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
その人にしか語り得ない境地というものがある。人生は十人十色だが、特殊な技能が必要で、なおかつ特異な環境に我が身を起き続けた人の軌跡はとりわけ面白い。 本書は、若くして潜水の才能を発揮し、宮城の海から無数の遺体を引き上げてきた男・吉田浩文の激動の半生を綴る克明の記録である。 初めての遺体引き上げは1996年。死者は交番勤務の男性警察官で、車ごと海中に突っ込む入水自殺であった。 岸壁が関係者でごった返すなか海に潜り、遺体の青白い顔に鳥肌が立ったものの、車に手早くワイヤーをくくりつけ、的確にクレーン引き上げを指示した。祖父の代から潜水業を営み、高校は日本で唯一の潜水土木を専門で教える岩手県種市高等学校に進学。29歳の若さとはいえ潜水士としては10年以上のキャリアを持つ吉田には容易い仕事だった。 機動隊や海上保安部のダイバー隊員をはるかに上回る高い技術を買われ、警察から次々と遺体引き上げ案件が舞い
10年前の東日本大震災で800人以上が犠牲になった宮城県南三陸町で、高校生や高校教師が人命救助や遺体の搬送などを行った状況を記した手記をNHKが入手しました。 人の生死に関わる具体的な内容が含まれていて、初めて明らかにした高校教師は「風化させないためにありのままの震災を知ってほしい」と話しています。 手記は当時、宮城県南三陸町にある志津川高校で教師を務めていた百々智之さん(42)が震災の1か月後に書いたものです。 高台で津波の被害を免れた志津川高校では、当時校内にいた教師や生徒、住民などが高台から駆け下りて特別養護老人ホーム「慈恵園」に向かい、一時救助活動をしましたが、その詳しい状況は知られていませんでした。 百々さんの手記は、慈恵園での救助も含め3月11日から16日までの5日間について記されています。 手記によりますと、百々さんたち教師と生徒ら十数人は津波の第1波が引いた直後に浸水域に駆
東日本大震災で被災した子どもたちへの支援などに取り組んできた、プロレスラーのタイガー・ジェット・シンさんが、長年暮らすカナダで日本の総領事から表彰されました。 インド出身のタイガー・ジェット・シンさんは、日本でもアントニオ猪木さんと名勝負を繰り広げるなど昭和を代表する悪役レスラーとして活躍しました。 そのかたわら、長年暮らすカナダでは、みずからの名前がついた財団を通じ社会貢献活動に取り組んでいて、10年前の東日本大震災の直後にはおよそ2万カナダドル、日本円で160万円以上の寄付金を集め、被災地の子どもたちにおくりました。 こうした功績をたたえ、トロントの日本総領事は25日、タイガー・ジェット・シン財団を表彰しました。
本展は、東日本大震災の記録を伝える手法を「思索」し、さまざまな角度からその継承を「試作」する、ひとつの「施策」として位置付けられた《継承のしさく》シリーズの一環として実施されます。多様な表現活動における、ある種の「詩作」を媒介とした継承のあり方を探究します。 仙台在住のかおりさん(仮名)は、初めての出産を経験した10年前から育児日記をつけ始めました。本展は、その再読をとおして彼女が思い出した“はれたりくもったり”な日々をたどり直すものです。 今もこの街のどこかで暮らすひとりの人間の誰にも語られるはずのなかった言葉に触れるとき、彼女と異なるひとりの時間が彼女と同じように流れていたことを、あなたは思い出します。 *企画展に先駆けて、震災の前後に生まれた子どもの育児者を対象に、この10年を振り返るワークショップを実施しました。その参加者の一人がかおりさんでした。 *かおりさんは出産後の日々を綴っ
■「父が亡くなりました。原因は新型コロナによる肺炎です」から始まる経緯が辛い現実過ぎる…「弟さんが心配」「より一層気を付けたい」など https://togetter.com/li/1658485 ■田村 ゆうき 1月21日 19:28 · [ 祖母がコロナで死にました ] 何の因果でしょうか。 私の埼玉の祖母がコロナで死にました。 1/9の22時39分、埼玉の病院から電話が来ました。 91歳でした。 もともと祖母は3年前から人工透析を続け、 去年の11月から下血が始まり、 食事も取れないので点滴で栄養補給し、 医師からは 「あと1〜2ヶ月持つかどうか...年越しは出来ないと思っておいて」 と告げられていました。 https://www.facebook.com/yugi.tamura/posts/1835425119944899 続きを読む
未曽有の犠牲者を出した東日本大震災。被災者の悲嘆と再生を長期にわたり取材した外国人ジャーナリストは、日本人のレジリエンスをどう見たのか。日本在住20年以上の英国人記者リチャード・ロイド・パリーさん(51)に聞いた。(聞き手・構成 渡辺志帆) ――2017年に「津波の霊たち」の英語版を出版しました。東日本大震災を主題に本を書こうと思ったのはなぜですか。 震災が起きた時、私は日刊紙の記者として3月13日朝には宮城県に入り、現場から様々な記事を書きました。ただ当初から、このような巨大で複雑な災害は1本の記事や、長い特集記事であっても書ききることは不可能で、書籍が向いていると感じていました。書籍でもすべてを書くことはできません。ですから、巨大な災害を象徴するような一つの物語を取り上げて、その詳細を書こうと思いました。しばらくたって石巻市立大川小学校の悲劇を知りました。一つの場所であまりに多くの子ど
東京・銀座で托鉢(たくはつ)を続け、東日本大震災の被災地で死者を弔い続けた一人の僧侶が、新型コロナウイルス感染症で亡くなった。66歳。「まだ、どこからか現れそうだけど―」。その精力的に動く姿を知る人は、突然の死に衝撃を受けている。
はてな匿名ダイアリーというものの存在自体は割と昔から知っていたが、 時たま読むことはあれど書き手としては縁がないものだと思っていた。 ふと急に、今日一日考え事をしていてどうしてもどこかに書いておきたくなった。誰かに話したいのかも知れない。 文章を書くことは苦手で、ここ特有のルール(そんなものがあるのかすら知らないけど)もわからないので、 色々と不備があるかも知れないけれど、おぼろげな記憶をたどりながら思いのままに書いてみようと思う。 30年前、私は子供だった。 近所に1つ下の幼馴染が住んでいて、その家には正月や盆など毎年数回ずつ兵庫から九州へ親戚が里帰りに来ていた。 母親とその子どもたち3人。長男(以下、A太)と妹2人(B子、C美)という構成だ。 シングルマザーだったのかな。幼かったのでそこの記憶がない。 A太は私よりいくつか年上で、B子は1つ下、C美はさらに2つ下だったと思う。 歳が近い
神戸で生まれて高校まで神戸で暮らした。 大学で初めて出来た彼も神戸の人で、二人とも神戸の街が好きだった。 正月は一緒に帰省してお互いの家に挨拶にいったり、お互いのお気に入りの場所を回ったりしていた。 東京に戻った10日後に地震。 全く電話が繋がらなくて不安だったけど、2日経ってようやく向こうからかかってきて家族も家も無事なことを確認した。彼の家も無事だった。 テレビからは大好きだった街や建物が破壊されてる映像が流れてくる。 怖かった。 家族以外の友達に連絡するのもなんか怖くなった。 亡くなってたら悲しいし、もし無事でも家が壊れてたら、なんて言えばいいのかとか、よくわからない事を考えてた。 高校時代毎日遊んでた友達もいたのに、安否を確認するのがとにかく怖かった。 彼とはその年のうちに別れた。 少し冷静になると、今度は罪悪感が生まれてくる。 なんで友達に連絡しなかったのかとか、帰れるタイミング
新型コロナウイルスに感染し回復したあとも、けん怠感や息苦しさ、それに味を感じない味覚障害といった“後遺症”とされる症状は若い世代にも多くみられるとして、医師は「新型コロナウイルスを軽く考えてはいけない」と訴えています。 東京 渋谷区にある「ヒラハタクリニック」では、去年3月以降、新型コロナウイルスの“後遺症”とみられる症状を訴える患者、700人以上の診療を行っています。 平畑光一院長によりますと、14日までに症状を分析した475人の患者のうち、10代から30代の若い世代が全体の47%に上ったということです。 新型コロナに感染したものの症状が軽い「軽症」とされ、宿泊施設や自宅で療養したあとに、後遺症の症状を訴える人が多いということです。 具体的な症状としては、複数回答で、けん怠感が95%、気分の落ち込みが86%、思考力の低下が83%、息苦しさが75%、髪の毛が抜ける脱毛が50%、味覚障害が3
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