はじめに 1.法隆寺の大御所~雷親爺~ 2.喜田貞吉、薄田泣菫の描いた北畠冶房 3.北畠冶房の生い立ち、略伝 4.近代法隆寺と北畠冶房 (2) 百万塔の売却 明治11年の「宝物献納」で、財政上の危機をしのいだ法隆寺であっ たが、それから30年程を経て、再び資金不足の問題に直面していた。 時の管主は、千早定朝、秦行純の後を受けた佐伯定胤であった。 諸堂、諸仏の修理の費用などでの借り入れが、利息とともに7200円余にも膨れ上がっていた。 佐伯は一刻も早く何とか借金を返済し、寺門維持の基金確立をはからねばと苦慮する日々を送っていた。 その結果、寺僧と信徒総代が協議し、「寺役勤行上不用ノモノ」である百万塔3千基と屏風(紙本山水人物画無款伝秀文筆)を信徒に譲与して3万円を勧募 し、まず負債を消却しその残余金を基金とすることを議決した。 明治40年4月、奈良県知事宛にその旨願い出ている。 百万塔
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