両価的な他者性が描き出す可能性――エヴァとエロゲと赤い浜辺と - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地 上記リンク先を読んで、End of Evangerlion*1の惣流アスカのことを思い出した。リンク先の人は「End of Evangelionのアスカは、シンジにとって都合の良い相手」という表現をしていて、美少女恋愛ゲームのキャラクター達と同じ役割を与えられていると解釈しているようだが、強い違和感を禁じ得ない。 この機会に、1997年のEnd of Evangelionで描かれた惣流アスカと、「萌え」に供されるような美少女キャラクター達との対照的な姿を再確認したうえで、今後のヱヴァ劇場版シリーズが描き出すであろう「他者とのコミュニケーション」について若干の考察を付け加えてみようと思う。 「キャラ萌え」に突入した時代と、End of Evangelionという作品 新世紀エヴ
エヴァンゲリオン・コンプレックスを克服した涼宮ハルヒの憂鬱は最強。 - HINALOG 2.0 追記・ハルヒの構成とか、エヴァコンプレックスの話とか - HINALOG 2.0 “『涼宮ハルヒ』は、『エヴァンゲリオン』を克服しました!おめでとうございます!ウジウジしたシンジも、出来損ないアスカも、心の欠けた綾波レイも過去のものです!ハルヒはアスカを、キョンはシンジを、長門さんはレイを超えました!葛藤は解消されました!涼宮ハルヒばんじゃーい!∩( ・ω・)∩” (注:この文章はリンク先とは関係ありません。リンク先の方は至って冷静です。) さて、本当に克服したのかな?いや、とんでもない!リンク先の方が後述しているように、エヴァでオタク達に突きつけられたオタク達自身のコンプレックスなりわだかまりなりは、未だ克服されていない。オタクは未だ、シンジのようであり、アスカのようであり、レイのようであって
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く