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ブックマーク / d.hatena.ne.jp/naoya_fujita (5)

  • the deconstruKction of right

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  • 伊藤計劃以後とは何か? - the deconstruKction of right

    「伊藤計劃以後」に大変腹を立てているブログを見つけたので、いくらかの反論を書きたいと思います。 ■伊藤計劃はキリストを超えた。わけあるか。くたばれ。 http://anond.hatelabo.jp/20140308193257 以下、引用。 彼の死後、同社より、関連書籍の刊行が相次いだ。 『伊藤計劃記録』をはじめとして、ブログ及び個人ページに書きためていた映画評、 同人雑誌への寄稿が次々と出版され、多くの読者たちの手に渡った。 『記録』の主な素材は短編小説のほか、彼のブログに重ねられた書き捨ての文章である。その時既に彼の文章は死者の書物として上書きされていた。 だが、それらの文はインターネット上といえ、確かに人に見せるために彼自身の手により発信されたものだ。公開できるものとして。自らの分身として。 豚はその皮をい破り、腸を捕まえる。裂け目から沸きだした臓物の汁の一滴まで啜り続ける。 そ

  • 「コミュニケーション/コミュニティ化するアート」への、一批評家の、ちょっとした疑問 - the deconstruKction of right

    現在開催されている、福島県の土湯で開催されている、アラフド・アートアニュアルについてのシンポジウムでしゃべらせていただいたものの原稿です。2013年8月31日に東京大学情報学環・福武ホール ラーニングスタジオで、北田暁大さん、鉾井喬さん、CAMPの井上文雄さん、藤井光さん、ユミソンさんと行いました。その基調講演の原稿です。「関係性の美学」については、ぼくの雑駁な見解に対し、藤井光さんが見事な要約と文脈捕捉でより適切な理解を示してくださったことを補足いたします。 「コミュニケーション/コミュニティ化するアート」への、一批評家の、ちょっとした疑問 藤田直哉 どうも初めまして。批評家の藤田直哉と申します。美術批評を専門としている人間ではありませんが、AR美術作品で高く評価されているni_kaさんと行動を共にしていることが多いため、様々な現代アートの作品や、若手と出会い、お話する機会などを得てきま

    laislanopira
    laislanopira 2013/09/18
    芸術が地域活性化の面から評価されようとする/「地域活性化」や「経済効果」を持ち出して正当化するのに、長期的なものだとか、芸術だとかいう理由を持ち出し、評価を行わないことを正当化している
  • 「ネット一揆」について――「ゾンビ」の「管理」への蜂起? - the deconstruKction of right

    1月20日の神山睦美さんと笠井潔さんのトークショーで、現代の叛乱の場はネットに移っているのではないか? という議論をしたかったのですが、時間が来てしまい、その話に入れませんでした。実は「日オタク大賞2011」での話とも接続させたかったのですが、「日オタク大賞」でのトークも駆け足で、色々と紹介するものの背景にある「大きな動き」についての「解釈」を話す時間がなかったので、事前に用意した原稿に加筆修正してアップしてみます。話したかったのは「ネット一揆」の傾向についてでした。 今回からネット・活字の部門を担当させていただくことになりました藤田直哉と申します。よろしくお願いします。 基的にぼくが今回紹介するのは、ネット上の騒動を中心としたものです。特徴として、作者と消費者のあり方などを巡った争いが多い年でした。 昨年の顕著な特徴というのは、「ネット一揆化」が著しく進んだということといっていいと

  • 北海道芸術の可能性について――札幌ビエンナーレへの違和感 - the deconstruKction of right

    僕は美術に関して素人である。素人であることを発言の内容に対する免罪符にするつもりはない。素人ではあるが、素人なりに美術を楽しんできたつもりである。門外漢であるが、門外漢であるが故に、言えることはあるだろう。特に、コンセプトや開催概要、理念などについては、色々と言える部分があると思う。一応、文章を吟味=クリティークし、価値判断を下すということで、お金をいただいているわけであるし、その方法論について、多少は勉強する機会もあったのだから。 問題にしたいのは、札幌ビエンナーレと、そのプレ企画の「表現するファノン――サブカルチャーの表象たち」についてである。とは言え、「問題にする」あるいは「批判する」ということを、ネガティヴな意味で捉えていただくと、意味が違ってくる。人が批判、あるいは批評をするとき、その基的な動機には二つのパターンがある。1、ある期待のラインが高いので、それに向けて鼓舞したいとき

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