越前松平家(えちぜんまつだいらけ)は、越前国を発祥とした松平氏庶流であり武家・華族だった家。越前家ともいう[2]。徳川家康の次男・結城秀康を家祖とする一門全体を指す場合と、その領地の場所から福井松平家(福井藩)のみを指す場合があった[3]。江戸時代には一門から複数の親藩大名家(家門)が出、明治維新後には侯爵に叙された福井松平家を筆頭に10家が華族に列した[4]。 家祖の秀康は、長兄・信康自刃ののちは家康の庶長子であったが、豊臣秀吉の養子となって徳川家を離れ、のちに下総結城氏を継いだこともあって、徳川家の家督および将軍職の後継者に選ばれなかった[5]。関ヶ原の戦いののち、秀康は越前国北荘(福井)に68万石を与えられた[6]。これにより越前松平家が成立する。『福井県史』は、秀康の越前入封を加賀・前田氏に備えたものとしている[7]。 「家康は秀康が重篤と知るや、100万石の朱印状を出したが、秀康