新聞校正の世界に市川清流を招いたのは、東京日日新聞社長の福地源一郎(桜痴、1841〜1906年)である。清流の生涯を方向付けた人物の一人であり、「校正畏(おそ)るべし」の言葉で校正・校閲の重要性を新聞人たちに認識させた功績は大きい。邦紙初の社説掲載をスタートさせ、紙面上の難解な表現を排した「達意」を主張するなど明治初期を代表するジャーナリストの原点はどのようだったのか。 薄明かりの日が時折差し込む午後、長崎公会堂前の長崎歴史文化協会(長崎市桶屋町)事務所で、協会理事の松沢君代さん(72)は「福地はわがままというのか…がんこなのか…」と口を開いた。笑顔である。 松沢さんは、協会発行の短信に「忘れられた人」とのタイトルで福地に関するエッセーを書いた。「欧米の長を採ろうとすれば、日日新聞の福地君の論説を見なければいけない、とまで云われた福地が、存命中でさえ『忘れられた人』と云われたのは何故か。彼