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ブックマーク / furuyatoshihiro.hatenablog.com (24)

  • 2023/06/11 - 偽日記@はてなブログ

    ⚫︎『水星の魔女』、21話(プロローグを含めると22話め)。前回までは、物語はどこまでも拡張していくかのような構えだったが、ここへきて急速に、物語が収束モードに入ってきた感じ。それも、無理矢理という感じではなく、収まるべきところに、見事にスーッと収まり始めた。とはいえまだ先は読めず、波乱要素もある(ラウダ!)。 ⚫︎「進めば二つ」というのは、進めば二つのものが手に入るという利己的な思想だが、そこから「何も手に入らなくても、出来ることをすれば良い」という、非利己的な倫理にスレッタの思想が変わっている。この、小さいが大きな変化をちゃんと描いているところがすごい。とはいえ、実はこれはミスリードで、この「何も手に入らなくても…」は、一義的には「支援に必要な物資が手に入らなくても、あるもので出来ることをすれば良い」という意味で、「自分の利益としては何も手に入れることができないとしても、なすべきことを

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  • 2023/07/03 - 偽日記@はてなブログ

    ⚫︎『水星の魔女』、24話(プロローグを含めると25話め)。こんな完璧な最終回があるのかという驚き。VECTIONのきくやさんは「水星の魔女」は「新古今和歌集」だと言っているが、唯一欠点があるとすれば「綺麗にまとまり過ぎている」というところか。とはいえ、「綺麗にまとまる」のレベルが、普通にそう言うときのそれとは一段も二段も違っている。全てのカットに意味があり、それらが一つでも欠けたら成立しない、というくらいの密度と精度だと思う。なのに、ギチギチではなくきちんと余裕もあって余韻がある(これはもう、0点何秒というレベルでの全てのカットの長さの操作、余白のレイアウトによるのだろう)。物語の展開としても、無理矢理に言いくるめるような、強引だったり欺瞞的だったりするところが差し当たり見当たらないのに、この複雑な話をちゃんとハッピーエンドと言えるところにまで持って行けているというのは、とんでもなくすご

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  • 2021-04-18 - 偽日記@はてなブログ

    ●保坂和志の「小説的思考塾 配信版 vol.3」で、話のマクラとして使うために「人は人に対して、どのように、権力・支配力・優位性を行使するか」という資料が配付されたのだが、これはとても重要なものだと思った。はっきりと分かりやすい立場や力の差があるような場面ではなく、日常的で、フラットな関係にあるようにみえる人々が集まる場において、微妙に優位に立とうとしたり、人を抑圧しようとする人が、それとははっきりみえないような形でとる言動のサンプルが10個書かれている。有料のイベントで話された内容をむやみに外に漏らすのはよくないのだが、これはすごく重要だから(状況の理解という意味でも、自分がそれをしないという自戒のためにも)広めたいという気持ちがあり、例を二つだけここに書きたい。 一つ目は、保坂さんが学生の頃に、自主映画の撮影のための合宿に参加した時の話。10人以上の人が参加した合宿で、プロデューサーの

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  • 2021-04-12 - 偽日記@はてなブログ

    ●細田守の新作『竜とそばかすの姫』がちょっとだけ気になってきている。主人公は17歳の女子高生で、彼女はリアルな世界では田舎に住む引っ込み思案な少女だが、ネットの世界では世界が注目する歌姫である、という設定をみると、完全に「日のオリジナル劇場用アニメの呪い」にがんじからめに縛られてしまっているように感じられるし、「そばかすの少女」というキャラ像もまた、なんとも古くさいもののように感じられる。ただ、予告編として公開されている映像のビジュアルを観ると、これはもしかするともしかするのではないかという期待が湧いてくる。インターネットというものをどのように映像として表現するのかということについて、今までの諸作品を大きく更新するようなものが、もしかしたら観られるのではないか、と。 『竜とそばかすの姫』予告1【2021年7月公開】 https://www.youtube.com/watch?v=hM8T

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  • 2020-09-15 - 偽日記@はてなブログ

    ●チャンネル登録者数が百万人を越えているYouTuberの動画を観ていて、その人が「ホンマに」と言った時に、「間に」と字幕が出て、ああ、誤変換のチェック漏れなのだろう、と思っていたら、次に「ホンマに」と言った時にも「間に」で、その後もずっと「間に」だった。登録者が百万人以上いて、ほとんどの動画が何十万回も再生されているのに、これを指摘する人は誰もいないのだろうかと思った。 それで、グーグルで「間に」を検索してみたのだが、どうも、最近では「ホンマに」を「間に」と表記する人が増えているみたいなのだった。「雰囲気」を「ふいんき」と読む、みたいな感じなのか。面白い。 《「ほんまに」は漢字では「真に」と書きます。 「真に」は、スマホですぐに漢字変換できないために、若い人の間で「間に」という誤字が流行っています。》 https://hinative.com/ja/questions/7

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    laislanopira
    laislanopira 2020/09/19
    「本間に」「ほんまに」
  • 2020-09-04 - 偽日記@はてなブログ

    ●『MIU404』最終回。なるほど。八話と九話で、(一線を越えた)小日向文世と(踏みとどまった)綾野剛という形で、二人の別々の人物として示された「二つのあり得た可能性(スイッチの切り替え可能性)」が、最終回では、並行世界的な(「シュタゲ」の---物理学的には間違った---用語で言えば)二つの「世界線」として示された。改めて、このドラマを支えている基が、縦に並べられる因果的連関というより、横に並べられる複数の可能性の分岐にあることが明確になったと思う。ただ、SFではないので仕方ないとは思うが、並行世界の両論併記的な並置を成り立たせるための物語装置が「ドラックによる幻覚」だというのは、ちょっと弱い気がした。 (とはいえ、橋じゅんの昏睡と覚醒が、星野源と綾野剛の昏睡と覚醒を促した---三人が同期するように次々と昏睡=意識消失状態に陥り、同期するよう覚醒する---という展開は、物語の「形」とし

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    ●アートが閉じてる、という話はやめた方がいいんじゃないだろうか。「閉じている(ように見える)こと」が、そのまま悪いことであるかのように言うのは思考停止だと思う。たとえば、芸術の特徴は、純粋な観客を必要としないという点にあると思う。芸術の観客はすべて(少なくとも潜在的には)「制作者」である。「人を詩人にするものが詩だ」(佐藤雄一)という意味で。つけ加えれば、「次の作品」をつくろうと(何かしらの意味での「制作」を行おうと)思っている者は、既に実績のある大家であろうと、未だ何ものでもない者であろうと、すべて等しく「潜在的な制作者」だ。 だから芸術は、けっして「現在」の市民のためのものではない。それは、「現在」の潜在的な制作者たちのためのものであり、それは結果として「未来」の市民たちのためのものとなるはずだ。国や地方公共団体が芸術にお金を出すのは、「現在」の市民生活を豊かにするためではなく、「未来

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    ●『ひるね姫』を観て、神山健治はどうしても「父」を中心においてしまうのだなあと感じた。いや、父というより、父の父としての「王」と言うべきか。つまりこの物語では、ココネの父のモモタローのことではなく、志島会長のことだ。最後の最後は、最高の権威である王様に直談判して悪者をやっつけてもらうという構図になっていて、お話としての収まりはいいけど、そうなってしまうと現代ではリアリティというのはなくなってしまう。 『東のエデン』でも、「王の不在」というのが主題となっていると思うのだけど、たとえ不在であっても「王」という位置を立ててしまったとたんに、物語が古くなる感じがある(ミスター・アウトサイドは、決して王の代理たりえない偽の王の代理であり、それに対し、主人公の滝沢は、代理であることが不可能であると知りつつ王の代理たろうと試みる)。あるいは「王」をたてるのなら「ウテナ」くらいに複雑にしつこく、それを脱構

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    ●しつこいけど『聲の形』についてもうちょっと。 この話は、恋愛的な雰囲気がかぶせられてはいるけど、重要な主題はあくまで「友達」の方にあると思う。それは、「石田と西宮は友達になれるのか」というだけでなく、同時に「石田と植野や島田や川井は(再び)友達になれるのか」というように、双方向に広がる。もし、西宮が石田を受け入れるのであれば、石田もまた、(石田を裏切り、いじめた)植野や島田や川井を受け入れられるはずだ、ということでもある。そしてそれは、石田が変われるのであれば、植野や島田や川井(の認識)も変わり得るということでもある。そして、彼らの態度は、二度目の関係のやり直しにおいて(あるいは、石田や西宮の行動を受けて)、十分ではないとしても変わり始めてはいる。だから、この話は、小学校のクラスの場を、再び、三度、あるいは何度でも(加害者/被害者という区分けをしたり、責任の追及をするのではなく「場-関係

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    ●昨日まで三日かけてしつこく『聲の形』について書いてきたことは、以下のようにまとめられる。 (1)石田は、自分は生きていることが許されない存在だと思い、気で死ぬつもりだったが、死ぬ前に二つの「落とし前」をつけなければならないと思っていた。一つは、母親に170万返すこと。もう一つは、西宮に直接会って、謝罪し、筆談ノートを返すこと。前者が石田を高校生になるまで生き延びさせた。 (2)しかし、ふたつめの落とし前を通じて考えが変わる。死ぬのではなく、生きて、西宮との関係(対話)をやり直すことこそが自分がすべきことで、もしかするとそれが可能なのではないか、と。 (3)以上の(1)と(2)が、『聲の形』という物語の出発点である。しかし、この物語が展開に向けて出発するためには、その前提として「小学校時代にあったこと」が具体的で詳細に示されていなければならない。 (4)しかし、アニメ版『聲の形』では、(

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    (昨日からのつづき) (3)映画では石田の家の事情がほやけている。石田は、学校では猿山のボスであり、西宮に対してはいじめる側にあって、優位な存在だが、彼の家は貧しい。石田の母は元ヤンキーであるように見え、彼女は、石田とその姉とを女手一つで育てている美容師である。姉は頻繁に付き合う男を替え、しばしば男を家に呼び込むが、そんな奔放な姉と彼とはカーテンによって仕切られているだけで、住居環境からも貧しさがうかがえる。一方、西宮の一家は高級そうなマンションに住んでいるし、妹は中学生なのに高価なカメラを買い与えられている。西宮もとても高価な補聴器を使用している(20万以上もする補聴器を8個も壊されるまで学校に文句を言ってこないとか、かなりお金に余裕があるからできることだと思う)。母親はインテリっぽい感じだ。 ここには、障がい者=弱者という紋切り型には収まらない社会関係の複雑さがあり、実際、石田の母と西

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    ●『聲の形』の原作(大今良時)の一巻を読み返してみた。改めてすばらしいと思った。昨日も書いたけど、この作品の終盤の展開については批判的なところもあるのだけど、この一巻に関していえば、まったく文句なくすごいと思う。この作品の二巻から七巻までの展開は、すべてこの一巻に支えられている。逆に言えば、この一巻の部分をきちんとやらないのならば、この作品を映画化する意味はないと思う。映画版のスタッフが、なぜ、ここをいいかげんにして(「いいかげん」というのはちょと強すぎる表現だが)この映画が成り立つと考えたのかが理解できないと改めて強く思った。ちがうことをやりたいのなら、他の原作を探すとか、オリジナルをつくればいい。たとえていえば、「問題」がきっちり提示されていないで、「答え」だけが示されていたとしても、どうしてこの問題からこの答えがでてくるのかがわからない。あるいは、このような「答え」が導かなければなら

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    ●地元のシネコンでようやく今日から『聲の形』(山田尚子)がはじまったので観に行った。 『聲の形』は原作を読んでいるのだけど、このマンガのすごさは一巻に集約されていると思っていて、一巻という核があるからこそ、その後の展開に説得力が生まれる。素朴で朗らかな、典型的な「男の子」が、どのようにして聴覚に障がいのある女の子をいじめるようになるのか、わずかな無知や行き違いからどうしてそんな酷いことにまで発展するのか、そして、それがどのように逆転して自分がいじめられるようになるのか、それによってどんな思いを味わうのか、その経緯と経緯を生んだ関係性とが、きわめて詳細に、説得力をもって、読んでいて胃がキリキリするようなリアルさで描かれている。よくこれが描けたものだと感心するのだが、子供の家庭環境や、教室の子供たちの微妙な人間関係や空気の変化、担任教師の無能さまで、描かれる出来事は精密機械のように綿密に関連し

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    ●作品をつくる、制作するということは、表現やコミュニケーションに還元されない。モノをつくる動機には、何かを表現したいということだけでなく「モノをつくりたい」というのがあると思う。 要するに、何かと何かを繋ぎ合わせたり、混ぜ合わせたり、切り取ったり、形をいじったりして、そこから別の何ものかが立ち上がってくる、ということをしたい。自分と、自分以外の何かが相互作用することで、別様の何かが自分の手元から生まれるという経験をしたい。そして、その別様な何かが生まれた時、自分もまた、少し別様のものに変化しているということを経験したい。 例えば文章を書くことだって、何かを伝えたいという動機があるだけではなく、言葉そのものや、あるいは物語や意味や概念や論理の、面白い組み合わせや形、美しい組み合わせや形をつくりたい、という動機がまず最初にあるのではないか。 勿論、そのようにしてつくられたものを、他人に理解して

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    ●『響け!ユーフォニアム』第五話。相変わらず濃すぎて息苦しいくらい。短めの前半に、特にこれと言った出来事はないものの、コンクール前の緊張が高まっていく描写があって、後半、一曲分の演奏場面をまったく省略なしで丸ごと提示して、エンディング曲を挟んで結果発表という展開は、事前に予想した通りなのだけど、それでも目が離せない。 シビアな演出だと思った。一方で、演奏の場面では普段は物語に絡んでこない部員ひとりひとりを登場させて場を与え、結果発表の後も、いろんな人のリアクションのバリエーションを細かく描き分けているのだけど、他方では、コンクールの結果が駄目だった別の高校の黄前の中学時代の友人は、顔さえ映されることなく、黄前たちの演奏がはじまるより前にバスで去ってゆく。そして、鎧塚は、(過去の経緯は全部無かったかのように)結果がよければすべて良しみたいな満面の笑顔だ。いや、さすがにその笑顔は屈託なさ過ぎて

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    ●『君の名は。』(新海誠)、すばらしかった。あえて不遜な言い方をすると、新海誠という作家がここまでできる人だとは思ってなかったので、たいへんに驚いた。当にごめんなさい、ぼくが間違っていました、と。冒頭の、隕石が落下するカットを観た時点で、これは当に傑作なのではないかと居住まいを正した。 (物語は、エリー・デューリング的な「グラッソ物語」みたいだと思った。) (『秒速5センチメートル』の主題を、感傷で流すことなく、『星を追う子ども』のような挑戦的で粘り強い姿勢を貫いて語り切った、という感じか。) 今までの新海作品に感じていた、納得のいかなさ、乗れない感じは、この作品にはほぼなかった。新海作品ではじめて保留なしにすばらしいと言える。過度に感傷的なものをゴリ押しされたらいやだなあと思っていたのだけど、新海作品で最も感傷が抑制されていると感じられた。音楽で感傷を過剰に盛り上げる場面は度々あるの

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    ●山現代に「Malformed Objects」を観に行った。 http://www.yamamotogendai.org/japanese/exhibitions 初日に行ったのは、なによりキュレーターの上世海によるステイトメントが(直接的にこの展覧会のステイトメントではないようだけど、展示がはじまる直前に発表されたのだから関係は深いはず)すごくクールで驚いたから。 「消費から参加へ、そして制作へ」(エクリ) http://ekrits.jp/2017/01/2243/ 《僕の考える現代社会の特徴は「情報空間」と「物理空間」の境目が曖昧になったというよりも、むしろ「情報空間」と「物理空間」が入れ子状にフィードバックループを形成しながら相互生成することで、「現実空間」を仮設的に瞬間的に構築している点にある。僕たちは事後的に「情報空間」と「物理空間」を区別するが、実際は持続する一つの「現

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    ●日特殊論みたいなのはあまり気持ちよくない(受け入れたくない)のだけど、いろいろな人の話を聞くと、どうも日は特殊であるらしい。この前、国際交流基金のレクチャーでゲームAIの研究をしている三宅陽一郎さんが、日で売れるゲームとそれ以外で売れるゲームはかなり違うという話をしていて、気になったので、欧米と東アジアで違うとかではなく、日と日以外が違うんですかと質問したら、そうだ、という答えだった。例えば中国韓国を考えても、国柄や土地柄で多少違いはあるとしても、基的にアメリカで売れるゲームが、中国でも韓国でも売れる、と。しかし日では、欧米で大ヒットしているようなゲームでもほとんど話題ならなかったりする、と。かつては日製のゲームが世界中で売れていた時代もあったけど、ゲームの精度が上がってくることで「細かな違い」が表面化して、売れなくなった、と。クオリティが上がって差異が明確化した、と。

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    ●「批判」と「異論」は違うという、『心の哲学入門』に書かれていた指摘はとても有益だと思う。「批判」とは、同じ文脈を共有し、その文脈をよりよい(より厳密な、正確な、精密な)ものにしてゆこうとするための行為であり努力である。だから「別の文脈」を示そうとする「異論」とは異なる、と。 あるいは、「批判」はゲームに乗っかって競争し、それを通じてゲームを盛り上げようとすることであり、「異論」は可能な「別のゲーム」を立ち上げようと努力することだろう。だから、その文脈には乗っかれないなあとか、その方向で行っても可能性を感じないなあという場合には、批判はできない。その場合はまったく別の前提を示して「異論」をたてるしかない。しかし、「異論」は既成の文脈を共有しない場合、そもそも言説として認められないことが多い。別の文脈があり得るということを認めてもらうのは、それだけで相当たいへんなことだ。 ●例えば「科学」は

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    ●ETV特集「よみがえる色彩 激動の20世紀アーカイブ映像の可能性」というテレビ番組を観た。なにかヤバい、見てはいけないものを見てしまったという感じがする。過去を冒涜するかのような鮮やかさというか、現前の暴力というものの(あまりに魅惑的な)力を見せつけられたようだ。キリスト教的な復活という概念のもつ感触の端っこに触れてしまったようでもあった。 (はじめてメガネをつくってかけた時の「こんなに見えちゃうのか」という感じにも近い。) 番組を観て判断する限り、技術的には大したものではなく、資料を調べて想定される色をデジタル的に塗り絵するという程度のもので、モノクロ映像のデータから直接的に色彩を読み取ることが出来るということではないようだ。だから、映像が撮られた当時の色彩が再現されたというより、多分に見世物的な演出効果(恐竜の皮膚の色は分かっていないのに恐竜の復元図には色がついている、というのに近い

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    laislanopira
    laislanopira 2014/03/24
    第二次大戦も戦後もモノクロではなく今と同じだった