ブックマーク / shinichiroinaba.hatenablog.com (7)

  • 新しい終末論(ないしそれに代わる歴史目的論)としての長期主義 - shinichiroinaba's blog

    マッカスキルを読んで面白いと思ったのは、長期主義は新しいタイプの終末論というか、歴史目的論だなというところ。コジェーヴを引き継いだフランシス・フクヤマの「歴史の終わり」論なんかもあるし、そうするとそれらを踏まえた東浩紀の動物化論も終末論と言えるのかもしれないが、分析的伝統に立った哲学的倫理学においてこういう形で歴史哲学の復権が起こるとすると面白い。 もちろん終末論といってよいかどうかはわからないが人類絶滅の可能性、存亡リスクについてはかねてからボストロムが論じてきたところではあり、その背景には当然終末論法、そして人間原理の宇宙論がある。ただボストロム自身は存亡リスクを深刻に受け止めている一方で終末論法自体は受容していなかったのではないか。 人間原理は(語弊のある言い方をすれば)この現時点における人類文明を(人によってはその一員である論者自身の実存を)開闢いらいの全宇宙史の帰結として位置づけ

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  • 「理論社会学I」(@筑波大学)配布資料より - shinichiroinaba's blog

    http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20120615/p2 の続きとして読んでいただきたい。 実は以上に述べてきたような意味での「全体性」の理解を前提にして初めて、『入門』で触れた「方法論的全体主義」=社会学的「全体論」の意味も、更には、『入門』巻末の付録において「宿題」として提示した、クワイン=デイヴィドソン的な「意味の全体論」との関係もある程度明らかになってくるのである。 『入門』では「方法論的全体主義」における「全体」という語で示される対象を、実体としての「全体社会」などという具体的には存在しないものから、「社会的に共有される意味・形式」を共有する人々やその関係性へとずらしたが、そのような「意味」もまた、一つひとつの言葉、表現のレベルで独立したものではなく、「全体」をなすことを指摘するのが、クワイン=デイヴィドソン的な「意味の全体論」である、と

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  • 「社会科学基礎論に関する2,3の話題提供」@東大社会学 メモ(25日追記) - shinichiroinaba's blog

    『社会学入門』「社会学の居場所」においては、対象を支配する一定の法則の具体的内容を前提として、そこから対象のふるまいを予測しようとする姿勢を「工学的」、それに対して対象を支配する未知の、しかし一定の法則の存在を仮定し、その法則の具体的内容を探り当てようとする姿勢を「科学的」と呼んだ。そしてそれに対して、理論社会学の一部(ポスト・パーソニアンの社会システム論)を支配した欲望を、法則そのものの多様性、更には可能であればその法則そのものの変容を支配する更なるメタ法則の理解を目指すものと解釈した。 しかしそのような欲望には質的に倒錯的なところがあり、どのような「メタ法則」を想定しても必ずやその背後に更なる「メタメタ法則」を想定してしまうことができるがゆえに不毛である、と『入門』「居場所」では断じた。それはちょうどカール・ポパーがマルクス主義を「歴史(法則)主義」と批判したのと同様の論理である。

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  • 「占有」について - shinichiroinaba's blog

    いい加減なノート。やっと立岩理論の意義と限界が見えてきた感あり。 ============================ 昨今の「市民社会」ブームの中ではほとんど忘れ去られていた、戦後日マルクス主義の一ウィングとしての「市民社会派」はマルクス『経済学批判要綱』の用語法で言うところの「領有法則の転回」を資主義理解の鍵となし、「労働に基づく領有」から「蓄積された労働=資に基づく領有」への転回を、来の市民社会からその頽落形態としての資主義社会への転化の態と考えた。そして剰余労働の搾取に基づく資主義社会は否定しても、「労働に基づく領有」を基軸とする市民社会は肯定しようとし、そこにおける所有をマルクスの用語法に従い私的所有とは区別される「個体的所有」と呼んで、社会主義革命をその再建、すなわち所有の否定ではなく変容、来のあり方への回帰として理解しようとした。 このような理解に対して、

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  • 竹内洋『革新幻想の戦後史』(中央公論新社) - shinichiroinaba's blog

    革新幻想の戦後史 作者: 竹内洋出版社/メーカー: 中央公論新社発売日: 2011/10/22メディア: 単行購入: 6人 クリック: 116回この商品を含むブログ (39件) を見る 『諸君!』から『正論』へと書き継がれた連載のまとめ。いまや『正論』は『諸君!』の受け皿もしなければならんのか。 いけのぶ先生のおっしゃるのとは違って読み物としてそれなりに面白いし、格的な研究への糸口となるヒントが満載である。小熊英二の連作と併せ読まれるだろう。 戦後教育学界、東大教育学部関連の叙述は下品になる手前で抑制されており、苦笑いが出る。ここでも「潮木守一先生はすごい』になってまた苦笑。 なお旭丘中学事件に関連して、気になった参照文献: 「良心」の教育神話―戦後教師文化と学校崩壊 作者: 大久保正広出版社/メーカー: 文芸社発売日: 1999/09メディア: 単行この商品を含むブログを見る 同じ

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  • 『社会学入門』付録以来の宿題 - shinichiroinaba's blog

    前著の付録では社会学的全体論とクワイン=デイヴィドソンの意味・信念の全体論との対応付けと統合という課題が手付かずのまま放り出されていた。 その宿題を果たすべく書きなぐっているメモ。そのおかげでようやくベイジアンとかラムジー哲学とかも齧る覚悟が付いたのだが。 何か間違ったことなど書いていればご教示ください。 おそらく我々はドナルド・デイヴィドソンが遺した「思考、意味、行為の統一理論」の構想を人間社会科学の一般理論の基礎として役立てうるのではないか。 デイヴィドソンの哲学体系は一見、行為論、その延長線上での「非法則的一元論」としての心の哲学と、アルフレッド・タルスキの真理論を基礎とした、真理条件意味論を主軸とした全体論的言語哲学の二側面からなるものとしてわれわれの目に映る。しかしこの両系列は80年代以降、デイヴィドソンが「統一理論」「合理性の科学」と呼ぶより大規模な構想の中に回収され、統合され

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  • 東京大学教育学部教育学特殊講義「統治と生の技法」 - shinichiroinaba's blog

    第2回目というか実質的に初回。(ちなみに昨日の戸塚の「社会学」は台風で休講。) ある時期までプリントを配るということをしていたのだが、何だか紙ごみを大量生産しているだけという気がしてきて、ここしばらくはもっぱらしゃべりと板書のみ。事前に用意したメモも自分用にのみ用いて、折を見てネットにアップする、という風にしている。今年度は自作教科書も用意したし。 今日は感想を書かせたら「パワポもプリントもない講義は新鮮」との声が。うーーんとね、パワポ使わないのはめんどくさいから(だけ)じゃないよ。 http://d.hatena.ne.jp/optical_frog/20080129/1201557684 ということで配らなかったメモを少しだけ公開しよう。受講者でここを見てる人はお友達に教えてあげてもいいし、あげなくてもいい。ぼくからアナウンスするかどうかは知らない。 *マルクス主義の不健全さ 参考:拙

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