マクドナルドの諸原理が世界中を席巻しているといった。「マクドナルド化」は、効率性・予測可能性・計算可能性といった合理化過程が生産現場から消費者とのサービスの場にも波及し、消費者の期待や行動もまた画一化、脱人間、非人格化しているという。 このためにマクドナルドでは「客は従順な家畜のように事する」といわれ、フォーディズムの延長で捉えられる。しかしはたしてそうだろうか。現代の消費者のようなわがままな人々をこうも簡単に家畜のように従順にするには、いかなる魔法があるのだろうか。 サービスの運動性 社会は豊かになり、消費者は商品として使用価値を求めることから、「サービス」を求めるようになった。サービスとは「売り買いした後にモノが残らず、効用や満足などを提供する、形のない

    なぜマクドナルドはくつろげるのか マクドナルド型規律訓練権力 その1 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
  • 不干渉社会が過剰な不安を生む日本の病い  - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    「日の病気は集団ヒステリー」 日の病気は、豚インフルエンザではなく、集団ヒステリーである、と。日は、今後も素晴らしい可能性があるいい国だが、いまは精神的に不安定で弱い、と。 国際空港ターミナルで、日人だけマスクマン。その光景は、国際道徳に反するなどではなく、滑稽だ。・・・ガラパゴス化は、技術ではなく国民性になってしまったようだ。 しばらく日テレビを見ていないので想像でしかないが、きっとメディアが、日々恐ろしいことを繰り返し、人々の恐怖をあおり、時には誰かを血祭りにし、その直後にお笑いなどのエンターテイメントを放送しているのだろう。そのメディアの「戦略」は、9・11以降のアメリカと同じである。そして、大きな物語に国民全員が飲み込まれていく。 「メディア・パンデミック。」 TSUYOSHI TAKASHIRO BLOG http://blog.honeyee.com/ttakash

    不干渉社会が過剰な不安を生む日本の病い  - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
  • 人間と動物の間で(仮):ボクたちがマクドナルドへいくのは食事に時間を割くよりも「重要なこと」があるからだ。

    なぜ人々は「マクドナル」へ行くのか 最近、コンビニ、ファーストフード、ファミレスなどチェーン店が爆発的に増加し、いわゆる「下町のお店」は廃れる傾向があります。このような傾向は「マクドナルド化(McDonaldization)」と言われ、効率最優先による人間性喪失ととらえられるますが、*1むしろ人々が望んで「下町のお店」よりも「マクドナルド」へ行くのではないでしょうか。 たとえばある商品を購入するときにたまたま持ち金が5円足りなかったとき、「下町のお店」では事情を説明して、5円ぐらいおまけしてもらえないかと交渉できます。すなわちお店は客に5円を贈与するのです。しかしコンビニでは5円だろうが、おまけすることはできません。これは金額の問題ではなく、「贈与関係の排除」がコンビニの存在価値の大きな部分を占めているからです。 コンビニでは、商品を購入する客がどのような人物かに関係なく、どの客にも同じマ

    人間と動物の間で(仮):ボクたちがマクドナルドへいくのは食事に時間を割くよりも「重要なこと」があるからだ。
  • 「肉食系女子」は日本を救うか - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    「草系男子」と「肉系女子」 「草系男子」、「肉系女子」という言葉が流行っているらしい。ボクはセックスが好きだし「草系」ではないと思うけど、彼女にまったく頭が上がらない方だ。まあその方が楽というのはある。過剰な「責任」を緩やかにかわす、とでもいうのだろうか。「責任」とは「男は強くあれ、女性を養うのが男のカイショウ。」というような日的な慣習なのだろう。 「草系男子」、「肉系女子」という表現は、「女性は強くなった」とともに、いまも日は根強い男性社会であるということの新たな表現ではないだろうか。 安定志向の「草系男子」  http://www.yomiuri.co.jp/komachi/news/mixnews/20090217ok02.htm 「草系男子」。異性と友達感覚で付き合い、酒を飲んでも乱れず、堅実な暮らしぶりが共通点だ。・・・「最近の20〜30歳代の男性は異性にガ

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  • なぜ「みんなロックで子供でいられる」のか - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    「みんなロックで大人になった」 NHK-BSの世界のドキュメンタリーで「みんなロックで大人になった」を見た。7回完結でロックの変遷をたどる。 「みんなロックで大人になった」  http://www.nhk.or.jp/wdoc/backnumber/detail/090105.html 第1回 ロックの誕生 第2回 アート・ロック 第3回 パンク・ロック 第4回 ヘビーメタル 第5回 スタジアム・ロック 第6回 オルタナティブ・ロック 第7回 インディー・ロック いろいろなポップミュージックを聴くが、どうしてもヘビーメタルは好きになれない。音がうるさい、暴力的ということではなく、なにか「ダサく」て生理的に苦手という感じであったが、番組の「ヘビーメタル」の回で、「ヘビーメタルは癒しのヒーリングミュージックである」という言葉を聞いて、好きになれない理由がなんとかくわかった気がした。 ロックミ

    なぜ「みんなロックで子供でいられる」のか - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
    kuroame2007jp
    kuroame2007jp 2009/01/21
    芸術/職人
  • なぜ2ちゃんねるはただのネットサービスになったのか - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    ただのネットサービスになった2ちゃんねる ひろゆきが2ちゃんねるを「譲渡」して責任者を降りたとか。(「2ちゃんねる、“言論の自由なき日”を見捨てた?」http://sankei.jp.msn.com/economy/it/090102/its0901021022001-n1.htm)形式的な対応だとはとも言われているが、しかし2ちゃんねるも10年近くですっかりネット界隈も様変わりしたなと、思うこのごろ。 このブログも5年近くなり、ネット界隈の観察も続けてきたが、その間にすっかり状況はかわったようにおもう。たとえば5年前はまだ日でブログが流行はじめで、mixiもなかったと思う。(「2ちゃんねるはポストモダンを越えていく」http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20060703#p1) なにがかわったか。2ちゃんねるはネットの特異な領域であって、また中心でもあり、「2ち

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  • なぜ現代の最大のイデオロギーは「商品」なのか - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    お風呂に入ると行為への意識が飛ぶ ボクはお風呂に入ると行為への意識が飛ぶことがある。お風呂は暖かくて血の巡りが良い、密室で集中できるなどあるからだろう。頭がよくまわる。いろいろ考えごとをしていて気がつくとお風呂から出ている。体を洗ったことは覚えているが、あれ隅々まで洗ったかな?と考える。考えとは別に行為が進められる。体の洗い方は毎日反復しているので自然と体が動くので、いちいち意識する必要がないのだ。 このようなことはそれほど珍しいことではない。たとえばいまPCのキーボードを叩いているが、いまS、次Aと意識などしていない。言葉にそって勝手に指が動いている。ボクはローマ字シフトであるが、これがひらがなシフトでの入力となると、キーボードを睨んで、「さ、さ、さ・・・あった!」と羽目になるだろう。意識はキー探しするためにフル活動で他のことには回らないだろう。 人が様々に行為するためにはいちいち意識せ

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  • なぜガリガリガリクソンは死ぬほど面白いのか - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    狂気の笑いは鳥居みゆきで終わった 笑いには、「ボケる→観客笑う」の間に「ボケる→小さな間→観客笑う」というように、「間」がある。笑いとは緊張と緩和だと言われる。ボケは非日常であり、場に小さな緊張を生み出す。それが「間」である。そして一瞬でそれがボケであることが了解され、緊張が緩和されることで笑いが生まれる。一瞬の「間」のあと観客が一斉に笑う。ここではボケがあえて行われた演技=アイロニー(ユーモア)ということをみなで了解しあう。 しかしもはやこれだけお笑いが氾濫している中ではちょっとしたボケでは緊張は生まれない。緊張が生まれなければ、笑い(緩和)もない。だからここしばらく、流行っていたのは「狂気の笑い」である。 いまや刺激を生み出さなくなったHGや小島よしおなどもそのはじめは、この人はほんとうに危ない人なのではないかという不気味な存在として登場した。その狂気によってボケに緊張を生み出したえた

    なぜガリガリガリクソンは死ぬほど面白いのか - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
  • なぜ自由と平等は病なのか コンベンションと統治技術 その4 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    コンベンション(慣習)から言語世界へ 近代化とはなにか。歴史学の大きな謎の一つであるが、教科書的には人文主義という人間への自覚に始まると言われる。これを説明するのに社会の都市化がある。都市は様々なコンベンションが交差する地点である。そこに村社会のコンベンション(慣習)への埋め込まれからの「気付き」だろう。 身体が埋め込まれた環境から言語世界への移住である。身体に刻まれたコンベンション(慣習)は簡単にかわらない。それに対して言葉はいくらでも好きに語れる。身体は嘘をつけないが言葉は簡単に嘘をける。都市という流動性の高い環境では言葉のもつ操作の容易さが重要になる。 近代化とは都市化であり、そしてなによりも言葉の時代である。主権者はいままで以上に法を語り、商品という言語記号が飛びかう。土地、労働は商品(言語)化される。 そしてデカルトのコギトは都市に生まれる。デカルトの懐疑とは言葉の世界ではじめて

    なぜ自由と平等は病なのか コンベンションと統治技術 その4 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
  • なぜ「主権者とは例外状態で笑う者である」のか。 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    面白いから笑うのではなく、笑うから面白い フロイトが笑い(機知)の分析にこだわったのは偶然ではない。笑いは一見、動物的な生理反応のようだが、言語と深く関係するのだ。笑いは例外状態に関係するのである。例外状態とはまさにシュミットが言った意味である。「主権者とは例外状態の決断者である。」 権力者がよく笑うのは決して偶然ではない。「主権者とは例外状態で笑う者である。」といってもいいだろう。権力者が笑うのは余裕の現れという安易な理由ではない。笑いとはその場への積極的な介入を意味する。笑うその一瞬前に例外状態がある。場が凍る。そのわずかな一瞬を笑う。笑うことは権力的な行為なのである。 笑いは決して先行しない。面白いから笑うのではない。笑うから面白いのだ。そこには、これは面白いという決断がある。決断者が笑うことで対象は面白いことになり、みなが従う。この決断者を従う者のズレはあまりに短く、同時であるよう

    なぜ「主権者とは例外状態で笑う者である」のか。 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
  • 「自由に享楽させろ」  享楽自由主義の時代 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    ①「社会的」欲望と「脱社会的」享楽 強烈な生物学的快感は享楽として、社会的に禁止(去勢)されている。しかしバーチャル技術はそれを可能にしつつある。享楽に溺れるものは社会活動に支障をきたすだろう。そして享楽の場は広がっている。ゲーム、容易なセックス、ネットコミュニケーションなとなど。 それは言語が溶解する地点である。欲望はその前で踏みとどまらせるための社会(言語)的機能である。欲望は構造化されたイメージ、すなわち社会(言語)に許容される対象を欲望するが、享楽にはイメージはない。ただ身体的、生物学的、社会(言語)外にある快感である。 SMは社会的であり、「(社会的な)反社会的」イメージの欲望である。社会的に高い地位の人にSM指向が強いと言われるのは、社会性に対する反社会がその快感の原動力になっているからだ。しかしドラッグそのもの快楽にはイメージはない。ドラッグへ向かうとき、はじめは「(社会的な

    「自由に享楽させろ」  享楽自由主義の時代 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
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