松永成立の人生も17秒で変わってしまった。 1993年10月28日、試合終了間際のCKでイラクは意表をつくショートコーナーを選択する。クロスを上げる選手を三浦知良がブロックに行くが一歩及ばない。ゆっくりと飛んだボールはオムラム・サルマンの頭に当たり、松永が見送る中、ふわりと逆サイドのサイドネットに飛び込んでいった。 この同点ゴールがなければ、松永はワールドカップでゴールを守ることになっただろう。だが夢は叶わなかった。「ドーハの悲劇」で、日本はアメリカワールドカップへの切符を失ってしまった。 その2年後、横浜マリノスを退団し、JFLの鳥栖フューチャーズへ移籍する。だが1995年、1996年と4位で昇格を逃すと、フューチャーズは解散。松永はブランメル仙台に移籍、さらに京都へと活躍の場を移すことになった。 引退後は数多くのGKを育てるべく、様々なアイデアを活かそうとしている。松永はそんな半生をい